第十節

颯斗はやと先輩ッ!!」


 切羽詰まった声が、十八歳の人間──颯斗の耳にぼんやりとではなく鮮明に届いた。

 颯斗はぎょっとした顔をそのまま声の主に向ける。


陽翔あきと


 声の主は、サッカー部の後輩である篠田しのだ陽翔だった。

 颯斗は陽翔の気配に全く気づかなかった。また、今しがたの陽翔の大声から察する。

 陽翔は颯斗に何度か声をかけた。だが、颯斗が無反応だったので声を張り上げたのだろう、と。

 陽翔はアップルグリーンの爽やかな傘を差しつつ、心配そうにこちらを窺っている。

 陽翔は雪弥の友人であり、この状況で颯斗が最も会いたくない人物でもあった。

 今の状況で陽翔に会いたくない理由。それは、陽翔は洞察力が鋭くて油断ならないからである。

 颯斗はガードレールを既に越えていた上半身を何とか引き戻して地面に着地した。

「……驚いたな。君もここを通って帰るんだ?」

 颯斗は陽翔ににこりと微笑みかけた。

 死ねなかった、と胸の内では重々しく呟いていたが。

「はい、近道なんで!」

 陽翔はそう答えてふわりと微笑み返した。

 とても自殺しようとする先輩を目撃した直後とは思えない。だが。多分、平静を装っているだけなのだと思う。

 陽翔の笑顔が、颯斗には安堵したように見えたからだ。『間に合って良かった』とほっとしているような、そんな笑顔に。

 颯斗は何事もなかったかのように一度捨てた自分の傘と学生鞄を拾いに行く。

 傘を拾い上げようと屈むと、髪から水滴がポタポタと落ちた。ふと気づけば、髪だけでなく制服も濡れており、肌に張り付いている。

 土砂降りの中、傘を放り投げたのだから自業自得である。

 颯斗は傘を差して学生鞄を手に持つ。すると、タイミングを見計らったかのように陽翔が軽く頭を下げた。

「俺、邪魔しちゃいましたよね? すみません!」

 陽翔は颯斗に合わせて、何もなかったかのように話している。だから、『せっかくの一人の時間を邪魔してしまって申し訳ない』という事だろうが。

 隠しきれてない、と颯斗は思った。

 陽翔は冗談っぽく笑っているが、目つきは真剣そのものだったからだ。

 もしかしたら、陽翔は颯斗の自殺を邪魔した事が正解だったのかどうかを考えているのかもしれない。 

 考えすぎだよ……。もし。あのまま僕が死んで逃げたら、侑聖と雪弥は自分を責めてしまうと思う。

 だから陽翔。止めてくれてありがとう。それから……、迷惑かけてごめん。

「別にいいよ」

 颯斗は首を横に振った。

「けど、誰も通らないと思ってつい長々と眺めてしまったよ」

 言いつつ颯斗は用水路を指差す。

 陽翔は「へぇ!」と声を上げて、颯斗の左隣にやってきた。

「俺も先輩と一緒に眺めてもいいですか?」

 陽翔はそう訊きながら、興味津々な表情で用水路を見下ろす。

「いや、別に無理して僕に付き合わなくてもいいよ」

 颯斗はわざと不機嫌そうな声で言った。

「いやいや、無理は一ミリもしてないんで気にしないでください!」

 陽翔は柔らかな微笑を浮かべながらそう答えた。

 だから、颯斗は「無理してないならいいけど」と返すしかない。

「……うーん。やっぱ、小魚全然いないや」

 陽翔が少し残念そうな表情でそう言ったので、

「小魚?」

 颯斗は思わず訊き返した。

「ああ、普段は可愛い小魚がいっぱい泳いでて癒されるんです」

「それは知らなかったな……。陽翔は僕より詳しいね」

「えー、尊敬リスペクトしてる颯斗先輩に褒められるなんて、なんか照れちゃうなぁ!」

「へぇ。本当に尊敬リスぺクトしてる?」

「なっ!? めちゃめちゃしてますってー! ……やっぱ、先輩って俺にだけちょっぴり意地悪ですよねー」

「そんな事ないよ」

 颯斗がそう返した時、ピカッと雷が光った。やがて、ゴロゴロと低い音が鳴り響く。

 そして、陽翔が登場してから少し弱まっていた雨もまた、再び激しくなり始めた。

「ねぇ、颯斗先輩……。さっきの雷も、超やばかったですよね? 光も音も」

 陽翔の問いに颯斗は「ああ」と小さく頷く。

「なんか……、『今日は早く帰った方がいいぞい』っていう神様からの忠告っぽい!」

 だからもう帰りません?

 陽翔はそう提案してきた。

 明るい笑顔を浮かべているが、明らかに緊張した声音だった。

 ……うん。陽翔は僕を用水路から遠ざけようとしてるんだね。僕を死なせない為に。

 悪いけど──、

「いや、僕はもう少しだけ眺める。君は先に帰ってていいよ」

 君が帰った後に、もう一度したいんだ。

了解りょーかいです!」

 颯斗の返答に陽翔は意外にもあっさり諦めた──かと思ったが、どうやら違うらしい。

 陽翔はその場から一歩も動かないし、神妙な面持ちで用水路をずっと眺めているからだ。

 数秒の沈黙の後、颯斗と陽翔は同時に口を開いた。

「帰らないのか?」

「喉乾きません?」

「……僕は乾いてないけど」

「俺、めっちゃ乾いてて。ジュース奢ってくれません?」

「珍しく図々しいね」

「これが俺の本性なんです。がっかりしました?」

 颯斗は陽翔をじろりと睨んだ。

「本当は?」

 すると、陽翔は「嫌だなぁ、疑ってます?」と苦笑した。

「本当に蒸し暑くて喉乾いたからですよ。先輩も顔色悪いですし、自販機で飲み物買いません?」

 さらりと言われたので、うっかり聞き流すところだった。 

 顔色が悪い──?

 陽翔からの思いがけない指摘に颯斗は動揺する。

 ……多分、陽翔は僕と会った時から気づいてたんだ。

「顔色が悪い? 普通だよ。僕の顔は元々青白いからそう見えるだけで」

 颯斗は平静を装いつつすぐに否定した。

 だが、陽翔は「ううん」と首を横に振った。

「普段より顔色悪い。真っ青です。それに、雨で全身びしょ濡れだし、風邪を引かない為にも早く帰りましょう?」

 陽翔は言い終わると、琥珀色の二つの瞳でこちらをじっと見据えた。

 ああ、まずいな。このままじゃまずい。これはもう、強引に話を逸らすしかないか……。

 颯斗は急いで口を開いた。

「僕には去年から気がかりな事がある。それは君の笑顔についてだ」

 完全に不意を突かれたのだろう。陽翔は「えっ……」と声を洩らした。

「俺の笑顔、ですか?」

 訊き返した陽翔に、

「無理に笑わなくていい」

 颯斗は静かな声音で答えた。

 颯斗の言葉に陽翔は一瞬面食らった顔になる。

「今日……自殺しようとするところを陽翔に見せて、気を遣って笑わせてしまった僕が言うべきじゃないのは分かってる。……けど君は普段から……特に去年の九月初め頃からよく無理して笑うようになったよね。だから心配なんだ」

 颯斗がそのように続けると、

「心配しなくても大丈夫です」

 陽翔は穏やかに微笑んだ。

「俺は無理して笑ってない。ハッピーだから笑ってるんです。ほら見て!! この爽やかスマイル!」

 ニコニコと笑う陽翔を颯斗はひどく悲しい目で見ていた。

 君の笑顔を見ると悲しい気持ちになる。涙を零しながらも懸命に笑おうとする──……お母さんを見てる時と同じくらい。耐え難いほど悲しくなるんだ。

 それは、君が本当は悲しいからじゃないのか? 

 なあ、どうなんだ陽翔。

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