第八節

華那はるな、ごめんな……」

 雪弥ゆきやは自分の左隣に立っている華那に心から謝った。

 この謝罪には二つの理由がある。

 まず一つ目は、部活内のトラブルに巻き込んでしまった事だ。

 華那は全部知ってしまった。無関係だってのに……。颯斗はやと先輩の家庭事情は、どうか先輩の嘘をそのまま信じて作り話だと思って欲しい。……頼む。

 次に二つ目は、侑聖に受けた嫌がらせ内容を口にしてしまった事である。

 過去のトラウマを思い出してなきゃいいけど……。

 しかし、雪弥の謝罪は華那には聞こえなかったようだ。華那は薄い唇をきつく結んで、俯いている。俯く様子は萎れた花を思わせた。

 ──ああ、俺のせいだ。俺が五月十四日に華那に話しかけてしまったから。その次の日の五月十五日に、俺が颯斗先輩と喧嘩した事を打ち明けてしまったから。やっぱり、俺は──……絢太じゅんたの言う通りだ。

「華那……?」

 雪弥は不安そうに話しかけた。

「雪弥は侑聖ゆうせい先輩に怒っていい」

 ようやく口を開いたかと思えば、尖った声でそう言った華那に雪弥は戸惑う。

「侑聖先輩に? 何でだ」

 雪弥は訊き返しつつ、華那が侑聖を『侑聖先輩』と名前で呼ぶ事に違和感を覚えた。

 だが、名前で呼ぶのは苗字を知らないからだとすぐに納得する。

 雪弥ではなく颯斗も、侑聖を「倉園くらぞの」と一度も苗字で呼んでいないのだ。

「だって、雪弥のスパイクを捨てたんでしょ?」

 不機嫌そうな声で分かった。華那は侑聖に対して怒っている。侑聖が颯斗の代わりに報復する為に、雪弥のスパイクを部室のゴミ箱に捨てた事に。

「大丈夫だ!」

 雪弥は頑張ってにこりと微笑んだ。

「すぐにゴミ箱から取り出したから、傷も汚れも全くついてなかったし」

「そういう問題じゃない」

 華那は毅然とした表情でかぶりを振った。

「捨てられた記憶も、……心の傷も、どんなに消したくてもなかなか消えない。それに、もし雪弥が見つけてなかったら、スパイクはゴミと一緒に捨てられてたかもしれないんだよ?」

 華那の怒りと悲しみをたっぷりと含んだ声に、

「ああ……。まあな」

 雪弥は歯切れの悪い返事をした。

 侑聖がスパイクを捨てたのは自分であると断言したあの時に、精神的なダメージを受けたのは事実だ。また、捨てられた事を思い出す度に辛い気持ちになってしまう事も。

 しかしながら、華那の気持ちを思うと胸が痛む。

 恐らく、華那は思い出してしまったのだ。小三の頃に、伊藤美里いとうみさとが華那の靴を奪い去って捨てた、あの出来事を。

 華那は過去に美里から傷つけられたからこそ、美里と同じような行為をした侑聖を許せないのだろう。

「ねぇ、侑聖先輩にちゃんと怒った?」

 華那が心配そうな顔で訊いてきた。

「ああ、怒ったよ。……ちゃんと」

 雪弥が華那に返した今の言葉は、半分本当で半分嘘だ。

 実は、侑聖は自分が犯人だと明かした後、すぐに謝罪していないのだ。

 ニヤリと笑いつつこう言った。


が大事な物だともっと早く知ってたら、スパイクじゃなくて時計を捨ててたのに。ああ、残念だなァ』


 侑聖先輩は俺を言葉で攻撃してる。多分、これも颯斗先輩の為だ。……それに、腕時計が俺のお父さんの形見だって侑聖先輩は知らない。


 そう思った。

 だが、どうしても怒りを我慢できなかった。

 雪弥は侑聖に『ふざけんな!』と怒鳴る。すると、侑聖は『何、ガチギレしてんだ。冗談だよ』と訂正したが、冗談でも許せなかった。

 ところが。侑聖が颯斗の家庭事情を語り始めてから、自分への怒りがこみ上げてきた。それと同時に、侑聖への怒りが徐々に消え失せた。

 その為、侑聖に怒りをぶつけきれなかったのだ。


「なぁ、俺たちも早く帰ろうぜ。さっきより雨激しくなってるしよ」

「うん、そうだね。──あっ!」

 突然声を上げた華那に、「どうした?」と雪弥は尋ねた。

「私が傘持つよ」

 挙手しながらそう言った華那に、雪弥は「いい」と速攻断る。

「どうして?」

 華那は不満そうに唇を尖らせた。

「疲れたでしょ? 交代しようよ」

「別に疲れてないから気にすんな」

 華那より身長高い俺が持った方がいいだろ?

「隙あり!」

 と、大きな声で言ったかと思えば、華那は雪弥の手から傘を奪い取った。

 完全に油断して隙を突かれた。

「おい、こら! ……返せよ」

「嫌だ、私が持つ」

「ったく……、子供かよ」

「子供じゃないし!」

「本当にお前が持つのか?」

 うん、と華那は大きく頷く。

 既に、雪弥の身長に傘の高さを合わせる為に頑張って腕を上げている。

 しかし、傘がグラグラと揺れている。

「なぁ、揺れてる。俺が持つよ」

 このままだと俺の頭に傘がぶっ刺さる。

 だが、華那は「ううん、大丈夫」となかなか譲らない。

 意外と頑固なんだよなぁ……。

「おい」

「大丈夫私が持つ」

「いや、俺が持つよ」

「大丈夫頑張る」

「そんなに頑張る必要──おっ! 今のは危なかったぞ」

「大丈夫心配しないで」

「いや、マジで頭に刺さるとこだったんだが」

「頑張るから」

「待て。あっ、危なっ!」

 雪弥は、華那の傘攻撃(?)を頭を下げてかわした。

 これは最早、刺しに来てねぇか? グワングワン揺れてる。華那には悪いけど……、このままじゃ俺の頭がられちまうから。

「返してもらうぞ」

 雪弥は傘を取り返そうと左手を伸ばしたが、直前で方向を変えた。

「けど……、」

 その前にお礼を言っておこう。

 雪弥は二十センチ下の小さな頭をふわりと撫でた。

「ありがとな」

 つい先程の分も兼ねて、感謝の気持ちを込めて。

 つい先程、華那が侑聖に対して怒ってくれたお陰で、絆創膏を貼ってもらったような気がした。


『侑聖先輩からの報復は必要だった。……俺は颯斗先輩を深く傷つけたんだから、罰を受けるのは当然なんだ』


 必死にそう言い聞かせて、痛みに気づかないふりをして放置していた心の傷に。


 目の前にいる華那は、驚いたように目を大きく見開いていた。


 本当にありがとう、華那──。


「痛ッ!!」

 思わず大きな声が出たのは、雪弥の頭に傘が刺さった直撃したからである。

「ごっ、ごめん! ど、どうしよう……!? えっと……、頭大丈夫?」

「ディスってるわけじゃねーよな? 大丈夫だ」

 雪弥はまだ心配そうにこちらを見詰めている華那に、精一杯の笑顔を向けた。

「ちっとも痛くねぇから心配すんな」

 全然痛くねぇ。頭のてっぺんがジンジン痛むのは……、きっと気のせいだ。うん。

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