第3話 それを口にして

「先付の、蒸し雲丹でございます」

 料理が始まった。

 驚いたことに、懐石自体はごく普通、いや味で言えば新也がどれも口にしたことがないほどに美味かった。

 とろけるような雲丹に、色鮮やかな前菜の数々。椀には松茸の吸い物、向付には鮑や鮪、鯛の刺し身と、贅を凝らしたつくりになっていた。

 2人はそれらを堪能した。

 新也のゾクゾクした感覚も遠のきつつあった。何かの勘違いであったかと、煮物の鱧とごぼうを一緒に口へと運びながら新也は隣の藤崎をちらりと見た。

 酒も進み、藤崎はご機嫌だった。しきりに美味いだろう、美味いだろうと新也を小突く。子供のような藤崎の姿につい新也も笑い返した。

「美味いです。……あの、ありがとうございました。連れてきていただいて」

「なんだよ、畏まって」

 珍しく、少し照れたような男臭い表情で藤崎はそっぽを向いた。酒のせいもあって新也はそれも楽しく眺めた。

「では、お二人様。うちではメインと呼ばせていただいています。……焼き物の、人魚でございます」

 へぇ、と2人は差し出された皿を見てから、え?と顔を見合わせた。

 店主はごくまっとうな物を言っているといった様子でもう一度繰り返した。

「人魚でございます」

 それは、綺麗に油の乗った、小ぶりの切り身の焼き物だった。

 ブリの切り身に塩を振ったものに見えた。皮はなく、皮を削ぎ取ったであろう部分には薄く脂肪の層があった。

「冗談がうまいですね、店主」

 藤崎は盃を上げて笑ってから、箸を進めようとする。

 新也はと言えば、うっと顔をそむけた。

 香ばしい焼き魚の匂いに混じって、血の臭気がする。

 クスクスと、周囲から嘲笑するかのように声が上がった。他の客に笑われてしまったのだろうか。

「ああ……お連れ様は、苦手ですか。人魚。たまにおられますよ」

 にこやかに店主が皿へと手を伸ばした。どうしますか?と聞いてくる。

 食べる意思がないならば、下げようというらしい。

 周囲からは落胆とも嘲りとも分からぬ、あぁという大勢の声が上がる。

 おかしい。

 他に客は4人ではなかったか。どうして周囲を、大人数に取り囲まれているような声がするんだろう。

 新也は小さく、藤崎の名前を呼んだ。

(食べちゃ駄目です、先輩……)

 声は藤崎に届かなかったようだ。

 美味い!と二口で食べ終わると、箸を置いて藤崎はニコニコとする。

「しかし、どうしても人魚と言い張るんですね、ご店主。……良いよ、新也。苦手なら俺が食べよう」

 そんなことまで言う。

 藤崎は人魚の肉の乗った新也の皿へ、手を伸ばした。

 駄目だ、2切れも食べさせられない。そう言えば……人魚の肉を食べた人間はどうなるんだったっけと、新也は混乱する。ええい、死にはしないだろう。

「良いです!僕が食べます!」

 新也は宣言し、意を決してその人魚の肉を口に運んだ。

 いいぞ、いいぞと囃し立てる声は、藤崎ではなく周りの有象無象の声だった。見えはしないが何かが、この店内にいる。客として、僕らのこの珍事を肴に楽しんでいる。

 一口で、新也はその肉を飲み下した。

「……っ」

 濃厚な血の味と、魚の香ばしい香りが鼻に抜けた。身は柔らかく、幻のように口の中でほろほろと解けて消えてゆく。何だろうこれは。

「な?美味いだろ」

 藤崎のご機嫌な声が届いた。はい、と言えたかどうかは分からない。

 それっきり、新也は意識を手放した。

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