8
僕はずっと眠り続けている。
何も存在しない、小さな部屋の中で。
暑くもなく、寒くもない、暗闇の中で。
でも、それはきっと誰かにとって必要なことなんだろう。
誰にとって?
それは僕にもわからない。
でも、それでも良かった。
だって僕はずっと幸せな夢を見ていたような気がするから。
ある日、僕は夢の中で不思議な青年に出会った。
その夢の中には見たこともない風景が広がっていて、とても不思議な世界だった。
夕陽の光を浴びた川が流れていて、そこに架かる橋の上を乗り物らしきものが移動する音が遠くからガタンゴトンと聞こえてきた。
窓が規則正しく並んだ建物が立ち並んでいて、かけられた衣服が風に揺れていた。
何処からか子供達が楽しげに遊ぶ声も聞こえてくる。
泥だらけになって“また明日”と笑顔で友達と手を振り合っていた。
僕はそっと瞼を下ろしてみた。
頬を撫でていく風の温度と、それに混じって何処からか漂ってくる食事の匂い。
水底の小石をなぞる川の音、遠くを慌ただしく走り去っていく乗り物たちの走行音。
そして瞼越しに感じる夕陽の明るさ。
この夢は視界を覆ってもなお、様々な五感を刺激した。
けれどそれは少しも不快ではなかった。
むしろもっと見ていたかった。
僕が見たこともないはずの景色は、どこかとても優しくて切なかった。
胸を焦がすような懐かしさを感じながら、僕は再び瞼を持ち上げた。
「不思議な風景だね」
気づいたら、僕は無意識に青年にそう語り掛けていた。
青年はとても驚いた顔をしてこちらを振り返った。
青年はきっと自分の足元にばかり気をとられて、僕の気配に気づいていなかったのだろう。
青年はその腕に小さな動物をその腕に抱き上げていた。
茶色い毛の仔犬は、尻尾を振りながら大きな目で僕を見上げていた。
自分を抱き締める青年への信頼感、そして僕という初対面の人間に対する好奇心。
きっと十分に愛されて育ったのだろう、純粋無垢な双眸が僕を見上げてきていた。
「どうして…」
驚愕している様子の青年の口からようやっとという感じで言葉が絞り出された。
しかしその言葉こそ僕にとっては疑問だった。
「“どうして”?
不思議なことを言うね。
君は僕の夢の住人なのに」
「…っ!?」
青年は今度こそその目を大きく見開いて、数歩後ろに下がった。
辛うじて聞き取れた短い疑問の言葉に、僕はなんとか答えようとした。
「僕は…」
僕は…。
考え込む間に目の前に立っていた青年は周囲の風景と一緒に掻き消えてしまった。
あの夢の世界は、きっと青年の脳が創り出していたものだった。
少なくともあの青年にとっては、あの青年自身が見ている夢だったのだろう。
青年にとって知るはずのない存在である僕がそこにいたから驚いた。
あの風景をどこか懐かしいと感じたのも、あの不思議な青年にとってそうだっただけだ。
それを証明するように、僕の胸の奥に芽生えていたあの風景を懐かしいと思う感情は、夢から覚めたように刻一刻と薄れていく。
それと同時に、再び強い眠気がやってきて、僕の意識は新しい夢の淵へと沈みこんでいこうとする。
僕は眠気の海に揺蕩いながら口元を緩ませていた。
久しぶりに良い夢を見せてもらったから。
あの風景の場所に、あの青年はいつか帰ることができるだろうか?
“帰りたい”…胸を熱く焦がしていた想いを果たすことができるだろうか?
青年の夢の結末を、僕が知ることは一生ないのかもしれない。
長く夢を見ている間に、先ほど見た夢の記憶もいつか薄れていくのだろう。
だけど。
あの青年が帰りたいと願う場所にいつか帰れればいい。
青年を迎え入れてくれるあの場所に、いつか彼が帰れたらいい。
僕は夢の淵に沈んでいきながら、意識が途切れる刹那まで胸の温かさをじっと感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます