第36話狭間の者2

 ここが私の知らない所だと理解していたので、次に目を開けた時驚きはしなかった。




「………………広い」




 物珍しかったが。




 漆喰で白く塗り固められた壁、床には織物が敷かれていて、異国の風情漂う造りの広い部屋だった。脚の高い机と椅子、暖を取る為だろうか壁の中に組み込まれた炉のような物も見える。


 かなり立派な部屋のようだ。




 誰もいないのを確認して、ふかふかと弾力性のある寝具の上から床に脚を下ろす。




「っ……………」




 ズキンと腹の傷に痛みが走り、呻きそうになるのを噛み殺す。主の身体的な苦痛に従魔は敏感だ。離れていても悲鳴の一つで飛んで来るようになっている。今は見つかると困る。


 眠っていても、彼が傍にいた気配は頻繁に感じていた。




 床に座り込んだ状態で寝台に凭れて痛みを逃しつつ、そっと唇に触れる。


 私が抵抗できないのを良いことに、血を飲ませるという名目で幾度も口づけをされた。


 覚えさせられた柔らかい感触に、頬が熱くなる。




 また直ぐに戻ってくるかもしれない。逃げる気はないが、目を覚まして彼と顔を合わせるのが気が引けた。要するに羞恥だ。


 それに居たたまれない。




 私はもう彼の主たる理由が無い。父上の命じたことに逆らい魔を庇い、その上連れ去られたとなっては契約術の名分は失ったに等しい。それどころか血を飲まされて魔に近付いた。




 腹の傷がずっと熱い。おそらく彼の血の影響で傷を治そうとする身体の働きが強いのだろう。何日経ったかは定かではないが、貫通した傷を負って死なず、まして起き上がれるほどになるには回復が早すぎる。




 立ち上がり、両腕で身を抱くようにして歩く。傍にいなくても彼の気配を刻まれたような感覚があって切ないような心持ちだ。




 身の内まで変えられて嬉しいだなんて、どうかしている。


 私は朱明の望んだ通り、彼の手の内に堕ちたのだ。


 どんな顔をして、何を話せばいいか分からない。


 そんな自分が悔しい。




 戸を開けようとしたら、引き戸ではなく押して開ける仕様だった。


 戸の外は薄暗く、左右に部屋は無いようで廊下が続いていた。




「お腹が空いたな」




 汁物や飲み物は摂取した覚えが朧にあるが、それでは足りない。朱明や水羽が普通に食べ物を食べていたのを思い出し、それなら食堂があるだろうと考え、取り敢えず目的地に定めた。




 おそらく明け方だろう。静まり返った薄暗い廊下を、傷に響かないようにゆっくりと歩く。


 いつから着替えさせられたのか、とても軽く薄手の素材の上下に分かれた衣装を私は身に付けていた。上下共に揃いの薄紫の色合いの物。上が前開きで左寄りに三ヶ所紐を結んで着るような衣装なのは、傷の手当てがしやすい為だろう。下は膝下まであり腰で回した衣装を太めの紐で結んで着るものだ。裸足ではあるが、床は絨毯が敷き詰められていて冷たくはない。




 途中階段を何度か下りて建物が多層の屋敷だと分かり、さ迷った挙げ句に温室らしき場所に出た。




「凄いな」




 巨大なドームのような温室は屋根が硝子で出来ていて、ほんの少し朝陽が差し込んでいた。雨上がりのようで屋根に留まる水滴が照らされて光るのを眺めていたが、視線を動かすと一本の木に赤い小さな果実がたわわに実っているのを目にした。




 手を伸ばせば届く果実に、一つもいで匂いを嗅ぐと甘い香りがする。


 見慣れない果実だが試しに食べてみようかと思っていたら、物音がして顔を上げた。




「あなた……………」




 向こうも驚いたのか、そう言ったきり瞠目している。


 金の巻き毛に緑の瞳をして白い羽毛の翼を持つ美しい女の魔だ。外見だけで言えば、二十代前半ぐらいだろうか。




 魔は皆美人なのだなと思って観察していたら、いきなり剣呑な表情を作りズカズカと早足で近付いて来た。




「あなたね!?朱明様に屈辱を与えた人間!」




 ドン、と肩を押されて地面に倒れたら、女が馬乗りになった。




「あ!」




 衝撃で傷が痛み、息を詰める。




「よくも人間風情が!死ね!」




 女が長い爪をした手を私に振り下ろそうとするのを見て、急いで言霊を口に乗せようとしたら、目の前で女が横に吹っ飛んで行った。




「何をしている」


「あ…………」




 朱明が怒りの形相で、転がった女の魔を睨んでいる。




「だ、だって朱明様」




 さすがは魔、傷一つ負った様子はないが、女は怯えて泣きそうになっている。




「この娘に手出しするなと言ったはずだ。それに結界を張っていたはずだが……………破ったのは葵か」




 確かに部屋を出る時に、軽い破裂音がした気がする。あれがそうだったのか。主である私には無意味だが、外部の侵入を阻むものだったのだろう。




 出掛けていたのか朱明は雨に濡れていた。それを気にするでもなく女に詰め寄って、右手に魔力を乗せるのを見て、私は傷を押さえながら起き上がった。




「痛い目に」


「やめろ、朱明。少し黙っていろ」




 なぜ俺が、と驚いて目で訴えている朱明を無視して、へたりこむ女の魔の前に膝をついた。




「大丈夫?」


「え?」




 手を引いて起こして、乱れた金髪を手櫛で整えながら声を掛けた。




「可哀想に。こんなに美しい髪が汚れてしまったね」




 呆然と私を見ている女は、朱明が余程怖かったのか震えていた。


 助けてもらった自分が思うのはおかしいかもしれないが、女性に何てことをするのか。




「泣かないで。君は笑った方が可愛いと思うな」



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