第九節

 雪弥ゆきやはシホや小夏こなつとひとしきり遊んだ後で、茶色の本棚に入っている漫画を指差した。

「なぁ、これ読んでもいいか?」

「うん、いいよ」

 華那はるなが許可すると、雪弥は漫画を一冊取り出してそのまま胡座をかいて読み始めた。

 自分の目の前で、漫画のページを無表情でめくっている雪弥を眺めながら、華那はふと思う。

 シホや小夏といっぱい遊んだ後に漫画を読む。……うーむ。

「なんか本格的に遊び始めてるやん!」

 華那は思わず、雪弥に突っ込んだ。

「いや、何で関西弁なんだよ?」

 逆に雪弥に突っ込み返されて、華那は「分かんない」とかぶりを振った。ややあって、ハッと気づく。

 そもそも雪弥は、疲れてるから華那の飼い猫に癒されたくて家に遊びに来たのだ。

 雪弥は華那より頭が良い。

 また、ここで遊んだとしても、自分の家に帰宅した後に必ず試験勉強をすると思う。だから、心配する必要はない。

 そして、今日の放課後──細かくいうと、華那の教室に迎えに来る前に、雪弥はサッカー部の先輩に呼び出された。

 恐らく、雪弥が部室に入ってから顔が強張ってしまうような何らかの出来事が起きてしまった可能性が高い。それならば──。

 雪弥、とにかく今日は嫌な事は忘れて存分に癒されて。

 華那が胸の内で雪弥にそのように語りかけていたら、シホが華那の隣にきて自分の頭を何度もこすりつけてきた。ようやく、飼い主の元に到着である。

 もう遅いよ、シホ。寂しかった……。

 不満を漏らしつつも抱っこしながら撫でると、シホは子猫が甘えるように、ミャア、と鳴いた。

 これはもう、物凄く可愛いから許すしかない。

 華那にひとしきり体を撫でられると満足したのか、シホはその場でスヤスヤと寝始めた。

 よし、私は勉強しよう!

 華那がそう決めた時、小夏がどすんと見開きのノートの上に乗って邪魔をしてきた。

 小夏を構いながら、華那は勉強を再開した。



 今、華那の部屋はとても静かだ。

 聞こえるのは主に、シホの規則正しい寝息や小夏が身動きする音、雪弥が漫画のページを繰る音、そして華那がシャープペンシルを走らせる音の四つである。

 華那と雪弥の二人は同時に口を開いた。

「うわぁ、駄目だ! 全然、分かんない!」

「あっ! そういや、コタロウとまだ会ってないな」

「あのね、コタロウはリビングで寝てるから起きてから遊んであげて。それよりも分からない」

 華那は雪弥に早口でそう返した。

「分かった。どれが分からないんだ?」

「えっと……、この問題」

 雪弥に訊かれて、華那は分からない問題の問題文のところを指差した。

「へぇ、それか。……俺が教えようか?」

「やった! じゃ、お願いします!!」

 華那は雪弥に教えてもらえる事に声を上げて喜んだ。

 だが、雪弥が自分の隣にやってきた瞬間、緊張し始めた。

 や、やばっ……!

 やはり、どうしても雪弥の顔や手の美しさに注目してしまう。

 睫毛長すぎ、羨ましい。手も白くて長くて綺麗──って駄目だ! 全然、勉強に集中できない!!

