10




 僕はずっと眠り続けている。


 何も存在しない、小さな部屋の中で。


 暑くもなく、寒くもない、暗闇の中で。


 でも、それはきっと誰かにとって必要なことなんだろう。


 誰にとって?


 それは僕にもわからない。


 でも、それでも良かった。


 だって僕はずっと幸せな夢を見ていたような気がするから。





 ある日、僕は夢の中で不思議な青年に出会った。


 その夢の中には見たこともない風景が広がっていて、とても不思議な世界だった。


 夕陽の光を浴びた川が流れていて、そこに架かる橋の上を乗り物らしきものが移動する音が遠くからガタンゴトンと聞こえてきた。


 窓が規則正しく並んだ建物が立ち並んでいて、かけられた衣服が風に揺れていた。


 何処からか子供達が楽しげに遊ぶ声も聞こえてくる。


 泥だらけになって“また明日”と笑顔で友達と手を振り合っていた。


 僕はそっと瞼を下ろしてみた。


 頬を撫でていく風の温度と、それに混じって何処からか漂ってくる食事の匂い。


 水底の小石をなぞる川の音、遠くを慌ただしく走り去っていく乗り物たちの走行音。


 そして瞼越しに感じる夕陽の明るさ。


 この夢は視界を覆ってもなお、許容メモリが足りなくなりそうなほどの情報量で溢れていた。


 けれどそれは少しも不快ではなかった。


 むしろもっと見ていたかった。


 僕が見たこともないはずの景色は、どこかとても優しくて切なかった。


 胸を焦がすような懐かしさを感じながら、僕は再び瞼を持ち上げた。


「不思議な風景だね」


 気づいたら、僕は無意識に青年にそう語り掛けていた。


 青年はとても驚いた顔をしてこちらを振り返った。


 青年はきっと自分の足元にばかり気をとられて、僕の気配に気づいていなかったのだろう。


 青年はその腕に小さな動物をその腕に抱き上げていた。


 茶色い毛の仔犬は、尻尾を振りながら大きな目で僕を見上げていた。


 自分を抱き締める青年への信頼感、そして僕という初対面の人間に対する好奇心。


 きっと十分に愛されて育ったのだろう、純粋無垢な双眸が僕を見上げてきていた。


「どうして…」


 驚愕している様子の青年の口からようやっとという感じで言葉が絞り出された。


 しかしその言葉こそ僕にとっては疑問だった。


「“どうして”?

 不思議なことを言うね。

 君は僕の夢の住人なのに」


「…っ!?」


 青年は今度こそその目を大きく見開いて、数歩後ろに下がった。


 そんな青年の姿が、まるでウイルスでも紛れ込んだように輪郭を崩してしまった。


「あナタ、誰デスカ…?」


 青年の声をかぶさる様に不快なノイズが混じっていく。


 辛うじて聞き取れた短い疑問の言葉に、僕はなんとか答えようとした。


「僕は…」


 僕は…。


 僕は、誰だっけ…?



 考え込む間に目の前に立っていた青年は周囲の風景と一緒に掻き消えてしまった。


 夢だったのだから、仕方ないけど。 


「あぁ、なるほど…」


 ふと思い至った。


 あの夢の世界は、きっと青年の脳が創り出していたものだった。


 青年が驚いていたのは、おそらくそこにいるはずのない僕が現れたから。


 青年が僕の見ている夢の住人なのではなく、僕が青年の見ている夢に触れてしまったのだろう。


 あの美しくどこか懐かしい風景は、その感情ごときっと全て青年のものなのだ。


 それを証明するように、僕の胸の奥に芽生えていたあの風景を懐かしいと思う感情は、夢から覚めたように刻一刻と薄れていく。


 それと同時に、再び強い眠気がやってきて、僕の意識は新しい夢の淵へと沈みこんでいこうとする。


 僕は眠気の海に揺蕩いながら口元を緩ませていた。


 久しぶりに良い夢を見せてもらったから。


 あの風景の場所に、あの青年はいつか帰ることができるだろうか?


 “帰りたい”…胸を熱く焦がしていた想いを果たすことができるだろうか?


 青年の夢の結末を、僕が知ることは一生ないのかもしれない。


 長く夢を見ている間に、先ほど見た夢の記憶もいつか薄れていくのだろう。


 仕方ない。


 だけど。


 あの青年が帰りたいと願う場所にいつか帰れればいい。


 青年を迎え入れてくれるあの場所に、いつか彼が帰れたらいい。


 僕は夢の淵に沈んでいきながら、意識が途切れる刹那まで胸の温かさをじっと感じていた。



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