一章 四節
翌朝、登山用リュックサックを背負ったイポリトを見送るとアメリアは仕事に出る為に地下駐車場へ向かった。ヘルメットを片手にキーを回しつつ歩いているとライダースジャケットの内ポケットで携帯電話が振動した。キーをジーンズのポケットに入れて液晶画面を見る。メールが来ていた。パンドラからだ。夕方五時に空港に代理の監視役の女神が到着するので迎えに行って欲しいと綴られている。アメリアは返信するとジャケットに携帯電話を仕舞って歩き出した。
今日から霊の見回りもしなくちゃ。気を引き締めて臨むぞ。彼女は黒いレディのシートにヘルメットを置く。夏用のジャケットのジッパーを引き上げると気持ちも引き締まった気がした。
郊外での仕事を三件こなした。午後は首都で二件あったので高速に乗って首都へ戻った。ランチタイムは過ぎたが仕事の時刻には早いので街を歩き、霊を探した。彼女の足は公園の側のドールショップ『ノーラ』の前で立ち止まった。
一目だけでも母に似た人形を見たい。窓から店内を覗いた。しかしユウに似た人形が陳列してあった場所には別の人形が飾られていた。アメリアは落胆して踵を返す。するとドアが開いた。
「あれ? 寄ってくれないの?」
背後でコンラッドの声が聞こえた。アメリアは振り返った。
「窓から綺麗な子が見えるなって出て来たんだ。そしたらアメリアだった。あの水色の髪の子も君を待っているよ」コンラッドは微笑んだ。
「あの……あたし、汗臭いしお金ないし」
アメリアは断りかけた。しかしコンラッドが微笑んで手招きするので少しだけ邪魔する事にした。
初夏の陽気とは違う涼しい店内に入る。ユウ人形はレジの側にある木製の小さな椅子に座して微笑んでいた。アメリアは微笑み返した。
「余程その子が気に入ったんだね」モザイク装飾のミニテーブルでコンラッドはペットボトルのアイスティーを二脚のグラスに注ぐ。
「見ないと落ち着かなくて。良かった、今日も居てくれて」
コンラッドはアメリアにグラスを差し出す。
「一目惚れだね。昨日、あれからお客さんが来てその子が欲しいって言ったんだ」コンラッドは冷えたグラスを呷った。
眉を下げたアメリアは両手の中のグラスに視線を落とした。
「だけど『売約済みです。ごめんなさい』って謝ったんだ。ごめんね、君に迎えに来て貰うって勝手に決めちゃって」
アメリアはコンラッドを見上げた。
「迷惑だったかな?」眉を下げたコンラッドは微笑む。
「そんな……! 迷惑だなんて。でもこんなに精巧な人形なら高価でしょう? あたし、お金持ちじゃないからいつその子を迎えられるか分かりません」
瞳を伏せたアメリアは昨日ブランドショップの袋を抱えていた事を想い出した。お金持ちだと勘違いされているのかもしれない。『年頃なんだからお洒落をしなさい』と怒る母からの仕送り金で叔父のイポリトに服を選んで貰ったと、嘘を交えつつコンラッドに説明した。
「成る程ね。『アイギパーン』のショップ袋を抱えてたから若いのにお金持ちだなぁって想ってたんだよ」コンラッドは微笑んだ。
アメリアは頬を染めた。
「大丈夫だよ。そんなに高価な物じゃないから」コンラッドはグラスをミニテーブルに置くとアルミ製の電卓を叩きアメリアに液晶画面を見せた。リストランテでワインボトルを交えた食事、二名分程の値段だった。
アメリアは眉を下げた。払えるには払えるが支払ってはガソリン代が出せなくなる。
「……残念ですが、そんな余裕はありません」
「じゃあこうしよう」コンラッドは電卓を叩いた。格段に下がった金額が表示される。
「そんな! ダメです! 商品の値段を易々と下げちゃ!」
コンラッドは首を横に振る。
「制作者が君に買って欲しいと想ったからいいんだよ」
「コンラッドさんがこの子を作ったんですか?」
「呼び捨てでいいよ、それと敬語もやめて。業者を通じて人形を販売する傍ら自分でも作っててね。服や小物も製作販売してるんだ。この子は僕の作品の何号かめ。材料費だけでいいよ」
