第12話 静けさの中の牙



王城から程近く、騎士団の宿舎区画の外縁。

その一角にある、外部来賓用の簡素な宿泊棟。

そこが、フェイに用意された滞在先だった。


石造りの外壁に囲まれた建物は見た目こそ堅牢だが、内装は実用本位で落ち着いている。

備え付けのベッドに腰を下ろしたフェイは、クッションの弾力を試すように背中を倒した。


「……うん、まぁまあ。硬すぎず、柔らかすぎず、だね。悪くない」


天井の梁を見上げながら、軽く足を組んだ。

部屋の窓からは、遠くに城の尖塔がのぞいている。が、そこに特別な感慨を示すこともなく、目を閉じる。


「“さて”だよな……さて、何がどうなることやら」


ぽつりと呟き、深い眠りに身を預けた。



その頃──


エヴァは、自室の小さな机に向かっていた。

旅の装束を脱ぎ、軽装のシャツ姿で椅子に座る彼女は、ランタンの光に照らされて静かに目を伏せている。


あの男の軽薄な振る舞い、王との謁見、そして……ライアスの視線。


一つ一つを思い返すたびに、何かが胸の奥をわずかに引っかく。


(今はまだ、すべてが見えてるわけじゃない)


そう自分に言い聞かせるようにして、目を閉じた。

一度深く息を吸い、肩の力を抜いてベッドへと向かう。


剣士としての直感が、何かが動き始めていることを告げていた。

だが──それをどう迎えるべきか、すぐには答えが出せない。


毛布をかぶり、天井を見上げる。

目を閉じるその直前、心の中で誰にも聞こえない言葉が零れた。


(明日は……動こう)



そして翌朝。


まだ陽が完全に昇りきる前、城の奥、訓練棟の先にある練武場には、既にエヴァの姿があった。


空気は澄み、静けさの中に砂の擦れる音だけが響いている。

床は踏み締めるごとに細かく鳴き、木製の人形が中央に据えられ、使い込まれた痕跡を全身に纏っている。


陽光が東から差し込み、石の柱の間に長い影が伸びていた。

その中で、エヴァは静かに剣を抜いた。


刃が空を裂くたび、空気が震え、体を駆け抜ける。

鋭く、速く、無駄のない動き──まるで舞踏のような流れ。


剣を振るうことで、余計な思考を削ぎ落とし、ただ身体を研ぎ澄ます。


それが、彼女にとっての「整える」時間だった。


──その気配に、ふと背後の風が揺れる。


「相変わらず真面目だね」


軽く、風に乗って届いたその声に、エヴァは肩越しに振り返りもせず、淡々と答えた。


「……それは嫌味か何か?」


「いやいや、ただの感想。通りかかっただけ──って言うと、嘘くさいかな?」


振り向けば、練武場の塀の上に、いつの間にかフェイが座っていた。

脚をぶらりと垂らし、ひとつ傾げた頭で気楽そうに笑っている。

その佇まいは、まるで練武場の張り詰めた空気を一瞬でほどいてしまうような、柔らかな風のようだった。


だが、エヴァの目は細かく彼を観察していた。


(……最初から見てたわね)


