一章 十一節


 翌朝、午前休のアメリアは革張りの黒いソファに座し霊について考えていた。夏の始まりを思わせる暑い日だった。首筋から沸々と汗が染み出る。直射日光が当たるのでリビングのカーテンを閉めていた。しかし幾度きちんと閉めてもだらしないカーテンの隙間から日光が突き刺す。アメリアは顔を顰めた。隣で上半身裸のイポリトが小指で鼻をほじりつつテレビのニュースを眺めていた。


 コーヒーテーブルに置かれたアメリアの携帯電話が振動する。近くに座していたユーリエはそれを取ると差し出した。アメリアは液晶画面を確認した。


 ハデスから他神族の被害者データが送られていた。


 アメリアは驚いた。ハデスは不可能だと断っていた。きっとぬらりひょんがハデスや他神族を動かしてくれたに違いない。願いを聞き届けてくれたのだ。


「他神族の神々がこんなにも早く協力してくれたよ! 凄いね! ぬらりひょんって!」アメリアは満面の笑みを浮かべる。


「何処の家や施設に無断で入っても我が物顔のひょんひょんは主として認識されるからな。何処の神族の偉いさんだってハデスの親爺だって一番偉い主の命令にゃ逆らえんわな」


「我が物顔な所がイポリトと似ているかもね」


「ほっとけ」イポリトは鼻を鳴らすとテレビに視線を戻した。


 あとでぬらりひょんに礼の電話をかけようと決心したアメリアは被害者データを突き合わせた。


「おい」


「何?」


「バラバラ殺人の容疑者確保だとよ」イポリトはテレビ画面を指差した。


 報道陣に囲まれ、徐行するパトカーが映っていた。報道陣や野次馬でごった返す商店の通りは老舗刃物屋であるネイサンの店が映っていた。店主と妻とおぼしき壮年の夫婦が報道陣に囲まれ、青い顔で俯く。


 現場からニュースキャスターは早口で情報を伝える。警察は以前からネイサンに当たりを付けていたそうだ。ネイサンの部屋に踏み込んだ所、遺棄された遺体の一部と共に犯行に使われたと思しき凶器がリュックサックから出たらしい。その凶器からネイサンの指紋が検出されたそうだ。


「……んだよ。状況証拠だろ」イポリトは舌打ちした。


 アメリアの顔色は蒼白になり、唇が震える。彼女の手から携帯電話が滑り落ちる。


「……おい。大丈夫か?」イポリトは問うた。


 アメリアは我に返り、徐にイポリトを見遣った。


「……ネイサンはそんな酷い事しない! ネイサンは絶対に犯人じゃない!」アメリアは叫んだ。


「分かってるって。真犯人が逮捕されたならハデスの親爺が資料を送る筈ねぇよ。あいつはケチだからな」


「……真犯人って……ネイサンは真犯人の霊に濡れ衣を着せられたって事?」


「多分な。わざわざ他人の家に上がって下らん細工するくらいだから余程の恨みがあんだろうな」


 アメリアは唇を噛み、テレビを睨んだ。


 イポリトはアメリアが落とした携帯電話を眺めつつ、ラップトップのモニタに地図を出した。彼は被害女性が住んでいた場所にマーキングをした。


「てんでバラバラだな」イポリトは溜め息を付くとポケットからサンダーバード・コマンダーのキーを出し、立ち上がった。


「何処に行くの?」アメリアは彼を見上げる。


「現場百遍だ。デカい公園に行って来る。霊探しはお前の仕事だ。俺はストーカー探しだ」


「行動派ね」


「分からなきゃ頭働かせつつ体動かすのが俺のモットーなんだよ。取り敢えずストーカーの件を潰した方がお前も外歩き易いだろ」イポリトはライダースジャケットと黒いTシャツを掴むと背を向け玄関へ向かった。アメリアはソファから立ち上がるとイポリトの後を追いかけた。アメリアの後をユーリエが追いかけ彼女の肩に乗る。


 服を着てヘルメットを抱えるイポリトの背をアメリアは見つめた。


「んだよ。揃って見送りかよ。俺も出世したもんだな」大理石の三和土でブーツを履いたイポリトが鼻で笑う。


「……あのさ、ありがとう。気を付けてね」アメリアは口籠らずに礼を述べた。


「おうよ。お前もな」


 振り返りもせずに片手を上げるとイポリトはドアを開けて出て行った。


 イポリトを見送ったアメリアはモニタを覗いた。殆どの被害者は国内だったが国外の女性もいた。携帯電話を取ると被害女性の顔画像や年齢に眼を通した。


 どの女性も若く美しかった。ノーラで擦れ違ってユニコーンのストラップを落としたブロンドの女性や、百貨店で働く美容部員、名も知れぬグラビアモデルの画像がモニタに羅列する。


