第6話 ある養護施設元保母の手記より

 母親修行            下山 美香(旧姓・中元)


 私は、岡山市西部のC短大在学中に保母資格を取得し、卒業とともに、養護施設の職員として就職した。講師として短大に来られていたよつ葉園の大槻和男児童指導員の講義を受講して、養護施設という場所で勤めてみるのも悪くはないと思ったのが、この道に入るきっかけだった。

 保育実習で、私は、大槻先生のいるよつ葉園に行った。この施設は、昔から先駆的な取組をしているところだという。子どもたちがのびのびと暮らせるよう、しっかりした運営がされているという印象を持った。先輩保母の皆さんも、やさしい人たちばかりで、ものすごくやりやすかった。でもやっぱり、養護施設という場所らしく、どこか暗い影があるようにも思えた。ベテラン保母の山上先生は、子どもたちへの愛情にあふれていて、いつも、何かの行事を先頭に立って行っていると説明を受けた。

 私はよつ葉園に勤めたいと思ったが、親に、できれば家の近くで、と言われ、実家に近いくすのき学園という養護施設に採用された。

 本来なら住込みでというところだが、自転車で数分のところなので、結局、泊り込みの日以外は自宅から通うことになった。


 養護施設くすのき学園に勤め始めた私は、当時の園長に、幼児の担当を任された。

 小さい子どもたちを朝昼晩と世話をすることに、てんてこ舞いの日々が始まった。

 こんなことなら、保育園に行ったほうがよかったかな、あるいは、どこかの会社に事務員で勤めたほうが、よほどよかったかな。

 そう思うことは、何度も、何度も、あった。

 だけど、そんな私の思いなど気にしている暇もなく、子どもたちは私の周りにいて、泣いたり笑ったり、話しかけたり、世話に追われたり。そんな日々が続いた。

 この施設には、子どもたちを大声で叱って動かそうとする先輩保母が何人かいた。

 最初はそんなものかなとも思ったが、どうも、これは違うなと思い始めた。

 2年目から、小学校の校長を定年退職された稲田健一先生が、園長としてくすのき学園に赴任された。施設内の雰囲気は、それから徐々に良くなった。そしてその年度末、大声を上げて叱ることがあまりに多い保母が3人、一斉に退職した。その頃から、くすのき学園の子どもたちは、大きく変わり始めた。さすがに中高生の特に男子はそうでもなかったが、小さい子たちは、目に見えて明るくなった。


 仕事にすっかり慣れた4年目の昭和53年9月初旬。

 ひとりの幼児がくすのき学園にやってきた。

 小田英一という、3歳の男の子だった。彼の母親は、産後の経過が思わしくなく、入院中なので彼の面倒までは見られないし、父親は寿司屋を出したばかりで、とてもではないが経済的にも、また時間的にも子どもを育てるだけのゆとりもなく、祖父母や兄妹に預けるわけにもいかないからということで、児童相談所を通してくすのき学園に「措置」され連れて来られた。英一君は、母親から離れて私が手をつないで部屋に連れて行っても、泣き叫んだりしなかった。


 その日から、私は彼の世話にてんてこ舞いになった。

 それまでは淡々と、目の前の子どもたちを日々遊ばせ、風呂に入れ、ご飯を食べさせ、そして寝かせて、朝になれば起こして、また同じように日々を送る生活だった。 それが、自立に向えてない彼を早く同世代の子どもたちと同じように暮らせるように、必死で取組むことに。彼は、私が担当することになった。稲田園長は、他の子たちはある程度他の保母に任せて、あなたはとにかく、英一君をしっかりと見てやってくださいと言われた。どうして私だったのか、今もよくわからない。でもその日から、休みの日以外はずっと、彼の世話をした。他の担当の子もいたが、彼のことばかりが今も印象に残っている。

 やがて彼は、トイレにも自分で行けるようになった。言葉も、単語しか言えない状態だったのが、いくつかの単語をつなげてしゃべれるようになってきた。私が事あるごとに絵本を読み聞かせたことがよかったのか、それを聞いていた他の子たちも、段々、言葉を覚えていった。カラカラのスポンジに少しずつ水がしみ込んでいくような感覚だった。

 やがて、英一君はくすのき学園での生活にもなじんできた。毎月、彼の父親は面会に来た。そのときは、応接室の椅子で飛んだり跳ねたり、ときに稲田園長に聞かれたことには答えたりした。だけど、自分がどんなところにいるのかは、あまりわかっているようには見えなかった。年も暮れるころには、他の子たちと仲良く遊ぶようになっていた。


 年末年始は、大みそかから年明けの3日まで、くすのき学園の職員居室に泊り込んでの勤務になった。家が近いこともあり、他の住込み職員たちの休暇の代わりに、私は年末年始の4日間、ずっと休みなしで勤務した。英一君の父親は、この年末年始は書入れ時でもあり、面会には来られなかった。母親は退院できたものの、まだ調子がすぐれないため、生まれたばかりの子を世話しながら、自宅で休んでいる。稲田園長の話によれば、まだ母親には声に元気さがないとのこと。英一君はこの正月を、くすのき学園で過ごすことになった。学園に残っているみんなで近くの神社に初詣に行って後、書初めということで、英一君にも筆を持たせた。半紙に、何でもいいから書いてごらんと言った。彼は、たまたま目の前にあった絵本を見ながら、表紙にあった家の絵を描いた。なかなかよく書けたので、褒めてあげたら喜んでいた。このときは、中高生男子を担当している日高先生も、学園でお屠蘇を飲んでご機嫌がよかったのか、小さい子の世話をしたり女の子たちとも話したりして、いつもとは違った一面を見せていた。


