水しか描けない

一滴 Sally Cinnamon

　冷たい風を頬に受けて、私は図書館までの道を歩く。日が暮れるのがとても早くなった。六時でもほんの少し西に赤い空を残してあたりは真っ暗だ。広尾は周辺に大使館が多い土地柄のせいか、外国人がやたらと多い。車一台がやっと通れるくらいの狭い道を歩いていくだけで既に三人の外国人とすれ違った。もう少しすれば雪が降りそうな気配がする。

　 一人っ子で生まれ、五歳のとき一年間の半分は雪が降る土地に引っ越した。途端に母が見知らぬ土地の人間を怖がり、私をあまり外へは出さなくなった。外で遊べなくなった私は、必然的に家のなかで遊び相手を作るほか無かった。おじさんに買ってもらったウサギのぬいぐるみや、髪が抜けてすっかり薄くなってしまったリカちゃん人形たちと日が暮れるまでおままごとやかくれんぼをした。当然のことだが、彼らが隠れていてもすぐに見つけてしまうが、私が隠れても彼らは一向に探しに来てくれない。いつしか私は隠れていることを忘れて寝てしまった。

　せっかく隠れても誰も見つけてくれない、ぬいぐるみ相手のかくれんぼに飽きた頃、私は新しい遊びを思いついた。頭のなかで何でも言うことを聞いてくれる「友達」を作ったのだ。「友達」は私が逢いたいときいつでも逢いに来てくれるし、セーラームーンごっこをしても主役のセーラームーンを取り合いになることもない。必ず私に譲ってくれて自分は脇役になってくれた。幼馴染の女の子と遊ぶより思い通りにことが進んでとても楽だった。やがて私は脳内で「友達」と自分だけのストーリーを組み立てることに夢中になっていった。

　「友達」といる方が、話しかけても応えてくれない玩具や、仕事で疲れて寝てばかりの父親と一緒にいるよりもずっと刺激的で楽しかった。

降りしきる雪を眺めながら窓枠に頬杖をついて、いるはずのない「友達」に私は空想のできごとを話して聞かせた。あるはずのない今日いちにちの出来事を飽きることなく何時間も話し続けた。

　成長すれば、嫌でも全てを理解し始める時がやってくる。「友達」は初めから存在などしない。それでも私は自分が作り上げた空想の世界を守ることに必死だった。世間でいうところの「不思議ちゃん」に近い感性である、と説明すれば分かりやすいかもしれない。思春期に突入した頃、ある変化が訪れた。貪るようにして読んだ少女漫画に出てくるような、目が大きくて睫毛が長く鼻筋の通った彼氏がたまらなく欲しくなったのだ。いつの間にか「友達」は理想の「彼氏」に姿を変えていた。頭のなかでおしゃれな「彼氏」と私は、ある時はお台場の海岸で追いかけっこをし、またある時はエッフェル塔に手に手を取って登り、またある時はメキシコで龍が昇るインカ帝国の宮殿で命知らずの大冒険を繰り広げた。

　しかし残念なことに、現実世界においてそのような「彼氏」はなかなか現れなかった。せっかく勇気を出して私に愛を打ち明けてくれる男性たちは、ことごとく理想の「彼氏」とはほど遠かった。想いに応えられず相手を傷つける辛さに苦しみながら、いったい何人もの男性を哀しませてきただろうか。なんと私は罪深い女だろう。偉そうにお付き合い出来ない理由を述べる自分は、何様のつもりをしているのだろうか。それも全て、孤独な幼少期の頃に培った独り遊びによる弊害である。一人っ子として生まれてきたゆえに、自分が自分自身を楽しませなくてはならない。究極の自給自足の娯楽提供、それが空想の世界に生きることだ。空想の世界なら、誰も傷つけないし、誰からも傷つけられない。全てが自由であり、完璧である。しかし実際問題、誰も幸せにはなっていない。振られた彼らも、いつまで経っても独りの私も皆まんべんなく不幸だ。私は平和でおめでたい空想の世界に長い間どっぷり浸っていたために、今、現実世界での差違に戸惑い、苦悩しながら生きている。

　彼と出会ったその日も、私は提出しなければならない大学の論文中間報告書のことなどそっちのけで空想に浸りながら帰路についていた。あまりにスペクタクルな展開に夢中になりすぎて周りが見えなくなることがよくある。あの時もそうだった。前方に陽気なアラビア語を話しながら歩いている中東系の男たちの存在など目の端にも映らなかったのである。私は案の定彼らにぶつかった。ぶつかったと表現するよりも、軽く突進していったといっても過言ではないだろう。当然、中東系の男たち三人のうち後ろの一人が私に気付いた。

　アラビア語で何か言ってくる。にやにや怪しく笑っている様子から察して、お嬢ちゃん可愛いじゃん、今夜どう？　ギロッポンに最高なバーがあるんだけど、と言っているに違いない。私は無視して先を急いだ。話しかけた男がいきなり腕を掴んだ。また何かアラビア語でごちゃごちゃ言っている。おいおい、ぶつかってきておいてそりゃないよ、お嬢ちゃん、とでも言っているのだろう。

　いよいよ私は怖くなってきた。確かに、ぶつかっておいてちゃんとした謝罪の言葉一つとしてないのは道徳的に反している。その点においては私も充分に悪い。だがしかし、いきなり見ず知らずの女性をぶつかった弱みに付け込んで如何わしい店に誘うとは何事か。この慇懃無礼な外国人たちを諭してやりたいところである。だが、私の英語スキルは十五歳で取得した英検二級が限界であり、このナンパがいかに下劣であるかを説明し、納得させる語学レベルには達していないのが悔しい。ソーリー、ソーリーと馬鹿の一つ憶えのように繰り返すのが精一杯であった。

「ごめん、待たせたね」

　揉める私たちの向こう側から日本語が飛び込んできた。暗くてよく見えないが、野球帽をかぶった日本人男性がそう言ったようだった。野球帽の青年は強引に私たちの間に入り込むと、私の肩をおもむろに抱いて連行しようとした。今度は野球帽の強引さに驚く番であった。が、何か流暢な英語で中東系の外国人男性陣に説明しているところから考えて、外国人にからまれた私を窮地から救ってくれているようである。ここはひとつ、野球帽に乗っておいた方が得策だろう。

いきなり現れた野球帽の青年に一時は面食らった中東系の外国人男性陣ではあったが、退くに退けないのかまだ何か言っていて退散する様子が無い。野球帽の青年は、仕方ねぇな、といった感じで、ジャケットのポケットから白い袋状の何かを取り出し、外国人のひとりに手渡した。それを見ると外国人たちはみるみる顔を緩ませて野球帽の肩を叩き、物わかりがいいじゃん、といった感じで陽気に去って行った。さっきまでの喧騒が嘘みたいだった。

「今のうちに。急いで」

　愛想笑いの消えた野球帽と私は顔を見合わせて、一目散に商店街の方へ駆け出した。野球帽と長い前髪の向こうには、猫のような細い目が隠れていた。