第38話侵食の世

「う…………んん」




 首筋を悪戯に吸われて、思わずしがみつくように掴まれば、満足そうに、くつくつと笑われる。




「やめ…………傷に響く」


「もう傷は閉じている。痛みは無いはずだが」




「この目で確かめたからな」と言われて、熱くなった頬を隠したくて顔を背ければ、鎖骨に顔を埋められる。


 目覚めてから数日が経ち、腹に巻いていた包帯は既に取り払った。傷は、見ても赤みがあるだけで目立たなくなった。




 傷跡を擦って思うことは、私が朱明に連れ去られて星比古達がどうしているかということ。




「何を考えている?」


「ん…………別に」




 勘の良い朱明は、不機嫌な顔をして私の腰を抱き寄せる。




「まだ向こうの世のことが忘れられないのか?」


「……………私の生まれた場所だからね」


「忘れてしまえ」




 生きづらい世だったはずだと朱明は言う。魔から受け継いだ力は人の世には異質なだけだ。ここならおまえは、おまえらしく生きられる、と。




 彼の肩越しに見えるのは日当たりの良い部屋と、大きな硝子戸を隔てて奥には庭らしきものがある。


 家具は見慣れぬ物だし、庭の草花も見たこともない美しいものだ。食べ物は初めて食べる物ばかりだったが美味しかった。習慣も文化も人間の世よりも進んでいるらしい。


 初めこそ戸惑いはあったものの、すぐに馴染んでしまった。それどころか居心地が良い。




 この建物は、ここいらで一番大きな屋敷らしく、何十人か魔が住んでいる。その中でも朱明は格上に当たるようで、他の者は彼に仕えているようだった。ようだったと言うのは、彼がそうした説明をしないので私自身が見て思ったことだ。




 意外なことに大体の者は私に親切で、何かと世話を焼いてくれる。だがどうも朱明から言い含められているのか、食事の仕方などは教えてくれるのに、屋敷の外のことなどは聞いても困ったように愛想笑いをするだけだった。




 私には知られたくないことがあって、彼らは隠している。それは夜に朱明が屋敷からいなくなることと関係あるのだろうか。




「朱明、私はここにいていいのだろうか?」




 彼に抱き締められるに任せて、その肩に頭を凭れて呟くと、上から溜め息を付かれる。




「葵、おまえは誰のものだ?」


「…………………私は君に捕まった。私は朱明のものだ……………と答えると思ったか?」




 身体を離して見上げれば、日差しを受けた彼の髪は蒼に映った。




「まだ契約術は有効だ。だから君は僕の…………私の従魔のまま。私が君のものなんて有り得ない」


「ここから逃げることもできない癖に」


「確かに私は次元を開くなんて分からない。でも朱明に命じることはでき…………う!?」




 言い終える前に手首を掴まれて長椅子に押し倒された。




「俺のものだとまだ分からないなら、体から教え込んでやろうか」


「ん…………!」




 いきなり噛み付くような口づけをされたと思ったら、鎖骨から膨らみへと手が辿る。




「ん…………」




 胸元の紐を解かれながら、露になった肩へ口づけを受けて眩暈のような感覚で我を忘れてしまいそうになる。




「ま、まだ………私は、肌を許していない」


「…………………」




 無視を決め込んで肌を暴こうとする男が憎らしい。私が彼に与えられる快楽に弱いことを知っているのだ。このまま流されて、私が受け入れるのを待っている。




 嫌ではないことなんてお見通しなのだ。




「朱、明」


「……………そうやって直ぐ意地を張るな…………葵」




 肩から衣装を下げながら、笑いを含んだ声で諭すように言われて目を瞑る。




 だがそれは唐突に終わった。


 ピクリと動きを止めた朱明と、扉がいきなり開かれたのは同時だった。




「おい、いつまで女に構って…………あ、お邪魔だったかな、うがあっ」




 開いた扉から現れた短い金の髪の男が、朱明によって再び外へと投げ飛ばされていく。




「貴様にはノックをするという気遣いも無いのか?ああ?」




 相当気分を害したらしい。朱明の低い声音を聴きながら、長椅子に隠れるようにして急いで衣装を整える。




「すまん!ぐふっ、すまんって!」




 少々荒い扱いを受けているらしく、男が悲鳴混じりにひたすら謝っている。初めて見る魔だが、背中にある白い翼は誰かと同じだ。




「仲が良いんだね。友達なのか?」


「はあ?!」




 長椅子から顔だけ覗かせ、襟首を掴まれても楽しそうに笑っている男に聞けば、朱明が愕然とした声を上げる。




「そう!友達!俺、朱明と友だ、うぎゃ」




 首を絞められているが、魔は丈夫だから平気なのだろう。


 朱明に、じゃれあう仲間がいるなんて考えたこともなかった。私は彼のことを知らなさすぎる。




「ああ、こんなことしてる場合じゃないっての」




 こそこそと耳打ちされた朱明は、仕方なさそうにして私に視線を向けてきた。




「城から出なければ、どこへ行ってもいい」




 小さく頷けば、金髪の魔の襟首を引き摺りながら部屋を出て行った。


 閉められた扉を見つめていた私だったが、少しだけ時間を置くと扉を開いた。


 そこには先程の仲間の男がいて、私の見張りをしているようだ。




「うん?散歩?」


「そうだ、散歩だ」




 ガシッと腕を捕まえると、驚く魔に命じる。




「朱明の後を追う。私をここから連れ出せ」




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