 正月休みが終わり、1月半ばにもなった頃、小田さんの店は3日ほど休みをとった。忙しさもひと段落して、母親の調子もかなり良くなったこともあるので、英一君を3日ほどうちで過ごさせてやりたいという。稲田園長は、それはぜひと言って、半月遅れの正月休みを過ごさせた。3日後、英一君はくすのき学園に戻ってきた。

 両親と稲田園長に手を振って別れの挨拶をするのも束の間、彼は自分の部屋へと駆けていった。

 

 それから3週間ほどした、2月の節分が終った翌々日の5日の月曜の昼前、児童相談所から稲田園長に電話があった。

 英一君を引取りたいと、両親が言っているとのことだった。

 聞くと、母親の体調も回復に向かいつつあり、また、英一君も母の手を煩わせず自分の最低限のことはできるまでになっているから、この際、早いうちに引取りたいとの要望が入ったという。幸い、父方の祖父も長年勤めた国鉄を近く定年退職になるので、祖母とともに孫の面倒を、ある程度は見てやることもできるようになるとのこと。

 英一君の父親の店は、当時、毎週月曜日を休みにしていた。引取りたいと児童相談所に行ったのも、実際に引取りに来たのも、やっぱり、月曜日だった。翌週の13日月曜の朝、両親と生まれたばかりの弟、それに、定年退職前で有給休暇を消化中の父方の祖父が、英一君の父親が運転するクルマで、くすのき学園にやってきた。

 稲田園長の指示を受け、私は学童保育をしている場所に行き、英一君を連れてきた。それからしばらくの間、園長と小田さん一家との話が続いている間、私は少し中座した。予め段ボールなどにまとめていた英一君の荷物を、日高先生と一緒に応接室に持ってくるために。英一君が朝9時から学童保育に行っている間に、私は彼の荷物をまとめていた。つい今朝まで来ていた寝間着や服なども、既に洗濯して、乾かして荷造りしている。


 衣類、おもちゃ、画用紙、筆記用具・・・。

 一つ一つのモノに、彼の「母」として過ごした4か月間の出来事が詰まっている。


 そんなことを思いながら、私は「息子」の荷物をまとめた。休憩時間に入っていた日高先生が、まとめた荷物を応接室に持ってきてくれた。さすがに、自分一人で持つのは、少しばかり、重かった。バレーボールで鍛えられている日高先生は、さすがに力持ちで、段ボール二つを難なく重ねて持ってくれた。これで、何往復もしないで済む。私は残りの袋に入った荷物をいくつか持って、応接室に向かった。


 「勇気と希望と、それに多少のお金があれば、人生は、やり直せる。中元さん、知っているかな? チャップリンがライムライトで言っていた言葉・・・」


 さして重くはないものの、しかしそれなりにかさばっている荷物をまとめた段ボールを二つ持って、英一君の寝起きする部屋を出るとき、日高先生は突然、私にこんなことを聞いてきた。いつもの日高児童指導員とも、正月勤務のときの日高先生とも違う、日高淳君という1歳年上の青年の姿を、私はその言葉に垣間見た気がした。


 「御自身が国立大学出身とは名ばかりの筋肉馬鹿だ、なんて梶川さんの前で言っていた日高さんにしては、失礼ながら、意外な気もしますけど・・・」

 「ぼくはS高校で、英語のリーダーの教科書でその言葉を覚えた。筋肉馬鹿だけど、そのくらいの英語はわかると、言いたいところですが・・・、京都大の法学部に行った同級生の吉沢って奴が、そのところの訳をうまいこと授業で披露してくれて、それが印象に残っているだけかもしれんけど、まあ、わかってしまえば、一緒ってことや」

 「勇気と希望はともかく、多少のお金というのは・・・何なの?」

 「小田英一君にとっては、中元さんとぼくが今持っているこの荷物、4か月の間、このくすのき学園で暮らして得たモノのすべてが、その「ちょっとのお金」に相当するモノなのよ。あとは、あの子に、勇気と希望を、ぼくら職員がどれだけ与えられたか。日ごろ、中高生相手に偉そうな指導ばっかりしているぼくが言うのも、難やがね」

 そんなことを話しながら、私たちは、応接室に英一君の荷物を運び込みました。

 それらの荷物は、日高先生と英一君の父親に、クルマの後ろへと積み込まれました。

 英一君は、父親の運転するクルマの後部座席に母親と弟と一緒に乗り込んで、くすのき学園を去っていきました。先頭に立って手を振っている日高先生や他の保母さんたち、それに学童の子どもたちの陰に隠れ、私は、そっと、小田一家を見送りました。後に稲田先生が出された本には、明らかに私とわかる保母が、物陰でひそかに泣いていたと書かれていましたが、涙を流していたかどうかは、覚えていません。


 彼の退所に遅れること約一月半、私は、4年間勤めたくすのき学園を退職し、程なく結婚しました。

 新婚気分も束の間、翌年には、男の子が生まれました。今度は、人様の子ではなく、私自身の子です。いろいろありましたが、あの4か月間の「母親修行」を思えば、何とでもなると思って、私は、子どもたちを育ててきました。

 私はその後、英一君に会ったことはありません。立派な大人になって、どこかで元気に暮らしていることを、私は今も、陰ながら願っています。


 英一君の「母」として、私は、務まっていたのだろうか・・・?

 孫たちの世話をしていて、時々、ふと、思い出すことがあります。

 母親修行の、あの4か月のことを。

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