 自分の鼓動の音がとても耳障りだ。ドクドクとずっと煩い。もちろん止まったらいけないのは分かるが、止まってくれとひたすら願う。

 顔だけではなく体まで、特に背中がじんわりと熱くなってきた。

 雪弥の丁寧で分かりやすい説明がやっと終わり、心の底からホッと安堵する。

 説明を聞いてある程度は理解したが、後でまた解き直そうと思った。

「教えてくれてありがと!」

「……どいたま」

 雪弥はそう答えると、ふわぁと欠伸をして大きく伸びをした。

 少し間を置いて、テーブルを挟んで華那の正面に座る。

「あれ? 漫画はもう読まないの」

 華那が首を傾げながら質問すると、雪弥は「あぁ」と小さく頷いた。

「俺もそろそろ、勉強頑張らないとやばいと思ってさ」

 雪弥はそう言うとすぐに、勉強用具をテーブルの上に広げ始めた。






「えっ、もう六時五十分!?」

 雪弥は学習机の上に置いてある白の目覚まし時計を確認すると、ぎょっとしたような顔で声を上げた。

 次に、自分の荷物を急いで仕舞い始める。

「長居してごめんな。すぐ帰るから」

「……いや、別にいいよ。そんなに慌てなくても」

 もう帰っちゃうの? まだ、いてもいいのに……。

 そのような華那の気持ちを知ってか知らずか、雪弥は帰る気満々である(知らないに違いない)。

「よし、帰宅準備完了。……華那、今日は本当にありがとな! お前のお陰ですげぇ癒された」

「どういたしまして。でも私は特に何もしてないよ。シホ──は寝てるから小夏にお礼言ってあげて」

「分かった」

 雪弥は頷くと、カーペットの上で気持ちよさそうに眠っているシホに「ありがとう」と小声で言った。

 それから小夏を愛おしそうに撫でつつ、

「ありがとな、小夏。お前のお陰で楽しい時間を過ごせたし、めちゃくちゃ癒されたよ」

「にゃあ〜」

 と、小夏は雪弥に返事しているかのように一鳴きした。

「……返事したね」

「したなぁ。小夏は天才猫だ」

 一拍置いて、華那と雪弥は同時に顔を見合わせてクスッと笑った。

「あっ!」

 その後、不意に声を上げたのは雪弥である。

「どうしたの?」

 華那が訊くと、

「お前に訊いておきたい事があったんだった」

「えっ、何?」

「華那はどこ大学を目指してるんだ?」

 雪弥からの突然の質問に対して、華那はやや遅れて首を横に振った。

「決めてない。まだ大学に行くかどうかも迷ってるし……」

 えっ、と雪弥は意外そうに目を見開いた。

「そうなのか? てっきり、お前も大学に進学するかと思ってた」

「うーん、なかなか決められなくて。専門学校もいいなぁって。……雪弥はもう、志望大学決めてるの?」

 雪弥は迷いなく頷いてから、県外の国公立大学の名前を一つ挙げた。

「へぇー、凄いね! 私は頭悪いから選択肢にすら入れないや」

「何言ってんだ、最初から諦めるなよ。それに華那は頭悪くないだろ」

「いや、頭悪いって! 分かってないでしょ? 私は雪弥みたいに頭良くないんだよ」

「……俺は頭良くねぇ」

 雪弥の返答に、

「そんな事ない!」

 華那は首をブンブンと力強く振った。

「私のクラスの女子みんな、雪弥の事を褒めてたよ。勉強もスポーツもできてかっこいいって」

「……全然、かっこよくねぇよ」

「私もかっこいいと思ってる。雪弥はやっぱり、凄いんだよ!」

 華那はそう言った後で、しまったとすぐに後悔した。

 字面だけ見ると褒めているように感じるかもしれない。

 だが、以前から華那は──不器用な自分とは違って、何をしても他人から称賛される雪弥に対して嫉妬していた。

 いい加減自分の凄さを自覚して欲しい、とも思っていた。

 つまり、雪弥に言った『凄い』は純粋な褒め言葉ではなく、妬みを含んだ言葉である事は否定できない。

「昨日さ」

 雪弥はためらいがちに言った。

「『完璧にこなせる』って華那は俺に言ってきたよな?」

 華那はこくりと頷く。

 そして、昨日の放課後に、雪弥につい冗談で言ってしまった一言を意識的に思い出した。


『へぇ。何でも完璧にこなす清水くんでも緊張するんだ?』


「そう、見えてたんだな。……違う、完璧にこなせない事だらけだよ。笑えない失敗して、周りの人に迷惑をかけて、自分の不甲斐なさに落ち込んで……。何も手につかなくなる事だって、あったよ」

 雪弥は消え入りそうな声でそのように語った。

 奥二重の目は潤んで見え、眉間には深い皺を刻み、苦しげな表情を浮かべている。

 激しい罪悪感と自己嫌悪で、胸がジクジク、と痛む。

 何で深く考えずにあんな事言っちゃったんだろう。何気なく言われた一言が一番傷つくんだって痛いくらい理解してたはずなのに──。

 華那は深く頭を下げた。

「雪弥、ごめんね……」

 傷つけてしまって本当にごめんなさい……。私は雪弥の事なんにも分かってなかった。

 華那の謝罪に雪弥はかぶりを振る。

「いや、俺が悪い。変な事言ってごめんな……。けど……、もう少しだけ話してもいいか?」

「うん、全然いいよ」

 か細い声しか出せなかった。

 それでも、雪弥の話をちゃんと聴こうと思っていた。

「悩みがあるんだ」

 雪弥は疲れてしまったような暗い声で言った。

 華那はとても緊張して、ごくりと唾を飲み込む。

「俺は……、相手の気持ちをろくに考えずに相手が最も聞きたくない話をして傷つけた。……心に取り返しのつかない深い傷をつけてしまったんだ」

 雪弥の声は弱々しく震えていた。

 それだけではない。

 少し触れただけで雪のように溶けて消えてしまうのではないかと不安になるくらい、目の前にいる雪弥はひどく儚なげに見えた。

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