番外編 夫に猫を被るワケ④
次の日の朝。
夫が仕事を行くのを見送り、もう一度食堂に戻ってくると、ジルクリフの両親と彼の兄嫁のオーリアの三人だけが食事を続けていた。ジルクリフの次兄のラドクリフは客間で支度をしているらしい。
執事のクライスが最初に案内された席へと促してくれたので座る。猫の狭い視界一杯に並べられた朝食の数々にさすがのアイリシアのお腹がくうと小さく鳴った。
心得たようにメイリアがそっと近づいてきた。
「シアさま、外させていただきますね」
「はい、お願いします」
被り物の欠点は被っている間の飲食ができないことだ。昨日は胸がいっぱいでほとんど食べられなかったので、ぐっすり眠ったアイリシアはお腹を空かせていた。
きゅぽんと被り物が外されると、すっかり開けた視界が現れる。
メイリアはそのまま被り物を横の脇の机の上に置いてくれる。
ぽかんと口を開けた一同が見えて、アイリシアは恥ずかしくて頬を染めてしまった。
「すみません…お腹が減ってしまって…あのお食事を続けてもいいですか…?」
夫を見送ったらもう朝食は食べてはいけなかっただろうか。それとも自室に運んでもらうのか。でもそれだとメイリアたちに手間をかけてしまうだろうし。
迷った末に上目遣いでそっと様子を覗えば、一番最初に我に返ったのは義母だった。
「ああ、いえ気にしないで。お好きなだけ召し上がれ」
義母エレーナが青色の瞳を細めて優しく促してくれた。瞳の色は違えど彼女が微笑むとジルクリフに笑いかけてもらったかのような錯覚に陥って、アイリシアはますます赤面してしまった。
この母子は本当によく似ていて困る。
「ありがとうございます。では、いただきます」
やや俯きながら食べ始めれば、恐る恐る声がかけられた。
「その、アイリシアさんは―――」
「シアと呼んでくださいな、お義父さま」
顔を上げればいかめしい面構えの義父バルドクリフが再度、硬直した。この国にはありふれた茶髪緑眼の持ち主だが、眼光鋭い様はさすが騎士隊長を務めただけはある。
だが、今は心なしか顔が赤い気がする。
最初にこの家に挨拶に来た時に、シアと呼んでくれるように頼んだが、そういえば一度も名前を呼ばれた覚えがない。
いい機会なので、愛称を押していこうと決意する。
早くジルクリフの家に馴染みたい。
「う、うむ。し、シアは…その、被り物は外せるのか……? 体に問題があったりするのではないのか」
「今まで被り物ごしで失礼いたしました。ジルクリフさまが傍にいらっしゃると、私どうしても緊張してしまってすぐに顔を赤くしてしまうので…こうして被り物で隠させていただいているのです」
「呪いというのは…?」
「そうですよね、申し訳ございません。このような気味の悪い瞳ですので、できるだけ不快にならないように隠して参りますので…」
顔を上げて見つめていたことを失念していた。アイリシアは慌てて顔を下に向ける。金と翠の異相を持つ瞳の呪われ子など気持ち悪いだけだ。赤面症もあるが異なる色の瞳を隠すためにも被り物を被っていたというのに。
ジルクリフの両親に嫌われたくなくて必死に言葉を告げる。
「いや、シアの体調に問題なければ構わないが」
慌てたようなバルドクリフに被さるように、ふふっと笑い声が漏れる音が聞こえた。
「うちは息子ばかりだから、こんな可愛らしいお嬢さんを嫁に迎えられて幸せだわ。ね、あなた」
「うむ、そうだな」
バルドクリフが鷹揚に頷いた。四角な顔かたちをしているが、その瞳はやけに優しい。嬉しくなってアイリシアは微笑んだ。
「ありがとうございます、お義父さま、お義母さま」
「あらあら。オーリアも義妹ができたのだから、よかったわね」
「はい。私は一人っ子なので、とても嬉しいです。仲良くしてくださいね、シア」
金茶色の髪をゆるく編んで片側で一つにまとめた可憐なオーリアが、湖を思わせる青い瞳を優しげに細めて笑いかけてくれたので、アイリシアはすっかり嬉しくなった。
「はい、よろしくお願いします、お義姉さま」
ふわふわとした心地で笑っているアイリシアは、横で侍女がまた誑し込んで…とつぶやいた言葉は聞こえないのだった。
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朝食が終われば、エマが館を案内してくれた。
エマは男爵令嬢だが三女で家も貧乏なので料理などが得意なのだそうだ。アイリシアがこちらに嫁ぐことになり今回雇われたとのことで、よく行く場所くらいしか案内できないので申し訳ないと告げられた。
「大丈夫よ、エマ。一緒に覚えるのって楽しいわ。とりあえず、今日はエマの知っていることを教えて」
一階を連れ立って歩いていると執事のクライスと出会った。彼とは最初にこの屋敷に来た時に挨拶は済ませている。何かあれば頼れとも言われていた。
「エマに案内してもらっているのですけれど、どこか立ち入ってはいけない場所などはあるかしら?」
「ああ、シアさま。ええと、一階の奥は主夫妻の部屋ですので、あまり近づかないほうがいいですよ。それとあとで奥さまがお茶に呼ぶとおっしゃられておりました」
「そう、わかりました」
頷けば好々爺とした執事の視線とぶつかる。
「坊っちゃまは本当にこんなステキなお嫁さんに来ていただいて幸せものですね」
「あ、ありがとうございます。旦那さまにもそう思ってもらえるように頑張りますね」
「なんと…健気な……」
途端に潤んだ瞳を向けられ、アイリシアは困惑してしまう。結局庭に行っても、馬舎に行っても、すれ違ったメイド頭ですら猫の被り物のないアイリシアは驚かれたが、その後は必ず同じように同情された。
自分にはその理由がよくわからないのでただひたすらに頑張ることを宣言するだけだ
新妻の行いは、使用人たちの間で優しい夫への殺意が募っていくのだがアイリシアは勿論知るよしもないのだった。
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