2章 / 和葉XV

 不思議と頭の中はすっきりとしていた。


 ここ数週間———いや、明楽と付き合い初めてから心に巣食っていた黒いモヤが、嘘のように晴れていった。もちろん問題が解決したわけではないし、相変わらず片付けなければならない事は山積みである。見通しはある程度立っているものの、目眩がするほど気が重くなるのは仕方がない。にも関わらず、和葉の機嫌はやけに良かった。


「〜♪」


 慣れないキッチンに立ち、フライパンを温めていく。

 勝手に開けるのは良くないとは思いつつも、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出す。外食はあまり好きじゃないと言っているだけあって、冷蔵庫の中はかなり充実していた。

 温まった油の上に卵を落として、次いでベーコンも雑にフライパンの上へ。

 料理は得意じゃなかった。今まではやる必要もなかったし、これから先の人生に置いてもそこまで重要な行為だとは思っていなかったから。いずれ、そこそこ程度に、くらいで十分だったのだ。いままでは。

 

「えっと、あとは何でしたっけ……」


 頭に思い浮かべた「素敵な朝食」に足りないものは、と考えて、和葉はくすくすと笑った。

 今の自分はまるで新婚のお嫁さんのようだ。朝早くにベッドを抜けて、あまり音を立てないように食事の準備をして。最愛の人が喜ぶ姿を思い浮かべながら、彼が起きるまでの時間を過ごす。なんて奥ゆかしいんだと自我自賛して、焼き上がった目玉焼きとベーコンを皿に乗せた。


 トーストはもう少しで焼ける。

 サラダも準備してある。自分用に目覚めの珈琲も、苦いのが嫌いな彼のために甘めのカフェオレも淹れてある。ダイニングテーブルに並べれば、見栄えも中々の出来に見えた。


「……まぁでも、料理は勉強しておいた方が良いですね」


 少しの焦げは今後の課題として、和葉は言い訳をするように頷いた。

 小さめのエプロンを外して、彼の眠る寝室へ。いつも起きる時間ではないだろうけれど、今日は特別なのだ。自分と彼の、門出とも言える日になるのだから。


———こんこん。


 小さくノックをしたのは、この音で彼を起こしたくなかったから。

 彼のことは出来る限り、自分がしてあげたい。目覚ましの言葉も、食事も、これからの人生のことも。無粋なアラームなんか必要ないのだ、これからずっと。

 ノックなんかしなくても良いか、とも思ったけれど、夫婦とはいえマナーは必要だろう。ふふ、夫婦だなんて。顔が赤くなっていくのを感じながら、和葉はベッドの上で丸くなる少年の髪に触れた。

 指先で透いて、隠れた耳元に唇を寄せる。鼻腔を擽る香りは相変わらず甘く感じる。いつまでも嗅いでいたくなる衝動を何とか押し込めて、くすぐったそうに呻く少年に言葉を掛けた。






 

 和葉の態度と行動は、昨夜を境に一変した。


 コーヒーを啜りながら和葉は、「今日は学校を休みませんか」と口にした。ニコニコと細まった目や纏う雰囲気は変わらない、明楽の知る「桐生 和葉」のまま。ただ吐き出される言葉だけは、何処か違和感を覚えるものばかりだった。


「え、休む……の?」

「はい」

「どうして?どこか体調悪かったり……」

「あぁ、そうじゃないんです。色々話し合わなきゃいけないこととか……これからのこととか。ホント、色々あるじゃないですか」


 くすくす、と口元に手を当てて笑う。

 明楽は彼女の言葉の意味が分からなかった。学校を休んでまで話し合うことがあるとも思えなかったし、頭に過ぎる心当たりは、今さら話す必要があるのかと思うような事ばかりだった。話したところで彼女が譲歩するとは思えないのだ。


