その恋は幸せの形をしていない。

西木 景

15cm far away

 放課後の、明かりの点いていない多目的教室は、なんとなく近づきがたい雰囲気がある。

 ブラインドの隙間から射し込む西日だけが、薄暗い室内を淡く照らしている。


 その教室の隅っこに、今日も彼女は立っていた。薄く瞼を閉じて、右の手のひらを胸の中央に置いている。それが緊張を抑えるための儀式だということを、僕だけが知っている。


 扉を開くと、彼女は瞼を持ち上げて、こちらを見た。

 一瞬その小さな体躯に微かな震えが走ったのを見逃さない。


 来訪者が僕だとわかると、彼女は眉をハの字にして微苦笑を浮かべてみせた。


「遅い」


 軽やかに文句を垂れてくるが、反面その表情はどこか硬い。緊張が笑みを不自然な形にしているのだと理解している。しかし心の底から歓迎されているわけではないのだと思うと、やはり寂しさが心のうちを満たす。


 僕は後ろ手で扉を閉めてから、到着が遅れた理由を簡潔に述べた。

 彼女は笑って許してくれた。

 本気で怒っていたわけじゃないことは、もちろん最初から気づいている。でも確かな喜びを噛み締めていた。彼女から許しを得られたことより、このような他愛もない冗談を交わせる仲になったのだという事実が僕を高揚させていた。


 僕はカバンを教壇の前に置いてから、手ぶらで彼女に近づいた。下手くそだけど雑談を交えることも忘れない。今も彼女の心を蝕んでいる、緊張や不安や恐怖といった感情が少しでも和らぎますように。そんな祈りを込めて。


 一歩一歩、彼女のもとに近づくにつれて、その表情が目に見えて強張っていく。口元はギリギリ笑みの形を保っているが、頬の筋肉がぴくぴくと引き攣っていて、今にも崩れてしまいそうだ。


 彼女とのあいだの距離が1メートルほどになったところで、僕は足を止めた。

 雑談の口も閉じて、しばらく彼女と相対する。


 その間、彼女の長い睫毛が小刻みに震えていた。

 充血した双眸には不安定に揺らめく僕の影が映っている。


 やがて硬く結ばれた彼女の唇が躊躇いがちに開かれた。


「きて」


 今にも消え入りそうな掠れ声だった。

 もし初めて聞く言葉だったなら訊き直していたに違いない。


 それを合図に、ゆっくりと足を前に動かす。

 すると徐々に彼女の面持ちが硬化の一途を辿っていく。抑えていた緊張が段々と制御の利かないレベルにまで成長していく様が見て取れる。


 僕の心にも、憂いと恐怖の入り混じった心許ない感情が芽生えた。だがどうにか素知らぬふりをして、竦みかけた足を強引に前に動かすことに徹する。


 距離が70センチメートルを切った辺りから、彼女の呼吸に乱れが生じ始めた。頬だけでなく耳の先まで紅潮して興奮を露わにしている。


 無色透明な水の中に一滴の墨汁が滲んでいくように、僕の理性にも歪みが生まれる。


 残り50センチメートル。

 僕は、まだ続けるかい、と彼女に問うた。


 赤みがかった彼女の瞳が蝋燭の火のようにゆらゆらと揺らめいている。迷いの跡がうかがえる間を挟んだのち、彼女はゆっくりと首を縦に振った。


 僕はミリ単位の歩幅で、さらに彼女との距離を縮めていく。

 彼女の内側を占拠している感情の昂ぶりが目に見える形で加速していく。

 肩を激しく上下させる汗だくの彼女を前にして、胸中を異様な背徳感が満たしていく。


 互いに絡まり合う吐息の向こう側で、端正な顔立ちをした彼女の瞳が僕だけを一心に捉えている。僕の理性はすでに爆発寸前の域にまで達していた。


 その半開きの唇に何振り構わず食らいつきたい。

 熱気を帯びたその華奢な肉体を思いっきり抱き締めたい。

 獣のような欲望が今か今かと理性の壁を突き破ろうとしていた。


 ……だが、その前に彼女の方が限界に達した。


「ごめん。もう、むり……」


 彼女の手が力強く僕の胸板を押した。僕は無様によろめきながら後退を余儀なくさせられる。


 彼女は腰砕けになって、その場にぺたりと座り込んだ。

 その姿を眼下に据えた瞬間、僕はハッとして我に返った。


 ……危ないところだった。あと5秒でも遅かったら、取り返しのつかない行為に及んでいた。


 密かに胸を撫で下ろす。

 その一方で、自分の意思の薄弱さをこの上なく不甲斐ないと感じていた。


「ありがとう」


 自己嫌悪の波にさらわれかけている僕を見上げて、彼女は気丈に笑みを零した。

 その造花のような綻びに僕の心は容易く掻き乱され、つい彼女のことを直視していられなくなる。

 僕は中空に視線を彷徨わせ、出かかったため息を呑み込んだ。


 ――今日もだめだったか……。


 落胆が広がる。

 彼女のもとに到達するまで、残り15センチメートル。

 手を伸ばせば容易く触れることができる距離にいるのに……その隔たりは僕たちふたりにとって、それはもう、絶望的なまでに程遠いものだった。


 まるで反発し合う磁石のように。

 僕たちはいくら時間を重ねても、それ以上距離を詰めることができないでいた。

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