第3話 癒しの女神

「はあはあ、あと何周だっけ?」


 無断で部活を休んだ翌朝、俺を待っていたのは笑顔のキャプテンだった。


「罰走30周な」


 朝練では授業に間に合わなくなるということで放課後の練習で走ることになったわけで。


「西くん、あと8周だよ。ファイト!」


 グラウンドの脇には癒しの女神こと有松紫穂里さんがストップウォッチを構えながら応援してくれている。

 白いTシャツに赤のジャージを履いた、いかにもマネージャーですといった服装なのに、風に揺れるセミロングの黒髪や必死に隠そうとしているのに主張している双丘は彼女を他のマネージャーと比べ物にならないくらい輝かせている。


「はあはあ。ほへぇ〜、疲れた」


 30周を走り終えクールダウンしていると紫穂里さんがドリンクとタオルを持って小走りで近寄ってきた。

 

 控えめに言ってかわいい。


「はい西くんお疲れ様。風邪ひくといけないからちゃんと汗拭いてね」


 小柄な紫穂里さんが上目遣いで見つめてくるから破壊力抜群である。


「……あざっす」


 これまでは彼女もちという理性の鎧を心に装備してたため耐えれてたんだろう。フリーになってわかる紫穂里さんの破壊力。


「それで体調は大丈夫?今朝も少し顔色良くなかったけど無理してない?なんて、走らせた後に言うセリフじゃないね」


 ペロっと舌を出した紫穂里さんに耐性の低い野郎どもが打ちのめされていく。


「うっ!やべぇ。紫穂里先輩かわいすぎる」


 胸を押さえて倒れ込む部員たちを見ながら帯人が呆れ顔で見下ろしている。


「うちの部員大丈夫か?」


 帯人の言いたいことはわかるが間近で直撃した俺のハートはすでに崩壊一歩手前だ。


「西くん?」


 胸を押さえて必死に耐えている俺を紫穂里さんが覗き込んでくる。

 やばっ!めちゃいいにおいがする!シャンプーか?


「あ、ああ。大丈夫、大丈夫です。昨日は連絡できなくてすみませんでした」


 なんとか耐え抜いた俺はバレない程度に距離を取って答えた。


「ほんとに?顔赤いけど熱あるんじゃない?」


 せっかく取った安全マージンを一瞬で奪った紫穂里さんは「よっ」と声を出したかと思うと右手を額に当ててきた。


「う〜ん。やっぱり少し熱くないかな〜」


 目の前で首を傾げる癒しの女神は心配そうに見つめてくる。しかし、俺が固まっているのに気づいた紫穂里さんは自分の取った行動にやっと気づいたのかボンっという音がしそうなくらい真っ赤な顔になり、ササっと手を引っ込めた。