コンラッドはアメリアのグラスを取り上げた。アメリアの手に彼の石膏のような指が触れる。冷え性なのだろうか。物悲しい程に冷たかった。コンラッドはレジの側のユウ人形を取り上げると差し出した。
「はい。これでこの子は君の子だ」
半ば押し付けられたアメリアは戸惑った。しかしコンラッドが微笑むのを見て微笑み返した。
「ありがとうコンラッド。でも代金を支払っただけじゃ気持ちが収まらない。何か出来る事があればお手伝いさせて」
コンラッドは天井を見上げて思案した末に口を開いた。
「じゃあお願いしても良いかな?」
「勿論!」
「アメリアは『アイギパーン』で服を買ったんでしょ? 着て来てよ。それをモデルに人形の服を作りたいんだ」
「そんな事でいいの?」
「センス良いけど高い服だから近くでお目にかかれなくてさ、作りたくても作れないんだ。君がオーナーで助かるよ」
代金を支払い、礼を述べるとアメリアは店を出ようとした。しかし黒いレディに乗って来た上に仕事が残っている事を想い出した。紙袋に入ったユウ人形の箱をサドルバッグに入れて持ち帰る事は叶わない。ドアの前で俯いて思案しているとコンラッドに声を掛けられた。
「どうしたの?」
「あの……バイクで来たから人形を持ち帰れそうにないの。日を改めて迎えに上がってもいい?」
コンラッドは微笑み『ちょっと待ってて』とバックヤードに入った。四十センチ程のプラスティック製の筒状バッグを片手に戻ると箱からユウ人形を取り出し、バッグに入れた。
「バッグは私物だから店に来た時に返してくれれば良いよ」
コンラッドはバッグの金具にショルダーベルトを通し、差し出す。
「たすき掛けにすると背負えるからバイクでも大丈夫。アメリアはかっこいいね、バイカーだなんて」
頬を染めたアメリアは礼を述べた。そして近々バッグを返しがてら服を見せに来る事を約束して店を後にした。
次の仕事の時間までアメリアはバッグを背負いつつ霊を探した。途中廃墟でポルターガイスト型の霊を一尾見つけた。しかしハデスに指定された霊ではないので踵を返した。二件の仕事を終え帰宅したのは夕方だった。バッグをリビングのコーヒーテーブルに置くとパスケースをジーンズの尻ポケットにねじ込み家を出た。
五時五分前には空港の到着ロビーに着いた。また何処からか視線を感じたが人が多い場所なので危害を加えられる事は無いだろうと我慢した。アメリアは代理のヒュプノスの女神が来るのを待った。航空機が到着したようで手荷物受け取り出口から少しずつ客が現れる。アメリアは携帯電話に送られた女神の画像を見つつ彼女を探す。ブロンドの長髪の女性。名前はティコ……じゃなくてテイコ。
出口を凝視しているとサングラスをかけた五分刈りの女がアメリアに手を振った。筋肉質な体にタイトなTシャツを着ている。胸がはち切れんばかりに大きい。
画像とは大分出で立ちが違うがテイコだ。随分想い切って髪を切ったな。アメリアは手を振り返した。
テイコは赤地に黒いドクロ柄のスーツケースを押しつつ駆け寄った。
「初めましてだね。お前さんがローレンスの娘のアメリアだろ。パンドラから聞いてるよ。あの奥手のローレンスに子供が居たなんてねぇ。別嬪で驚いた」テイコは微笑んだ。
「初めましてティコ……じゃなかったテイコ。どうして父さんを知ってるの?」
「この辺の地域じゃ言い辛い名前だろ? ティコでいいさ。ローレンスもそう呼んでたからね。イポリトがまだクソ坊主だった頃、育て屋としてあいつの教育をしたんだ。ちんまい坊主とは言えローレンスの監視役だから側に居なきゃならん。私もクソ坊主と共にローレンスと同居してたんだよ」
「じゃあイポリトの秘密いっぱい知ってるんだ」アメリアは悪戯っぽく微笑んだ。
「ああ。いっぱい急所を教えてやるよ。どうせ碌な奴じゃないんだろ?」ティコも微笑み返した。
意気投合した二柱は家へ向かった。
リビングでティコが荷解きをしている間、アメリアはバッグからユウ人形を取り出した。ユウ人形を抱え何処に座らせようか思案しているとティコに声を掛けられた。
「可愛い人形をお持ちだね」
「ありがとう。昨日一目惚れして今日買ったの」アメリアは頬を染めて微笑んだ。
