クロノノーツ・クエスチョン ② 8万年の悪戯
無重力ビリヤードできれいなストップショットを決めるにはちょっとしたコツがいる。
「これで夕飯は君の奢りだ」
キューをボールの芯からわずかに外して、すごく緩い反時計回りの回転をつけてやればいい。僕たちがいる軌道港は衛星上を公転している。それにかかるコリオリの力がほんの少しだけボールの挙動に作用するからだ。
ユクタ・サリンジャーは豊かな黒髪をふわりとたゆたわせて、僕の視界に逆さまに漂って来た。ちょうど僕が狙う9番ボールの軌道と重なる位置だ。
人工衛星のように慣性の法則に従ってゆっくりと移動し続ける9番ボールの向こう側、細い身体に少し大きめのスウェットが緩く捲れ上がり、褐色のウエストとおへそがちらりと覗く。
そんなので僕のミスショットを誘発しているつもりか。それとも、天然なユクタは衣服の乱れに気付いていないだけか。
悪いけど、このショットには夕飯代がかかっているんだ。そんな誘惑に負けるわけにはいかない。絶好の位置に流れつつある9番ボールと、僕の方へ向かってくる3番ボールの相対座標を確認する。手球を空間にセット。
彼女の薄い唇が声を出さずに動く。「外しちまえ」と。
キューが座標固定された手球を打ち抜く。白い手球はほんの少しだけ反時計回りに自転しつつ3番ボールと正面衝突した。そこでごっそり運動エネルギーを受け渡し、手球はぴたっとその場に留まる。そして真逆のベクトルを与えられた3番ボールはゆっくり9番ボールへ漂い、軌道が重なる。ばっちり衝突コースだ。この入射角ならば9番ボールは間違いなくポケットするだろう。
バカでかい衛星軌道港の外れ、土星の輪のような外縁施設群。その外縁のさらに辺鄙なモジュールに設営された殻外観測室で廃棄人工衛星の軌道観測バイトをしてる僕とユクタ。格安時給のためお互いの懐事情は把握してる。とは言え、これも勝負だ。
ユクタにとっては無情にも、僕にとっては計算通りに、3番ボールにタッチされて軌道が変化した9番ボールはポケットに一直線。
さようなら、9番。ようこそ、僕の夕飯。
退屈なバイト時間にささやかな幸福が訪れようとした時、聞き覚えのないアラーム音が観測室に鳴り響いた。
どこか希望に満ちた賛美歌のような、明るく弾む音階のアラーム音。緊急の賛美歌はユクタの黒髪をさらりと震わせて、観測室の外殻に染み込むように消えた。
「M・I・B!」
ユクタが叫んだ。まるでサプライズのバースデイパーティーを食らったかのような笑顔で。
「ゲームはおしまい!」
ユクタは一方的にゲームオーバーを宣言して、興奮気味の微笑みを僕に見せつけてくれた。もう9番ボールの行方なんて忘れてしまってる笑顔だ。
9番ボールは? 僕の夕飯は? ユクタのゲームオーバー宣言にそれらは無効化されたようだ。空間投影されていた無重力ビリヤードのセットはあっさりとかき消された。
「エンティティ、第三種特殊接近遭遇マニュアルをユクタ・サリンジャーとカイリ・クラウチに!」
僕らの上司にあたる管理AIの名前を呼び、メインコンソールのシートに滑り込むユクタ。遅れて僕も宇宙船コクピットを模した観測シートに座る。
「ほんとにM・I・B?」
「ほんとにほんと。何度もシミュレーションしてるからアラーム覚えちゃったもん」
僕らの雇い主である管理AIの擬似ボディがコンソール上に立体投影されて、観測シートに座る僕とユクタの網膜にマニュアルの該当ページが投射された。女性型の上司AIは鈴が鳴るような声で穏やかに言う。
「『メッセージ・イン・ザ・ボトル』アラームです。第三種特殊接近遭遇マニュアルに従い、速やかにコマンドを実行しなさい」
『メッセージ・イン・ザ・ボトル』。シンプルに言えば深宇宙から何者かが発したメッセージ性の強い信号だ。海を漂うガラス瓶に詰め込まれた手紙。どこかの誰かに届けばいいな、と願いを込めた友愛のメッセージ。
人類が地球というゆりかごを飛び出し、宇宙を航海するようになって僕らで第五世代目だ。その膨大な時間の旅を経てもなお、未だ地球外知的生命体とのコンタクトはなかった。僕ら人類はこの無限の宇宙で孤独な存在なのだろうか。
しかし、ついに『メッセージ・イン・ザ・ボトル』アラームが鳴り響いた。外宇宙から人類へ宛てたメッセージ入りのボトルが流れ着いたのだ。
「電波信号じゃないね。対象物体は方位5・2・9に約920万キロ、秒速1万7千メートルで等速運動中。これって物理郵便よ!」
物理郵便って、いったいいつの時代の話だ。レトロなユクタが声を弾ませてARマニュアルが投影されてる辺りを指でなぞった。
「接近隕石、小惑星の該当データなし!」
軌道港はかなりでかい。万が一にも小惑星や隕石と衝突しようものなら軌道港で働く3万人の生命の危機だ。なので衝突コースからかなり外れてる隕石だろうとその軌道は数百万キロ先までチェックしている。この物理郵便とやらはその軌道のどれともマッチングしない。完全に新規の移動物体だ。