 胸騒ぎを覚えた。


 ──君は美しい。


 ──君は誰よりも美しいんだ。


 ──闇のように黒い髪、青白く光る不思議な瞳、意志が強そうな眉、小さくて可愛らしい唇、引き締まった体……アメリアの全てが僕は好きなんだ。……君はとても美しい。君の中に入りたい。


 脳内でコンラッドの声が反響する。


 氷よりも物悲しい冷たさを放つコンラッド。あたしの体しか見ていないコンラッド。『君の中に入りたい』ってファックしたいのかと想ってたけど違う意味で言ってたのなら……。


 ──寒気に注意。


 ティコは父さんの言葉を贈ってくれた。霊を見分ける一つの方法。


 ……店内はいつだって涼しかった。そしてあたしに触れたコンラッドの手や体も物悲しい程に冷たかった。親友のネイサンよりも。


 アメリアは溜め息を吐いた。論理的ではないし勘に頼るのは腹が立つ。しかしそれを無視したら胸騒ぎは収まりそうも無い。コンラッドは言葉通り、あたしの心ではなく体を欲しているのかもしれない。霊気を溜めて人の形になった霊体が、器が欲しいと、若く美しい女性を殺しているなら説明がつく。


 しかし何故彼は一人だけでは飽き足らずに次々と女性を手にかけるのだろう。何故命の灯火を奪った魂を手放さないのだろう。何故死神夫婦の右腕を切断したのだろう。そして何故ネイサンに罪を被せたのだろうか。


 直接確かめる他ない。


 唇を噛み締め、アメリアは立ち上がる。ブーツを突っかけてステュクスへ向かった。パンドラの匣を半ば引ったくるようにして借りるとアパートの駐車場へ向かう。


 パンドラの匣を握りしめ、正面玄関から地下駐車場へ下ろうとすると空からアイアンフェンスを鳴らす音が聞こえた。このアパートは単身者が多い。その上大通りから一本外れた通りなので昼間でも静かだ。昼間から大きな音がするのは珍しい。アメリアはアパートを仰ぐ。すると三階のベランダでユーリエがいた。彼女はフェンスの間から顔を覗かせてアメリアを見下ろしていた。


 アメリアは手を振る。


「またベランダ出たの? もう何があっても何処かに行っちゃダメだよ!」


 しかしユーリエは手を振り返さない。首を横に振り小さな手を懸命にフェンスに打ち付ける。大きな音が辺りに響く。ユーリエは違う事を伝えたいようだ。


「ユーリエ、どうしたの?」


 階段を駆け上がろうとすると背後から肩を叩かれた。冷たい手だった。


 振り返ると微笑みを浮かべたコンラッドが居た。アメリアは射すくめられた。


「やあアメリア」コンラッドはアメリアの手を取ると甲に冷たいキスを落とす。


「……どうしてあなたがここに居るの?」


 コンラッドは手を愛しげに握る。


「つれない事言うね。好きな女の子の家を訪ねてもいいだろう?」


「随分情熱的ね。……あなたがストーカーだったのね」アメリアはコンラッドの手を振り払い睨む。


「ストーカーなんて人聞き悪いな。僕は君を愛しているのに」


「住所なんか言った覚えも書いた覚えもないわ」


 アメリアの拍動が速くなる。お願い。気付いて。イポリト、音が聞こえるなら今直ぐ来て。


 コンラッドは微笑む。


「君を尾行して住所を知ったんだ。昨日のお裾分けは食べてくれた?」


「食べる訳ないでしょ、ザーメン入りのスープだなんて」


「僕の味を覚えて貰おうと想ったのに。残念だ。男を次々と乗り換えて悪い女だね君は」


「何よ、それ」アメリアはコンラッドの瞳を見据えた。


「……髪の長い痩躯の男に、下品で厳つい男、役者崩れの放蕩息子。君は色んな男とファックするくせに僕には振り向きもしないね」


「ファックした覚えなんてないわよ。家族や親友となんか絶対にしない」


「でもネイサンに君は熱を上げていた。楽しそうに話していた」


「そりゃ共通の趣味があれば楽しく話すわよ。親友と楽しく話すのは当然でしょ」


「僕は?」アメリアの腰に両手を回したコンラッドは肉薄する。


 動きを封じられたアメリアは切ない表情を浮かべるコンラッドを睨む。


「友達でも何でもない。あたしとやりたいだけのクソ野郎よ」


「それで結構」


 微笑みを浮かべたコンラッドはアメリアに息を吹きかけた。


 驚いたアメリアは口を開いた。彼の冷たい息を吸うと途端に意識が朦朧とする。手からパンドラの匣が滑り落ちる。アメリアは華奢な脚で踏ん張るが地面に崩れた。


 彼女を愛しげに抱き上げ首筋に舌を這わせるコンラッドをユーリエはフェンスを打ち付けつつ眺めていた。

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