第十節

「お前ら……。こんな所で何してんだよ?」

 足音の主は雪弥ゆきやだった。

 雪弥の不機嫌そうな声に華那はるなは慄く。

 一方、陽翔あきとは雪弥に臆せず、

「見ての通り、仲良く昼休憩タイム〜!」

 笑みを含んだ口調で返した。

 ところが。雪弥は陽翔には目もくれず、華那を見据えていた。

 引き込まれそうなやや吊り上がった楕円形の瞳は、ロシアンブルーのようだ。

「なぁ、華那。陽翔から変な話を聞かなかったか?」

「俺が答えるよ」

 陽翔がすぐに申し出た。

「お前は入ってくんな」

 が、雪弥は速攻拒否した。

 それから、探るような眼差しがこちらに向けられる。

 多分、雪弥は勘付いてる。それなら──……。

 華那は雪弥をまっすぐ見詰めた。

「変な話聞いたんじゃなくてな話をした」

「陽翔、お前……っ!」

 目の色を変えた雪弥に先んじて、

「私が頼んで可能な範囲で教えてもらったの。だから責めるなら私を責めて」

 珍しくはっきりとした口調で華那は言う。

 しかし、雪弥は華那の隣に座る陽翔をじろりと睨んだ。

 だから、篠田しのだくんは悪くないんだってば!

 華那が雪弥を宥めようとしたその時、雪弥が急にハッとしたような表情を浮かべた。

「ど、どうかした……?」

 華那が戸惑いつつも訊くと、

「いや、どうもしてねぇ」

 答えつつ雪弥は首を振った。

 つい先程まで激怒していたのに、今は落ち着いた表情に変わっていた。

 ひょっとして、華那が雪弥を見ている間に、陽翔が何か言ったのだろうか。

 でも、篠田くんの声は聞こえなかったし、ジェスチャーで伝えたのかな?

 考えてみても、華那には分からなかった。

 と、突然雪弥が、自分の顔をこちらにグッと寄せてきた。


 全部は聞いてないんだな? もし華那が詳細を知りたいなら……。明日は文化祭二日目だから、文化祭が終わった明後日に俺がちゃんと話す。


 雪弥の吐息が直に耳孔に吹き込まれると同時に、静かな低音が響いた。

 華那は驚きのあまり目を剥く。

 えっ、何なの!?

「立て」

 続けて、雪弥は生真面目な表情でそう命令した。

 動揺して固まった状態の華那の手を強く引いて立たせるとすぐに手を離す。

 華那の手を包み込んだ雪弥の手は──。

 白く細い指という普段の認識からは想像もつかないほど、男性的な大きさと厚みがあった。

 華那の火照った耳と頬は、紅玉のような深紅色に染まっている。

 心臓も狂ったように激しい鼓動を打つ。

 何とか呼吸を整えてから、

「雪弥! 急に何するの!? 意味分かんない!!」

 華那は大声を出した。

「耳元で囁いた理由は、俺に聞かせずに瀬川せがわさんに確実に伝える為。ベンチから立たせた理由は、いつまでも俺とベンチに座ってるのが気に食わないから。──だよね?」

「おい、待て! 勝手にベラベラ喋んな!!」

 雪弥が陽翔に向かってそう怒鳴る。

 華那はまだ混乱中の頭で、必死に考えた。

 つまり、雪弥は──、

「ベンチに座りたかったの?」

 だから私をどかしたんでしょ。

「何だ、その結論は」

「あ、違うの? じゃあ、何で……、」

「そんなことより、円井まるいはどこだ?」

 雪弥は華那の言葉を遮って話題を変えた。

「円井と回るって言ってただろ? どうして一人で、陽翔と遭遇してんだよ」

 あっ、今朝風花ふうかと回るって言ったんだった……。

 雪弥の問いに華那は内心顔を顰めた。

「……別に一人じゃなかったよ。風花とは途中で別れたの」

「何かあったのか?」

 太鼓の音が苦手だとは雪弥に教えたくなかった。

「……別に何もなかったよ」

「嘘だな」

「どうしてそう断言出来るの?」

「何かあったから風花と別れたんだろ。俺の事で喧嘩したのか」

「そっ、そんな事ない!」

「嘘だな」

「嘘じゃない!!」

 押し問答が続き、陽翔が「待って」とやんわりと仲裁に入った。

「俺は人混みが苦手だから、カフェに行くっていう友達と別れた。瀬川さんは?」

 華那は陽翔の助け船に乗る事にした。

「私もそんな感じ……」

「……そうか。しつこく訊いて悪かったな」

 申し訳なさそうな表情で謝罪してきた雪弥に華那は首を横に振った。

「ううん、大丈夫」

 と、ぱたぱたというスリッパで歩く足音が聞こえてすぐに顔を向ける。

 ──あっ、風花だ!

