第二節


 頑張れ、雪弥。期待してるぞ。


 富川とみかわにそう応援された途端、雪弥ゆきやの顔はひどく強張った。

『頑張れ』という言葉は、正直きつい。また、『期待してるぞ』という言葉はいつもなら嬉しいはずだが、今はちっとも嬉しくない。

 ……富川先生。俺は気を紛らわせる為に、狂ったように頑張ってるんです。後、他がボロボロだから、せめて勉強だけは完璧にこなそうとしてるだけで……。だから、勉強熱心でも気合い入ってる訳でもない。陽翔に勝つとか、学年一位とか、そんなのどうでもいい。

 胸の内では、このような乾ききった弱々しい本音を漏らしていた。

 だが、雪弥は自信満々に見えるような表情を何とか頑張って取り繕って、

「死ぬ気で頑張って陽翔あきとを負かして、必ず学年一位になってみせます!! やっぱ、先生の期待には応えたいし、あいつが俺に負けて悔しがるツラは見てみたいんで!」

 雪弥が言い終わると、

「……へぇ、そうか」

 富川は曖昧に頷いた。口元にはぎこちない微笑みを浮かべている。

「先生?」

 雪弥は不可解そうに首を傾げた。

 ……どうしたんだ?

 富川は雪弥の呼びかけをすっかり無視した。無言で、木棚の上に置いていた自分のボールペンを空色シャツの胸ポケットに仕舞う。

「あの、先生……?」

 雪弥は目を伏せて考え込むような表情をしている富川に恐る恐る尋ねた。

「もしかして、怒ってますか……?」

 その途端、富川はハッとしたように目を見開いて、すぐに口を開く。

「いや、別に怒っちゃいないよ。ただ……、お前にかける言葉を間違えたなぁって後悔してただけで」

「えっ、間違えた?」

 ああ、と富川はやけに深刻そうな表情で頷いた。

「今さっき、『頑張れ』『期待してるぞ』って言ったが前言撤回する。……無理するなよ」

 予想外すぎる言葉に、雪弥はびっくりして目を見開く。

 無理するなよ──。

 とうとう、自分の異変に気づかれてしまったようだ。

 すぐに答えなかったからだろうか。それとも、顔が強張っていたせいだろうか。

 動揺する雪弥の返事を待つ事なく、

「ごめん、雪弥。先生、今日中に終わらせないといけない大事な仕事があるんだ」

 富川は早口で言った。

「だからもう……、お前も早く帰りなさい」

 それから、申し訳なさそうな表情でこちらを見詰めながらそう付け足した。

 いや、何で心底すまなさそうな顔してんだよ?

 雪弥は困惑した目つきで富川を見返した。

「……そうですね、もう帰ります。忙しいのに、沢山質問して先生の時間を奪ってしまって本当にすみませんでした」

 雪弥が戸惑いがちに謝罪すると、富川は苦笑した。

「おいおい、謝るなよ……。生徒に教えるのが先生の仕事なんだから気にする必要ない。それに、今から集中して作業すれば充分間に合うしな」

 富川は言い終わるとすぐに、雪弥に背を向けて職員室のドアを開けた。

「じゃあ、また明日。さようなら」

 富川が職員室に足を踏み入れてこちらを振り向いてから、ゆっくりと言った。

「はい。さようなら」

 雪弥が微笑みつつそう返すと、富川は気まずそうに目を逸らした。そして、そのままそっとドアを閉じる。

 目の前でドアを閉められて、何だか突き放されたように感じた。

 また、不思議な事に、自分から目を逸らしている時の富川は普段より小さく見えた。富川は雪弥と同身長の一七二㎝で、ごく平均的な体型だと言うのにだ。

 気のせいかな……。

 雪弥は今、寂しげな表情で、ぴったりと閉じられた職員室のドアを見詰めている。

 仕方ねぇ。先生は忙しいんだ。誰だって余裕のない時は、他人の面倒事には巻き込まれたくないもんだ。……で、まさに今、心に余裕がない俺はどうなんだよ。もし、誰かが悩んでるのに気づいた時、すぐに助けようとするか? ……しねぇだろ? どうしようって迷うだろ? それが普通だ。

 心に受けた傷の痛みを少しでも和らげる為にそう言い聞かせながら、雪弥はドア前から木棚の前に移動した。

 でも、と見開きの数学ノートの中央に消しゴムのカスを集めながら思う。

 先生……。俺の様子がおかしい事に気づいたんなら、『何か悩みがあるなら相談に乗るぞ』くらい言って欲しかったよ。

 ──なんつって。

 フフッ、と悲しそうに鼻で笑ってから低い声で呟く。

「……人を頼るな……」

 もし、『相談に乗るぞ』って言われても、どうせ相談できねぇだろうが。颯斗はやと先輩のあれこれを先生にバラすワケにはいかねぇからな……。

 さて。

 雪弥は消しかす入りのノートをパタンと閉じた。

 もう。弱っちい俺は、この消しかすと一緒に教室のゴミ箱に捨ててしまおう。

 密かにそう決めながら、文房具を次々と黒色の筆箱に入れていく。

 そうして自分の文房具を片付け終えると、ノートの上に教科書と筆箱を乗せて抱えた。

 俺がやってしまった事なんだから、俺一人で何とかするんだ。

 固く決意して力強く一歩を踏み出した。



 

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