五滴 Wonderwall

 図書館からの帰り道で泣いた日から、私は藤野さんとは一度も逢っていない。逢わないようにしていた、と言った方が正解である。仕事を終えて彼がやってくる夕方までには帰るようにして、遭遇を避けていた。街頭の銀杏の匂いが鼻につく季節だった。

 そんな折、藤野さんは再び私の前にひょっこり現れた。昼下がりに図書館の五階にあるカフェテリアで少し遅いランチを取っていた時だった。彼はまたいつかの時のように私の前の席に腰を下ろした。

「久しぶり」

 藤野さんは例の猫の顔をして笑った。

「画廊でのお仕事はどうしたのですか」

 月見うどんの最後の一本をすすりながら私は尋ねた。

「オーナーがイタリアに行っちゃって、お休み」

 藤野さんが頬杖をつきながら答えた。時間帯のせいか、六本木が遠くに眺められる広いカフェテリア内には私たち以外に誰もいない。

「俺、ちゃんと君の答えを聞かせてもらってないよね」

 正面にある猫の目がまっすぐ私を見据える。普段とは違って、前髪の奥の瞳はちっとも笑ってはいなかった。

 長い沈黙が流れた。奥の厨房で食器を洗う水の音とかちゃかちゃとお茶碗がこすれ合う音だけが響いた。重い雰囲気に耐えきれずに私は借りてきた本を開いた。そして、言った。

「私、自分の世界とは違うものを受け入れられない」

 口火を切った途端、頭のなかで悶々と考えてきた今までの全てを早口でぶちまけていた。生きてきて今まで誰にも言えなかった秘密を彼に打ち明けた。幼い頃から培ってきた自分だけの空想の世界があること。異様に巧くなった自給自足の娯楽提供のお陰で、独りでも楽しく過ごしてこられたこと。自分の想像とはまるで違う現実には見て見ぬふりをして生きてきたこと。藤野さんは好みのタイプではないこと。本来は好みでも何でもない筈なのに、藤野さんが自分のことを好きと言ってくれて困ったと同時に嬉しかったこと。

「ですが、あなたの存在が私を崩壊させそうで、取り返しがつかなくなりそうで、とても怖いんです。だから残念ですが、お気持ちにはお応えできません」

 最後の言葉だけはゆっくりと、途切れ途切れに口からこぼれた。終始ずっと俯いて手元の本を見つめ、藤野さんの顔は見ないようにして話した。突然に蹟を切ったかのように始まった私の心情吐露を、藤野さんは頬杖をついたまま微動だにしないで静かに聞いていた。私は一気にまくし立てるように言ったので酸欠状態になった。はぁはぁと息を整える音だけが残り、やがて再び長い沈黙が訪れた。

 藤野さんは遠くを眺めて、何か長考しているようだった。ようやく彼はついていた頬杖を下ろした。かちゃんと机に触れた指輪が鳴った。

「分かった。怖がらせて、悪かった」

 そう呟くように言うと、彼は足音も無く席を立った。心なしかいつもより酷くなった猫背と、後頭部に一本だけ生えた白髪が妙に目に焼きついた。

 私は、本当に、いよいよ頭がおかしいのではないかと自分でも思う。せっかく好意を打ち明けてくれた人を、こんな風にして、いつも大切に出来ない。自分が不甲斐ない生き物のように感じてくる。生きている人間を悲しませても守る自分の世界に、本当に価値があるのか疑問に思えてくる。

 私は藤野さんに何と言ってもらいたかったのだろう。予測不可能な現実に脅えて、自分の世界を守り続ける私に一体何が残るのだろう。本当に守りたかったのは自分の世界でも何でもなくて、傷ついて涙を流す弱い私自身だったのではないか。目に見えないし、触れることも出来ない、空想の世界、妄想の産物。誰も私を傷つけないし、私も誰も傷つけない。全てが自由であり、完璧な世界。しかし、結局は、誰も私のそばにいない。きっと、これからも、私は独りぼっちだ。



 東京都民の税金で運営する広尾の図書館は、原則として土日祝日とは無関係に開館する。しかしながら、月に一度は館内資料整理と称して終日閉館する日が存在する。その日は締め切りが差し迫った卒業論文にも身が入らず、私は自宅でこたつに入ってぐだぐだと過ごしていた。大して面白くもないお笑い芸人がテレビで漫才をやっていた。

「あんた、留年しても学費出してあげないからね」

 隣でこたつに入っていた母がみかんの皮を器用に剥きながら言った。漫才の笑いどころに差し掛かったらしく、あははと彼女は大口で笑った。

「お母さん」

 母はすっかり丸くなった指でみかんを次々に口に放り込む。

「何」

「お母さんて、お父さんとなんで結婚したの」

「何言ってんの、急に」

 みかんを食べるのを止めた母は真顔になって振り向いた。

「だってお母さんの好みって高倉健だって言っていたじゃない。うちのお父さん、どう見てもお笑い芸人のアンタッチャブルの山崎じゃん」

 母はみかんが乗せられた籠ごと手前に引きよせて、片手で一気に三個掴んだ。

「そりゃあね、お母さんだって出来れば高倉健みたいなハンサムな人と結婚したかったわよ。でも、年齢が年齢で高望みばかり言っていられなかったし。結婚してくれなかったら死ぬって泣きつかれちゃったし。だから人助けのつもりで結婚してやったのよ。あんなお父さんと結婚したんだから、お母さんはノーベル平和賞貰っても良いくらいよ」

 愚痴ともつかない結婚エピソードを、母は素早く三個のみかんを丸裸にしながら話した。相変わらず芸人より面白いことを言う人だなと思った。

「なら、好きでもないのにお父さんと結婚したの」

「そんなことは言ってないでしょ」

 母は三個のみかんを持つ手をぴたっと止めて、しばらく間をあけて、言った。

「確かに最初は実を言うと好みじゃなかったわよ。でもね、お父さんは不器用だけど心根は優しい男だし、何よりも他人には無い才能があったから、お母さんは支えていこうと思ったの」

 新曲のタイトルが『油』ってなんやねん、という芸人の突っ込みがテレビからうっすらと聞こえてきたが、そんなことはもうどうでも良かった。

「人生は思い通りにはいかないけど、思い通りじゃないからこそ楽しいこともあるし、新しい可能性が見えてくるのかもね」

 私は母の剥いてくれたみかんを受け取り、一粒口に入れ、ゆっくりと咀嚼した。

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