第73話赦された世

「ちゃんと生きていかねばならないね…………ね、朱明?」




 振り向くこともなく掛けられた言葉は、予想していたよりも優しく穏やかだった。




「……………朱明、私の先祖のこと随分前から分かっていたよね。どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ?」


「………………………」




 返す言葉を探していたら、代わりに翆珀がベラベラと話し出す。いくら葵の術で抗えなかったとはいえ、瘴気と下位の魔まみれの外の世を彼女に見せたのは、翆珀が意図的に動いたような気がする。


 睨み付ければ、さっと目を逸らしている。




「私を見ろ、朱明」




 そう命じられ仕方なく彼女を見れば、にこにこと笑っている。




「私の唯一の従魔。君と出会えたことを嬉しく思う」




 両手で顔を包まれ、悔しくてならなかった。


 俺は葵の言葉に安堵したのだ。彼女の言葉でなければ、ここまで響くことはなかった。




 彼女の手に重ねて、確かめるように聞いてしまう。




「………………そんな事を言って………ここに連れて来たのは、おまえを利用する為かもしれないぞ?」


「だったら、もっと早くそうしていたでしょう?それに無理矢理利用することもできたはず。でも君はしなかった」




 葵は分かってしまったのだろう。俺の……………愚かしい想いに。




 唇を噛む俺を見上げて、彼女の指が宥めるように頬から頤を滑る。




「朱明、私は君と対等でいたい。だから従魔の契約を解こうと思う」




 あれほど望んだ言葉を、葵がすんなりと口にしたことに意表をつかれた。受け入れたことの証明だと思えて、顔に触れる彼女の指を捕まえる。




「だから君に主として最後に命じる。私を下位の魔達の中心へ連れて行け。彼等を鎮める。力を貸して欲しい………………朱明、君でなければならない」




 誰が頼んだわけでもなく、葵は彼女自身の意思で俺に最後に命じた。危険だと知っているだろうに、いつものように自信に満ちた姿は確かに女王のようだった。




「恩に着る」




 だから言葉は自然について出た。




「朱明」




 一つ頷いた葵が、当然とばかりに俺の首にしがみつく。




「君だけだよ、全てを委ねて身を任せたくなるのは」


「………………そうか、葵」




 時にこれ以上は無いくらい真っ直ぐな言葉を投げ掛ける。真実しか言わないというのなら、相手がどう捉えようが真実だろう。


 委ねてくれるというのなら、これが最後だというのなら、従魔の役目を俺は果たそうと思った。




 葵を抱えて上空に飛べば、地上にはしつこいぐらい下位の魔が蠢いている。




「動くなア・クレ!」 




 葵の力と同時に魔力を振るい魔を一部だが消滅させて小さな空間を作る。そこへ彼女を降ろせば、離れろと命じられる。




「ジョウオウ」


「ジョウオウダ」


「……………ホシイ……………ウマソウ」




 彼女の中にある魔力の部分に下位の魔達が引き寄せられている。


 それまで統制などなかったそれらが、葵に狙いを定めている。




「う、あ」




 小さく悲鳴を上げた葵に、急いで命令を無効にする術を唱える。あの時もそうだ。彼女は本当に切羽詰まった時は、自分だけを犠牲にする。


 分かっていたから術を手早く完成させることができたが、腕や脚にねっとりと魔を絡み付かせて悶える彼女の卑猥な図に頭に血が昇った。




「そんな奴等に好き勝手に身体を触らせるな!」




 脚に絡み付いていた魔が、これみよがしに上へ上へと伝うのに、裾の中へと手を突っ込み捕まえようとすれば葵が焦って暴れる。




「あ!やだ、ふわっ!」


「大人しくしてろ!」




 片腕で両脛を抱き込めば、思い出したように彼女が叫んだ。




「あ、動くなア・クレ」




 動きを止めた魔を彼女の太腿から引き剥がし、ギッタギタに切り刻んでやる。


 そうこうしている間にも次々と周りから魔が押し寄せてきて、翆珀や白麗、他の高位の魔が葵の傍からなるべく排除しようと躍起になっているがキリがない。




 繰り返し動きを止める命令を出す彼女を、片膝の上に座らせるように抱えて自らの身体で盾になるように被さる。




「埒が明かない。いいから早く別の命を下せ」




 驚いたように目を瞬かせた彼女だったが、直ぐに俺の肩にしがみついてきた。




「我が命を伏して聞けヤヌア・グレナリアス」




 噛み付いてきた魔を、葵が押さえつけた。眉一つ変えずに素手で掴んだそれが媒体となるらしい。




 高くもなく低くもない彼女の良く通る声が、朗々と言葉の魔力を紡いでいく。それはまるで歌のように不思議な旋律を持っていた。




 背後から襲い掛かる魔によって傷を作るが、俺は反撃せずに彼女を庇っていた。何者も女王の力の発動の邪魔をしてはいけないと感じていた。




 俺の頬から流れる血を見た葵が、しばし沈黙する。そして片手を動かしその血を指に取ると自らの唇に押し当てて告げた。




「我は王の代弁者ネ・リア・ツアヌ」




 どういうことだ?


 何らかの修正が為されたのだとは分かり、彼女の顔を見つめる。




「これよりそなた達は王に決して逆らわず、従い、守り、敬い、彼の為に生きよ。そなた達の王の名は、朱明」




 途端にザアッと波が引くように、周りの魔が距離を取った。




「ひれ伏せ」




 葵の声に、魔達が身体を低くして地に沈める。


 まさか俺へと向けているのか?




「……………どういうことだ?」




 抱えたまま立ち上がれば、葵は俺の頭を引き寄せ胸に抱くようにした。ふわりと芳しい肌の匂いがした。




「葵?」


「……………君こそが、ふさわしい」




 ふっ、と笑う気配がした。




「君は支配者が良く似合う」




 面倒なことを。




 その胸に顔を寄せたまま苦笑するしかない。




 母が求め、決して届かなかった場所に、よりにもよって母が殺した女王の子孫によって俺が押し上げられるとは。


 そして囚われるとは、何の皮肉か。


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