「対象軌道に対応する人工衛星、なし」
僕も接近遭遇マニュアルに従って対象物体のデータを洗い出す。現在稼働中のどの人工衛星とも違う軌道だ。過去に廃棄された不使用のものとも違う。
「対象宙域に航行中の宇宙船機なし。登録デブリ、該当なし」
惑星ー衛星間航行の中継基地である軌道港を離発着する旅客宇宙船は24時間で200便を数える。貨物機を加えれば500機だ。そのすべての航行は軌道港統括AIの監視下にある。この移動物体はそれらのどの航行データとも異なる。回収予定のあるデブリも同様。不法に投棄されたゴミなんてもってのほか。真っ先にチェックされる。
「対象物体の全長、全幅かな。約3メートル? これって脚、翼? それとアンテナ状の影あり?」
まだ解像度は低いが、対象物の画像が届いた。小さなボックス型の本体に、それよりも大きなサイズのパラボラアンテナがくっついている。これではまるでアンテナが本体のように見える。そこから長い棒状のものが数本飛び出ていて、これが姿勢制御翼なのか、着陸脚なのか、この解像度だと判別がつかない。
「この機影って、間違いなく、人工物! ワオッ!」
ユクタがついにワオシグナルを発信した。
そのアンテナと脚が生えた人工物はこの宙域で活動する人類由来のものではあり得ない。こんな突起物だらけのデザインなんて見たことない。確実に未確認飛行物体だ。
「ついに宇宙人とのコンタクト! バイトの私が第一発見者! 時給安いけどこのバイトやっててよかった!」
黒髪をわさわさと揺らしてユクタがはしゃぐ。隣の観測シートに座る僕にハイタッチを要求してくる。ユクタほどテンションが上がり切っていない僕は彼女の手と軽く握手を交わす程度に留めといた。
はたして、ほんとにそうか? こんなあっさりと宇宙人とのファーストコンタクトがなされるものか。しかも安時給バイト二人が発見者だなんて。未確認飛行物体が900万キロまで接近してるのに、それに気付かないなんて宙域監視AIはいったい何をしていたんだ。
「対象物体は当軌道港から約300キロ離れた宙域を通過します。我々の業務に影響はありません。カイリ、ユクタ、宙域に浮遊する廃棄人工衛星の軌道観測業務に戻りなさい」
上司AIのエンティティが抑揚のない音声で僕らに指示を出した。なんだって? 無視しろと言うのか? ユクタは驚いた顔で上司の立体映像に詰め寄る。
「なんで? 人類史に残る大事件よ!」
「対象物体は放置指示が出ている人工物です。マッチングの結果『ボイジャー1号』であると判明しました」
「ボイジャー?」
ユクタがあんぐりと大口を開けた。ボイジャーの名前は聞いたことがある。旧世代、人類が外宇宙に向けて打ち上げた無人探査機だ。はるか遠く、地球から、ここアルファケンタウリ星系第4惑星リギルへ向けられた宇宙探査機。
無人探査機ボイジャー1号。こいつはいったいどれだけの時間を旅してきたんだ。
「これが、ボイジャー」
アルファケンタウリ星系第4惑星リギルの第2衛星軌道港、さらにその外縁に位置する殻外観測室だからこそキャッチできたボイジャーの機影。
宇宙を航行するのは時間を旅することだ。僕ら宇宙に出て第五世代目の人類は未来への膨大な時間の旅をしてきた。ワームホール航法で時間と距離をぶっちぎって、はるか彼方までの片道切符の旅。僕らの体感時間では二百年くらいのはずだが、地球時間ではとんでもない時間が流れ去ったはずだ。
「地球から惑星リギルまで、ボイジャー1号の推進力では8万年かかります。対象物体はあまりに時間が経過し過ぎて、もはや我々人類には何の価値もない情報です。放置せよ、と軌道港管理AIから指示が出ています」
僕らの雇い主はAIだ。旧世代人類の遺物に対しての感慨なんて有機的な感情は持ち合わせていないだろう。
しかし僕もユクタも人類だ。8万年の旅をしてきたボイジャーに人間として何としても関わりを持ちたい。そんなまだ見ぬノスタルジックな気持ちがむくりと持ち上がる。
「ね、カイリ。ボイジャーを地球へ向けて打ち返しちゃおうよ」
言うと思った。
「ね、お願いよ」
悪戯を思い付いた悪ガキの笑顔でユクタは僕の手を握り返した。
「打ち返したとして、再び地球に帰るのはさらに8万年後だ」
そうは言いながらも、すでに僕はボイジャーを打ち返す算段をしていた。そこらに浮遊している廃棄人工衛星を使えるか。ストップショットでいけるか。
「いいじゃない。8万年越しのメッセージ・イン・ザ・ボトル。きっと地球人は驚くよ」
「AIの指示に従わないなんて悪い人間だな。よし、やるか」
「やろう。無重力ビリヤード得意でしょ?」
舞台装置はすでに整っているってわけか。さあ、ゲーム再開だ。
「夕飯はユクタの奢りだからな」
「いいよ。8万年後にね」
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