ティコは顔を近付け、ユウ人形を凝視する。
「へぇ。随分細かく表現されてるね。しかも手書きだ。値が張ったんじゃないか?」
アメリアは首を横に振り、ユウ人形とコンラッドとの経緯を説明した。
ティコは悪戯っぽく微笑む。
「コンラッドとやらはお前さんに惚れてるね」
「変な事言わないでよ。彼とあたしは店主と客よ。それにイポリトの尻蹴っ飛ばしてバイクいじりと仕事に精を出す女の何処がいいのよ」
「お前さんもローレンスに似て鈍感だね。一点物の作品だろ? しかも素人目から見てもかなり精巧だ。そんな想いが籠った物を材料費だけで易々と手放すものか」
「……うん。まあそうだよね。親切な人だよね」
「一つ覚えておきな。家族以外の男ってモンは下心も無しに優しくしないよ。少しでも可能性があれば喰っちまいたいって想ってるのさ。それを利用して上手に駆け引きしな」ティコはアメリアの額を軽く指で弾いた。
「……コンラッドはあたしが好きなの?」アメリアは額を押さえた。
「アメリアは特別に可愛いからねぇ。パンドラから聞いてるよ。親想いで真面目でじゃじゃ馬で美人ときた。私が男だったら押し倒してるよ」ティコはアメリアの頭を掻き撫でた。アメリアは頬を真っ赤に染めた。
その晩ティコが作った夕食を食べつつ二柱は様々な事を話した。ランゲルハンス島の事、ティコが住む極東列島の南島の事、バイクの事、ハデスに頼まれた霊の回収の事。
「霊の回収なんて随分酷な事をハデスは命じたね」ティコは箸を使いスパムが入ったバサバサの汁蕎麦をすすった。
「被害者が女性ばかりって聞いて居ても立っても居られなくて。今日一尾だけ霊を見つけたんだけど指定された霊じゃなかったの」アメリアはフォークで蕎麦を巻いた。
「指定されたって奴はどの種類の霊だ?」
「人型だって。今日見つけたのはポルターガイスト型」
「人型ねぇ。一番厄介な奴じゃないか。勝算はあるかい?」
アメリアは首を横に振る。
「まだ何も。取り敢えず見つけなきゃって。座学の知識だけだから実際に見るのは初めてだもの。ねぇ、ティコは苦役で霊を捕獲した事あるの?」
ティコは豪快に笑う。
「罪科の有無を聞くなんて面白い子だね、お前さんは」
「ご、ごめんなさい」アメリアは頭を下げた。
ティコは微笑む。
「頭を上げな。……私はないよ。苦役中のヒュプノスの子供を預かる、育て屋の死神だからね。……でも人型の見分け方は聞いた事がある」
「教えて」アメリアはテーブルに身を乗り出した。
「……寒気に注意」
「何それ」溜め息を吐いたアメリアは椅子に座した。
「ローレンスの言葉さ。勘は鋭かったね。まあ本人は相当の霊嫌いで、街で見つける度に涙目になって逃げていたようだけれども」
「寒気ねぇ」青白く光る瞳をぐるりと回してアメリアは思案した。
「なんたって人間と見分けがつかないからね、人型は。人間と人型霊の違いなんて感覚で掴むしか無い。人間に多く接して仕事の場数を踏んでいる奴じゃないと感覚は養えないよ」
「経験が浅いあたしに何故ハデス様は頼んだのかしら? それこそ酷い言い方だけど苦役中の父さんに試練の一つとして与えれば最善策を取れたんじゃない?」
「ローレンスが十三の苦役を乗り越えてお前さんの教育に腰を据えた折りに発覚した事案さ。ハデスはローレンスに霊の捕獲を課そうと思っても正当な理由が無いので出来ない。そうこうしている内にローレンスが死んじまった。場数こそ無いがお前さんにはローレンス譲りのセンスがある筈だとハデスは踏んだのさ。だから情に訴えかけた上に『チャレンジ』というオブラートに包んで報酬を添えて捕獲を命じたのさ」
ステュクスでイポリトとハデスと三柱で話を交えた事をアメリアは想い出した。あの時のイポリトはやけにハデスに突っかかっていた。
──それは頼みじゃなくて『命令』じゃねぇのか
──おい、こいつは罪を犯してないぜ。それにまだひよっこだ。荷が重すぎるんじゃねぇのか?
──おい、そうやってアメリアの情に訴えかけるなクソハデス。お前も易々と引き受けてそんな大役務まるのかよ?
