第31話憂鬱な雨2

「葵………………葵!」


「あ……………」




 傾けてしまっていた湯呑みから、零れた濃い緑の茶が畳に染みを作った。




「失礼を」




 慌てて布で拭いていると、前に座した星比古が私の顔を気遣わしげに見つめていた。




「ぼんやりとしてそなたらしくない。どうしたのだ?」


「何でもありません」


「誤魔化すな。もしかして、あの者に何かされたか?」




『あの者』という単語に、自然身が強張る。




「…………………何も」




 茶を拭くのを忘れて屋根を打つ雨音を聴く。ここ数日ずっと降り続けている。




「悩みがあるなら話してみよ。誰かに話すだけでも気分は軽くなるものだ」




 茶器を横に滑らせ、星比古が私の傍へと座り直した。懐紙を取り出し、濡れた私の手を拭いてくれる彼を見ていたら言葉が転び出た。




「こんなにも、自分が嫌な人間だとは思いませんでした」




 星比古の自室。見知った魔の気配が今はないことを確認して、私は開け放たれた引き戸の向こうに目をやった。


 内裏の入り組んだ迷宮のような建物に囲まれた小さな箱庭。白砂に小さな岩が苔むしていて、そこに南天と竹が遠慮がちに植えられていた。




「どんどん嫌な人間になる。自分の居場所を無くしたくないから、相手の望んでいることを叶える気はないのです。それなのに解き放つこともできない」




 離したくない癖に、捕まえようとする腕が怖い。




 口を閉ざしたまま話を聴いていた星比古が、そっと私の手を握ってきた。




「私はどうしたらいいのでしょう。分からないのです……………苦しめているのは分かっているのに………………自由になって欲しくない。そもそも生きる場所が違うから、そうなったら置いていかれる。私に興味を示したのも、相手には一時のことで直ぐに忘れてしまうでしょう」




 契約術を使う以外に彼を留める術を知らない。私にはそれだけしかない。それすら無ければ、どうして繋ぎ止められるだろう。




 箱庭の岩を大粒の水滴が穿つように跳ねる。秋の兆しを見せるひんやりとした雨風を受けて、片手で顔を覆う。




「……………好きなのか?」




 星比古の問いが、やけに響いた。私は誰のことかも言わなかったが、やはり彼には通じたようだった。




「…………………いいえ、そんなものではありません。これは執着とか独占欲のようなもの…………私はできた人間ではありませんから」




 私は『男』だと述べるのも億劫で、ただ否定した。




「一目見て欲しいと思ってしまって……………子どもが玩具を宝物だと言って捨てられないのと同じですね。幼稚な感情なのです」


「馬鹿なことを言う。自分勝手な者が、そのように悩むと思うか?」




 黙ってしまう私の手を強く握ったまま、星比古は叱るように話した。




「私では力になれぬか?そなたの心中を安らげることはできないだろうか?」


「そう言っていただけるだけで有難いですから」


「葵」




 頬にかかる髪を掻き上げられて星比古に目を向ければ、悲しいような淋しいような顔をしていた。




「私ではそなたを守れないだろうか」




 ************************************************




 こんなの自分じゃない。魔と戦う時よりも、周りから異質なもののように扱われても、冷たい父の言葉にも、これほど堪えたことはなかった。




 星比古の部屋から退出して俯き加減に歩いていた。先を歩く案内の女官から距離ができていくが、急ごうとする気力も湧かない。




 しっかりしなければ。


 星比古にも分かるぐらい自分の様子がおかしいとは。




「神久地葵様でございますね?」


「あ、はい、何か?」




 前から別の女官が歩いて来て、突如声をかけられたので反射的に応えた。先程の案内の女官は戻ってこないので引き継いだのだろうか。




「行政部の神久地様がお呼びでございます。こちらへ」


「父が何の用ですか?」


「内容までは知りませんが、お呼びするようにと」




 また何か依頼の件かもしれない。




「わかりました」




 女官の後ろを付いて行き、角を曲がろうとしたら、後ろから肩を引かれた。




「う、ぶっ?!」


「罠だぞ」




 驚いて悲鳴を上げ掛けた口を、慣れた手つきで塞がれる。背後から抱き込むようにしているのが朱明だと分かり、振り返ろうとしたが腰に手がしっかりと回されて、背中に彼がくっついているので動けない。




「ふう、う?」


「だから罠だ。疑うことなく付いていくな」




 朱明の体温が背中に伝わるのを感じて、慌ててペチペチと腹に触れている手を叩くと、口を塞いでいた手だけが外された。




「わ、罠って?」




 私にしか見えないようにしているようで、朱明は呑気な様子で肩に顎を乗っけてきた。




「あいつだ。あの………………」


「ああ、成る程」




 いつから君はいたんだと内心焦っていたのだが、名を聞いたら頭が冷えて逆に落ち着いてきた。




「ふうん……………」


「行くのか?」


「わざわざ招待してくれたんだよ。行かないとね……………おかげで鬱憤が晴らせそうだ」




 落ち込んでいる時に、よくも仕掛けてきたな。




 クックッと嗤う私を見て、朱明が腰から手を離した。




「……………ようやく葵らしくなった」

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