フェイの目はごまかしの笑顔の奥で、鋭くすべての動きを見ていた。技の軌道、足さばき、呼吸の取り方──すべてを無言で計っていた視線だった。


「だったら最初から見てたって言えばいいのに」


「ほら、きみの集中を邪魔したくなかったっていう、優しい心遣いってことで」


「……相変わらずね、口だけは」


エヴァは呆れたように言いつつも、剣をゆっくりと鞘へ納める。

その動作の滑らかさに、フェイは目を細めてひとつ息を吐いた。


「でも、やっぱりすごいよね。剣の軌道が無駄なくて、気配の扱い方も洗練されてる。団員の中でも、かなり上の方じゃない?」


「……そんな評価をもらっても、困るだけなんだけど」


「いやいや、本音で言ってるだけさ。僕の目は節穴じゃないからね」


フェイがぴょん、と塀から飛び降りると、その着地にはまったく音がなかった。

靴底が地面に触れたはずなのに、空気の揺らぎすら感じさせない。まるで、彼自身が風に紛れていたかのようだった。


そのときだった。

 練武場の奥、石畳の向こう側から、靴音をぶつけるように響かせて近づいてくる者がいた。強引に空気を割って入り込むような足取り。やがて、甲高く乾いた声が響いた。


「──おいおい、また真面目にやってんのかよ、月の姫さまはよ」


 嘲笑を含んだその口ぶりに、エヴァは剣を収めかけた手を止めた。振り向かずとも誰の声かはわかる。

 声の主は、第六騎士団所属の男、ラウク・ガルズ。肩幅の広い体格と、がっしりとした顎骨が目を引く粗野な印象の騎士だった。装備は簡易な訓練用の胴衣。だが、その身のこなしは歴戦の現場で鍛えられた実力者のそれだった。


「いつ来ても堅っ苦しいよなぁ、あんたは。そんなんじゃ疲れるだろ。遊びって言葉、辞書に載ってねーのか?」


 悪びれる様子もなく近づいてきたラウクは、エヴァの前で足を止めてにやりと笑った。


「騎士団の看板背負ってるって自覚、もうちょい持ったほうがいいんじゃねーの? 肩に力入りすぎてんだよ、昔っからさ」


 エヴァは視線を返すことなく、黙って汗を拭うと一言だけ返す。


「……同じ話を繰り返すのが、お好きなんですね」


 その声色には、うんざりとした響きが混じっていた。だがラウクは気にも留めず、楽しそうに鼻で笑う。


「そりゃあ言ってやらねぇとな。でなきゃ勘違いしたまま突き進むんだろ? まあ実戦に出れば、すぐに現実がわかるさ。特に、あんたみたいな綺麗なだけの──」


 剣に触れようとするエヴァの指が、ピクリと動いた瞬間。


「──それくらいにしといたら?」


 軽く、だが妙に通る声が練武場の静けさを裂いた。


 視線を向けると、塀の上から降りてきたフェイが、手をひらひらと振りながら歩み寄っていた。

 戦装束ではなく、ただの薄手のシャツにゆるいズボン。徽章も何もつけておらず、ただの旅人にしか見えない──のに、その立ち姿には妙な安定感がある。

 構えてもいないのに、“戦える”と直感させる空気。そういったものは、戦場に立った者ほど敏感に察知できる。


「……誰だ、お前は」


 ラウクが目を細め、怪訝そうに声を荒げる。


「通りすがりの観客。まあ、ちょっと気になる場面だったから、ひと言ね。口の利き方があんまりだったよ」


 その言いぶりが癪に障ったのか、ラウクの頬が引きつった。


「観客が騎士団の訓練に口出しとはな。……言ってくれるじゃねえか。じゃあ、口出すからには、それなりに“やれる”ってことだよな?」


 言いながら、剣架に手を伸ばす。

 引き抜かれたのは、訓練用の模擬剣──刃こそ潰してあるが、芯は金属。脳天に入れば軽く気絶、肋に当たれば折れる。要するに、洒落にならない程度の実力を試せる代物だった。