「ご、ごめんね」


 恥ずかしそうに俯くその姿も男子諸君にはご馳走でしかない。


「い、いえ。大丈夫です。大丈夫」


 俺は両手を振って問題ないことをアピールする。しかし、そんな俺を上目遣いでみる紫穂里さんは、


「でもおでこ熱かったよ。ほんとに無理してない?」


と念を押してきた。

 そりゃ紫穂里さんに至近距離で触られれば体温くらい急上昇しますって!とは言えないので、


「走り終わったばかりですから。そりゃ体温高いっすよ」


と答えておいた。


 それを聞いた女神さまの顔は再び真っ赤に染まる。


「あっ!そっ、そうだよね。当たり前だよね。あは、あはははは」


 火照った顔を両手で扇ぎながら「やっちゃった」と小さな声で呟いていた。


 紫穂里さんってこんなにもかわいかったんだ。


 今までは彼女がいたので特に意識することもなかったけど、みんなが女神と崇めるのも納得だ。


「な〜にイチャついてんだよ。結局お前は相手が誰でもイチャつくんだな」


 それまで静観していた帯人がため息を洩らす。


「イ、イチャついてなんてないよ?そ、そんな他人の彼氏さんとイチャイチャなんてしないよ?」


 紫穂里さんがあたふたしている。

 ああ、俺が別れたことはさすがにまだ知らないか。特に知らせる必要も「ああ、こいつ昨日別れたよ」……。


「帯人?」


 悪びれることもなく帯人は肩を竦めた。


「別に隠す必要ないだろ?それに紫穂里ちゃんにはお得な情報だしな」


 紫穂里さんにウインクをした帯人はニヤニヤと不敵な笑みを向けている。


「そ、そっか……、それで西くん落ち込んでたんだね」


 一緒だけ明るい表情をしたようにも見えたが、紫穂里さんは俺に同情してくれているようだ。簡単に割り切れるようなものではないけど、少しづつでも忘れていかないとな。


「紫穂里さん、俺は大丈夫ですよ。変に気を使わないでください」


 表面だけでも明るく見せておけば、そのうち本物になってくれるだろう。俺は精一杯の強がりで笑顔を見せた。


「西くん……うん、わかった」


 紫穂里さんも顔を上げて俺に笑顔を返してくれた。


「紫穂里ちゃんそれだけ?もたもたしてるとチャンス逃すよ?」


 さっきから帯人はお得な情報とかチャンスとか紫穂里さんを揶揄うかのようにしている。それは紫穂里さんも気づいてるみたいで時折焦ったような表情をしている。


「お前、さっきから何言ってるんだよ。紫穂里さんは俺が別れてうれしがるような人じゃないだろ」


 呆れ顔で帯人に言うと「はあぁ」とため息をつかれた。


「あ、あのね西くん。お願いしたいことがあるんだけどいいかな?」


 あたふたと帯人を遮るように紫穂里さんが出てきて俺の前で小さく両手を合わせた。


「うん?なんすか?」


「あのね。備品の買い出しを手伝ってくれないかな?いつもはだいたい2人にお願いするんだけど、今回はそんなに買う物がないから私と2人になっちゃうんだけど。今までは彼女さんがいたからお願いできなくて」


 ああなるほど。彼女持ちは変に疑われないように誘わないようにしてるんだな。それで俺も今まで誘われなかったのか。あいつ、紫穂里を警戒してたみたいだし紫穂里さんも気付いてただろうしな。


「俺でよければ手伝いますよ」


 断る理由なんてないし、むしろ今までやってなかった分手伝わなきゃな。


「ほんと?やった!」


 紫穂里さんが小さくガッツポーズをした。無意識だったんだろう。俺が不思議に見てると手をささっと後ろに隠した。


「あ〜!やっぱり油断できない!」


 紫穂里さんのかわいい仕草に癒されていると背後から聞き慣れた声がした。


「……お前」


 京極は俺と紫穂里さんの間に割って入ってきてビシっと紫穂里さんを指差した。


「前から言ってるじゃないですか!ひとの彼氏にちょっかいかけないでください。この泥棒猫!」


 あまりの出来事に唖然としてしまったが紫穂里さんの悲しそうな表情を見て我に返った。


「ひとの彼氏?」


 俺の声にビクッと肩を震わせた京極は恐る恐る顔を向けてきた。その表情は強張っておりまともに俺を直視できないようだった。


「あ、ああ」


 言葉にならないとはこのことだろう。


「おい京極」


「……えっ、京極?」


 京極は戸惑いの表情を浮かべている。


「お前とは昨日別れたはずだ。だったらお前は俺にはすでに関係ない人間だろ」


 縮こまっていた紫穂里さんを背中に庇うようにして京極の前に立ちはだかる。

 直後シャツの裾を掴まれる感触がしたがいまは触れないでおこう。


「えっ、でもそれは一時て」


「別れたよな?」


 京極が何かを言いかけたが俺の怒りはすでに沸点に近づいている。……だからあまり引っ張らないでね紫穂里さん。


 暗い表情で俯きながら京極は「うん」と答えた。


「じゃあ2度と俺に関わるな。俺がどこで誰と何をしてようがお前には関係ない」


 俺は京極にそう告げると裾を掴んでいた紫穂里さんの手を握り「行きましょう」とその場を離れた。


♢♢♢♢♢


「あ、あの西くん?」


 部室に着く直前に紫穂里さんが困惑ぎみに声を掛けてきた。


「は、あっ!」


 そこで俺はやらかしていたことに気づいた!


 しっかりと紫穂里さんの手を握りグラウンドを横断してきたのだ。怒りのあまり覚えていないがかなりの人に見られていたのだろう。その証拠に紫穂里さんの顔は恥ずかしさからか真っ赤になっている。


「す、すみませんでした」


 バッと手を離して頭を下げる。


「えっ?あっ、離さなくてもいいのに」


 紫穂里さんの残念そうな表情に疑問を抱きながらも謝罪を続ける。


「変なことに巻き込んじゃってすみませんでした。さっきも言った通りもう別れたんでこれからは大丈夫です」


 これからは京極から嫉妬されることも、いや、その前に嫉妬すること自体筋違いなんだから。


「ううん、気にしてないよ。それよりも……、エイっ!」


 掛け声とともに勢いよく左手を握られて困惑していると、


「せっかくだから部室まではこのままでお願いね」


「はい」


 やばい!こんなかわいらしいことされたら断ることなんてできない!


「あ、それと買い出しのことだけど日曜日でもいいかな?」


「19時からバイトなんでそれまでなら大丈夫です」


 部室に戻りながら買い出しの日程の確認。これからの週末の予定は部活かバイトだな。


「ほんと?じゃあ日曜日10時に駅前に集合ね」


「駅前っすね。了解」


 部室についたので名残惜しいが紫穂里さんの手を離す。


「じゃあ西くん、日曜日のデート……じゃなくて買い出し楽しみにしてるね」


 俺の週末の予定にデートが加わってしまった。


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