白くあれ李(すもも)

松平 眞之

第1話 見知らぬ港


 宙に浮き上がった身体が、ゆらゆらと雲の上を揺蕩うような感覚。

 或いは揺り籠に乗せられて、漂っているとでも言うべきか。

 何かを叩くチャプチャプという音と鼻を衝く独特の匂いに、果た

して此処が何処なのか、徐々に覚醒しようとしている自身の五感が

呼応し始めた。


 間違いない。これは船縁を叩く波音と、潮の匂い。

 

 ゆっくりとではあるが、自身の居場所が明らかになっていく。


 恐らくここは船室(キャビン)の中・・・・・。 


 そう結論付けてはみたが、しかし今自身が現実に覚醒しようとし

ているのか、或いは未だ夢の中に居て自らが覚醒する夢を見ている

のか、果たして奥平成(おくだいらじょう)はそのどちらとも確信

を持てなかった。


 ゆっくりと瞼を擡げ、ふかふかのベッドに横たわったまま、眼の

動きだけで辺りを見廻してみる。

 マホガニー材をふんだんに使った船室の内装は、凡そ見たことが

無いほど豪華だ。

 ベッドの上に身を起こしてみると、益々それ等が明らかになる。


 快適な温度に調整された船室内には、空調のファンが廻る音が微

かに響き、丸窓からうっすらと陽の光が差し入っている。

 寝返りを打ってみると、眼前には妻の美姫(みき)とそれに長男

の桂(けい)が、未だ寝息を立てて眠っていた。 


 きっと家族して豪華客船に乗船し、船旅に出た夢の途中。


 普段ならば自身を含め、皆美姫の買ったパジャマを着ている筈だ。

 家族で旅に出るときだって、そう・・・・・。

 しかし今は自身を始め、美姫も桂もブルゾンにデニムである。


 こんな格好のまま眠ることはない。

 やはりこれは夢なのだ。

             ‐1‐







 そう確信し再び眼を閉じて間も無く、聞き慣れない異国の言葉が

耳朶を打つ。


「저하,저하,세손저하.(チョハ、チョハ、セソンチョハ/邸下、

邸下、世孫邸下=王位継承者【세자/セジャ】の子で、世子に次ぐ

王位継承者である世孫のことを、尊号を付して呼ぶ朝鮮時代の呼び

方)」


 日頃韓国語講座に通っているお陰で、言葉の意味は良く分かった。

 畏れ多くも夢の中で自身は、朝鮮時代の親王様にあらせられる。


 こんな夢を見てしまうとは・・・・。


 きっと先日妻の美姫が嵌まっている韓流時代劇のDVDを、茶の

間でこっそり見たせいだ。


 眼を閉じたままで苦笑する。


 それにしても韓国のような近場への旅に豪華客船を使うとは、か

なりの大盤振舞である。

 然るにそれがヨーロッパでない所が、庶民的で何とも侘しい。


 如何にも自身の見そうな夢である。


 そうして横になったままで現況を自嘲してみれば、それ等総ての

情景が微笑ましく、夢の中でしか有り得ないものであった。


 しかしそうとなれば、精一杯朝鮮王族の役を演じてみたくなった。

 韓語(한글/ハングル)を使って、己が臣下に問うてみる。


「누구인가?(ヌグインガ?=誰か?)」

「다이쇼군입니다,저하.(テジャングンイムニダ。チョハ=大将

軍であります。邸下)」


 日頃の成果が報われて、私の韓国語も何とか相手に通じたようだ。

 面前には朝鮮時代の装束を纏った大将軍が控えている筈。


 と、再びゆっくりと瞼を擡げてみる。

 しかし次の瞬間網膜に像を結んだのは、以外にも軍服に参謀懸章

を吊るした老年の男の姿であった。

             ‐2‐







 してみると夢の中の今は、朝鮮時代ではなく現代なのだろうか?


 我ながら整合性の無さに呆れた。

 荒唐無稽も甚だしい。


 意を決してベッドの上に身を起こした。

 次いで大将軍と名乗る老年の男の頭頂から爪先まで、じっくりと

舐めるように視線を這わせてみる。

 彼は跪いて片方の掌を胸に当てながら、こちらに相対していた。

 宛ら王族に対する臣下の礼である。  


 眼を凝らせてじっくりと見詰めるも、やはり男は茶褐色の軍服を

纏っており、襟元の赤い階級章には幾つもの星が銀色に輝いている。

 但しそれは新聞やテレビのニュースで見た韓国軍のそれとは、全

く趣を異にするものであった。

 自分の見ている夢は一体どれ程支離滅裂なんだと、肩をがっくり

と落とした拍子に、ガンガンと響く激しい痛みを後頭部に覚える。

 確かに寝起きは良いほうではないが、夜を徹して飲み明かした後

の寝覚めでも、こうも酷い頭痛に苛まれたかどうか・・・・・。


 夢の中とは思えないような、余りにも激しい痛みである。


 そうして後頭部を揉みしだきながら昨夜来の記憶を辿っていた成

の脳髄に、突如高圧電流を流されたかのような戦慄が走り、眼下に

跪く大将軍を押退けるようにして船室を飛び出した。


 デッキに躍り出ると、昇り始めた陽の光が寝ぼけ眼を真っ直ぐに

射してくる。

 陽光から思わず顔を背け、眉の上に右手を翳した。

 そうして自らの手に視界を塞がれていても、耳だけは辺りの騒が

しいことを感知している。

 何事かと陽光に眼も慣れぬまま、翳していた手をゆっくりと退か

せてみた。


 塞ぐ物の無くなった眼には、先ず露になった船体が見える。


 自身の予測とは異なり、豪華客船ではない。

 小型クルーザーのようであった。

 船は何処なのか、見知らぬ港の岸壁に舫われているらしい。

 次いで視線を岸壁の下に向げると、信じ難い光景が拡がっていた。

             ‐3‐ 


 






立ち尽くす自らの視界に飛び込んで来たのは、昇り始めた陽光を

背に、居並ぶ兵士と、そして兵士と、兵士達の姿。


 夥しい数の兵士達が、大将軍同様茶褐色の軍服を身に纏っている。


 皆が皆こちらに対して跪き、胸には片方の掌を置いて、臣下の礼

を取る姿が見て取れた。


 宛ら韓流時代劇のワンシーン。

 否、韓流戦争映画のワンシーン・・・・・か?


 高々と掲げられた軍旗には赤い星が燦然と輝き、一目で朝鮮人民

軍のそれであると知れた。

 振り向けば先程の大将軍と名乗る男もデッキまで出て来ており、

跪き今し方と同じく臣下の礼を取っている。


 これは夢なのか? 


 と、言う自問に対し、再び後頭部を襲った更なる激痛が、最早自

身の覚醒していることを告げていた。


 眼を瞬き、腕に嵌めた自慢のG・ショックに視線を落とす。


 デジタルで2020・6・9と、デート表示のされた直ぐ下の時

刻表示は06・28を刻んでおり、その横のセコンド表示は何時も

のように遽しく進んでいた。


 それこそ・・・・・今自分が此処に居る。

 そして総てが現実であると言うことへの、駄目押しであった。












             ‐4‐ 

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