「イポリトが言ってた通り、ハデス様はあたしに霊の回収を『頼んだ』のじゃ無くて『命じた』の?」アメリアは眉を寄せた。
ティコは頷く。
「嫌なじじいだ。最初からお前さんに拒否権は無かったんだ。断った所でなんらかの形でやらせようと企んでいた筈だ。あいつには気を付けな」
アメリアは溜め息を吐いた。
「ま、そんなに落ち込む事はないさ。お前さんには味方が居るんだから。ところで最近イポリトは何してるんだい?」ティコは微笑んだ。
「何って……多分相変わらずだと思うよ。人前で耳や鼻をほじるし娼婦さんをリビングに上げてあたしを閉め出しにするし、娼婦さんとファックした後のゴムをゴミ箱に捨てないし、時間にルーズだし、バスルームで鉢合って裸見られるし最悪よ」
「相変わらずスケベなクソガキだね」ティコは豪快に笑った。アメリアはティコの笑い方がイポリトに似ていると思った。
「本当。迷惑掛けられっぱなし。……でも優しい所はあるんだなって最近分かった」
「あいつは早くに母ちゃん亡くしたから貴賎問わず女に優しいからね。それこそ下心の無い優しささ。ちゃんと家族としてやってるようで安心したよ」ティコは丼に口を付けた。
「家族……か」アメリアは虚空を見つめた。ランゲルハンス島に逝った父や母を想い出す。
「それでも憎たらしい事言われたら『棹付きモリーと結婚した癖に』って言ってやりな」ティコは嫌な笑いを向けた。
「何それ?」
「それはクソ坊主に聞いてからのお楽しみだ」
食事を終え、アメリアは自分の部屋を使って欲しいとティコに頼んだ。ティコは『リビングのソファで眠るから充分だ』と断った。しかし客人をそんな場所で休ませる訳にはいかない。アメリアは再度、自分の部屋を使って欲しいと頼んだ。
するとティコは折衷案を出した。
「じゃあクソ坊主の部屋でも使うかね」
アメリアはイポリトの言葉を想い出した。
「イポリトが『私物に触るな。あとベッドも使わせるな』って。それに自作のエロフィギュアやら模型やらでぐっちゃぐちゃで足の踏み場も無いの。お客さんを泊めるのにはちょっと……」
ティコは唇の片端をつり上げて微笑む。
「ほーん。『ベッドを使わせるな』ねぇ。またクソ坊主は下らない主義を掲げては律儀に守ってるんだねぇ」
「何それ?」
「男の美学だとさ。ああ見えて面倒臭い男なんだよ」
「ふうん」
「しかしクソ坊主の部屋は昔から宝物があって面白いからな。明日家捜しついでに整理整頓と掃除してやるよ。どうせうっちゃらかって酷い有様なんだろ?」
「……うーん。私物に触るなって言ってたからマズいんじゃない?」アメリアは眉を下げた。
「捨てたり壊したりはしないよ。使い易いよう整頓してやるだけだ。床に山積したエロフィギュアも棚に飾られればフィギュア冥利に尽きるだろ?」
ティコの提案にアメリアは納得する。
「そうだね。壊れないように大事に扱ったり勝手に捨てたりしないなら整理整頓すると物は喜ぶよね」
「じゃあ決まりだ。明日はクソ坊主の部屋を家捜しする」ティコは悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃああたしが一歩譲ったんだから、ティコはお客さんらしくあたしのベッドで休んでね」アメリアは微笑み返した。
「分かったよ。お前さんの部屋で休むよ。……明日家捜し終ったら観光でもしようかな」
「あたしの監視はいいの?」アメリアは眉を下げた。
ティコは豪快に笑う。
「お前さんは真面目だね。こんなしっかりした娘がローレンスみたいに問題ばかり起こす訳ないだろ」
「でもハデス様は父さんの血が絶えるまで監視を付けるって」
「ほーん」
「でも不思議だよね。監視されてる筈なのに全然イポリトの気配を感じないんだもの。偶に後ろを振り返るけどイポリトを見かけた事無いしGPS付けてる訳じゃないのにどうやって監視してるの?」
「聴力だよ」ティコは片眉を上げて微笑んだ。
「聴力? どう言う事?」
「クソ坊主やローレンスから聞いてないか? クソ坊主も私も『地獄耳』って特定の音を聴く能力を持っているんだ。クソ坊主の家系は特にその能力が優れていてね、半径十キロ圏内まで音を聞き分けられるんだ。それで代々ローレンスの声や呼吸音を聞き分けていたって訳だ。師匠の私はクソ坊主より少し劣るのが悔しいけれどもね」
「半径十キロなんて……ハンスおじさんも地獄耳の能力持ってたけどそこまで及ばなかった。イポリトって凄い」アメリアは思わず溜め息を吐いた。
「その上色々な才に愛されているんだよクソ坊主は。芸術やら料理やら武術やら死神にしておくのは惜しい男だ」
「ただのガサツな男に見えるけど」
「付き合っていく内に分かるよ。……しかしクソ坊主の頼みなら聞いてやらにゃならんな」
「頼み? 何それ?」
「それも聞いてないのか。参ったね」ティコは豪快に笑った。
「な、何よ」アメリアは眉を下げた。
「私はクソ坊主に頼まれて監視役を引き受けたんだ」
「え。イポリトはパンドラに人選を任せたって。……どうしてあいつ嘘吐いたの?」
「何処の誰とも分からん奴に任せるよりも、腹の内を知っている奴の方が安心出来ると想ったんだろ。いい加減なクソ坊主でもお前さんを家族として認めているんだよ」
「ふうん」
アメリアは唇を尖らせた。しかし『家族』と言う語は父を亡くして冷えていた胸の内を暖かくした。
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