「あっ、いたー! 華那ぁ、一人にしちゃって本当にごめんね……。あのね! すっごく楽しかったよ!!」

「ううん、こっちこそごめんね! 風花が楽しかったならよかった」

 華那はホッと胸を撫で下ろした。

 風花に迷惑かけていないかどうかずっと不安だったのだ。

「一人で大丈夫だった?──って、あれ!?」

 風花が陽翔に気づいた途端、つぶらな瞳をキラキラと輝かせた。

 愛くるしいその表情は、トイ・プードルを思わせる。

「陽翔くんだー! 華那と一緒だったんだね!」

「うん、偶然会ってね」

「ありがとう、陽翔くん!!」

「……えっ? どうして俺に『ありがとう』?」

 不思議そうに首を傾げた陽翔に、風花は無邪気な笑みを見せた。

「華那を一人にしないでくれてありがとう! 陽翔くんが一緒なら安心だよ。もし悪人に襲われても絶対に倒してくれるから!!」

「風花、漫画の読み過ぎ!」

 華那は風花に鋭く突っ込んだ。

「もちろん、不審者が来たら手出しはさせないけど、買い被りすぎだと思うよ」

 陽翔は苦笑した。

「ううん、陽翔くんすっごく頼もしいもん!」

 だが、風花は興奮気味の声で断言した。

「楽しそうだなお前ら」

 抑揚のない呟き声は雪弥である。

「あっ、清水!」

 風花はたった今気づいたかのように声を上げた。

「見えてたのにずっと見えてない振りしてたよな?」

 雪弥は呆れているようにも寂しそうにも見える顔を風花に向けつつ質問した。風花は不機嫌そうかつ気まずそうにプイと雪弥から顔を背けた。

「……してないよ」

「二人ともお昼ご飯まだだよね? 皆で休憩しよっか!」

 雪弥と風花二人の間に流れ始めた不穏な空気を察知したのか、陽翔が提案した。雪弥は提案者の陽翔をチラリと見るとすぐに「ああ」と頷く。

「……購入した後、自販機前のテーブルに移動しようぜ」






 華那は夕焼け空を仰いだ。

 綺麗だなぁ、と素直に感じるのは、心に余裕がある証拠だろうか。

 ふと夕焼けの橙色で、美術室に展示された風花の油絵が連想された。

『花瓶に挿されたオレンジの薔薇が鮮やかで綺麗だね!』

 華那が褒めると、

『ありがと! 実はね……。オレンジの薔薇を八本描いたのは陽翔くんに信頼しているという気持ちと感謝を伝える為なの! 秘密だよ? ──でね。私、華那の絵大好きだよ! 希望の華って感じでキラキラ輝いてる!!』

 風花にそう耳打ちされた。

 テーブルで昼休憩した後に、みんなで美術室を訪れたのだ。

 華那は道端に咲く「たんぽぽ」を描いた。

 「たんぽぽ」は幼い頃から馴染みがあり、最も好きな花でもある。

 控えめながらも太陽に向かってまっすぐ成長する姿が、華那にとって「希望」だった。

 それが、作品から風花に伝わった事を嬉しく感じた。

『踏まれても刈り取られてもなお、地中に太い根を張り続ける。たんぽぽは、何があってもへこたれない逞しい花だよね。それが繊細に表現されている』

 これは陽翔の賛辞である。続けて、雪弥が頷いてからこう言った。

『逞しい。お前にぴったりだな』

 華那は雪弥に逞しい印象を持たれている事に驚いたが、喜びで胸が一杯になった。

 逞しくありたいからだ。

 雑草だと嫌われる事や踏みつけられる事があったとしても、懸命に葉を広げて、茎を伸ばし、可憐な黄色の花を咲かせる。「たんぽぽ」のように辛い事があっても乗り越えていけるような逞しい人間でありたい、と。

 この先、死に執着する事しか出来ず、逞しくいられない状況に陥ったとしても。

 救いを求める声を絞り出せたら。その声が微かでも届いて誰かの援助を受けられたら。徐々に這い上がる事が出来たら。

 これらは全て、淡い希望でしかない。それでも……それでもいい。少しでも上へ。上を目指して、私は私なりに羽ばたけるんだって、そう信じ続けたい。

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