 フェイはというと、わずかに片肩をすくめ、のんびりと首を回す。


「やれやれ、またこうなる。まあ、一本だけね。あんまり痛いのは好きじゃないんだよ」


「ふん、口だけはよく回るな。……いいぜ、一本勝負ってことで」


 ラウクが構えながら、斜めにエヴァを指差した。


「そっちの彼女が、見届け人でいいな?」


「……私が?」


「そうだ。どうせ団員だろ? お前の連れがどの程度か、よく見といてやれって」


 エヴァはためらいがちに視線をフェイへ向ける。

 だが、彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、ぺこりと軽く頭を下げた。


「どうぞ、よろしく」


「……わかりました」


 短くそう答えて、彼女は剣を置き、わずかに距離を取る。

 その場に静寂が戻った。


 ふたりの間合いは、ちょうど模擬剣一撃分。

 どちらかが先に動けば、必ず決着がつく。


 エヴァは短く息を整えると、静かに片手を上げた。


「……一本勝負。始め──!」


 空気が変わったのは、その直後だった。

 ラウクの足が石畳を強く打ち鳴らし、踏み込みと同時に模擬剣が振り下ろされる。重く、鋭く、まるで“模擬”という言葉を忘れたかのような一撃だった。

 その軌道は真正面から一直線にフェイの肩口を狙っていた。全力で叩きつければ骨を砕く威力はある。だが──


 その刃がフェイの身体に届くことはなかった。


「や、やめ──!」


 エヴァの声が空気を震わせる寸前。

 それよりも早く、甲高い金属音が練武場に響き渡った。


 甲冑が打ち合ったような強烈な一閃。

 視線が弾かれた方へ向いたときには、ラウクの手から模擬剣が吹き飛ばされ、練武場の片隅へと跳ねて転がっていた。


 フェイは、微動だにしていない。


 構えた様子もなく、ただ一歩も動かずに片手で――

 それも、あまりにも自然な動作で剣を弾き落としていた。


「……一本。ありがと」


 柔らかい声で告げられたそれに、ラウクは一瞬、何が起きたのか理解できず、茫然と空の右手を見つめる。

 指先がまだ、柄を握っていたはずの感触を探していた。


「な、に……っ」


 やがて、顔が赤く染まり、怒気が噴き出すように溢れてくる。


「てめぇ、ふざけやがって……ッ!」


 再び詰め寄ろうと前に出ようとした、その瞬間──


「そこまでだ、ラウク」


 低く、だが透き通るような威厳を帯びた声が響いた。

 練武場のどこからか、空気そのものに釘を刺すように現れたその声は、見えないが確かに存在感を放っていた。

 そして、それが誰の声であるかを知る者なら、無視することなどできない。


 ラウクの動きが止まる。

 視線が宙を泳ぎ、険しい顔で舌打ちする。


「……チッ」


 それ以上は何も言わず、彼は剣も拾わずに踵を返した。

 忌々しげな視線だけをフェイに向け、足早に練武場の端へと姿を消す。


 フェイは去っていく背中に向けて、特に何かを言うこともせず、ただひらひらと手を振った。


 静寂が戻る。

 だが、練武場の屋根の陰、柱の裏、土塀の隙間──

 そこかしこに、複数の“影”が潜んでいた。


 動く気配はなかったが、彼らの眼差しは確かにこの場のすべてを見届けていた。


 やがて、沈黙を破ったのはエヴァだった。


「……見事な動きだったわ」


 感情をあまり顔に出さない彼女の目が、わずかに見開かれている。

 そこには驚きと、興味、そしてほんの少しの──尊敬が滲んでいた。


 フェイは軽く首をかしげて、いつもの調子で答える。


「そう? そんな大げさなもんじゃないよ。反射っていうか、まあ偶然ってことで」


「偶然で、相手の剣をあの角度から一撃で落とすなんて、普通はできません」


「うーん……言い合いなら完敗な気がしてきた」


 肩をすくめるようにして笑いながら、フェイは模擬剣を剣架に戻す。

 その背を、エヴァはしばらく黙って見つめていたが──やがて、ゆっくりと自分の剣を取り直す。


「……よければ、私とも一本、お願いできますか?」


 その声音には、いつもの冷静さの奥に、かすかだが確かに熱が宿っていた。

 フェイは振り返り、目を細める。


「……いいけど。痛いのはなしでお願いね」


「加減できるかどうかは、あなた次第」


 そう言ったエヴァの口元には、珍しくほんのわずか、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

 まるで、ようやく面白い相手に出会ったかのように。

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