「それに学校も……いく必要、あるのかなって。明楽くんは私が養いますから、別に無理していく意味もないじゃないですか」

「意味って……嫌だよ。僕だって高校は卒業したいし、友達だって」

「友達。友達、ですか」


 はぁ、と溜息。

 ベーコンをフォークでこつこつと突く。無機質な音が酷く不気味に感じて、明楽は口を噤んだ。


「友達なんかどうだっていいじゃないですか」

「え?」

「私よりも友達の方が優先順位が高いってことですか?ふふ、まさか。そんな訳ありませんよね?」

「それはそうだけど……でもどっちが大切とか、そういう問題じゃないよ」

「……そう、ですか。なるほど」


 ごつん、と一際強く皿を叩いて、和葉はフォークを置いた。

 表情は変わらず笑顔のままだが、漂う空気が徐々にピリつき始める。膨れ上がる苛立ちを抑え込んでいるようだった。それを表に出さないよう、必死に堪えている。少なくとも、他人の機微に敏感な明楽にはそう見えた。


 長く、深呼吸のように息を吐いた後で、和葉は俯きがちになっていた顔を上げた。


「やっぱり要らないですよね、もう」

「……要らないって、何が?」

「お友達とか、そういうのです。邪魔ばっかりするじゃないですか。だからやっぱり、要らないですよねって」

「……それは、どういう」


 意味なの、と訊こうとして、背筋がぞくりと震えた。

 言葉の意味が理解できなかった。いや、理解しているからこそ、その笑顔の奥にある狂気じみた意志が恐ろしくて堪らなかった。


「今朝、すごく楽しかったんです」


 ふふ。

 と、可笑しそうな笑みに肌が粟立つ。

 

「料理は苦手だったんですけど、それでも明楽くんに食べてもらおうって思いながら作ると、何だか胸が暖かくなって。結婚したら毎日こんな感じなのかなぁ、とか。起こすときも何だか幸せって感じで、本当に……」

「……」

「昨日言いましたよね。あれ、嘘じゃないです。本気です。私から明楽くんを奪おうとする人は、誰だろうと許しません。他人でも友達でも知り合いでも……肉親でも」


 乱暴にテーブルに手をつく。

 がちゃん、と食器が音を立てて、跳ねたフォークが床に落ちる。亜麻色の髪の奥、緩く弧を描いた瞼から、鈍く光る目が明楽を凝視している。笑みと言うには悍ましくて、蛇のように冷たい視線だった。


「……だからって、殺すとかそんなのおかしいよ」


 震える足をぐっと握って、明楽は言葉を返す。

 正直に言えばとても怖い。今目の前にいる恋人は、今まで自分が知っていた少女とは明らかに違うのだ。何がと聞かれても困ってしまうが、とにかくナニかが違う。瞬き一つせずに見つめる瞳がその証拠だった。


「僕の行動とか態度が悪かったんなら改めるから。だから、誰かを傷付けるとかそういうのはやめて欲しい」

「……改めるって、一体何をどうやって改める気です?」

「和葉さんの望むようにする。それなら……」

「私の望むように、ですか。なら、学校は辞めて下さい。この家を出て、お姉様とも絶縁して下さい。私以外の女性と口を訊くのも……そうですね、視界に入れるのも禁止です。私の家で、私だけを見て、私のことだけを考えて生きて下さい」


 出来るはずがないくせに、と言わんばかりに、和葉は捲し立てた。

 実際彼女も期待はしていなかった。明楽は姉を捨てられないし、きっとこれからも自分以外の誰かと関わっていく。監禁でもしない限り———と考えて、和葉は自虐的な気分になった。

 菖蒲とは違うと言い切っておきながら、彼女と同じ思考に至った自分が情けなく感じる。今さら菖蒲に共感することになるなんて思っても見なかった。だから彼女は彼を攫って閉じ込めたのだろう。何よりも彼が欲しかったから、誰にも奪われないように閉じ込めたのだ。そうでもしなければ、この独占欲と嫉妬心が自分を壊してしまいそうになるから。


「出来るんですか?出来ませんよね。でも私はそうして欲しいんです。じゃなきゃ、明楽くんは私から離れて行っちゃうじゃないですか」

「そんなこと———」

「ない、なんて言えませんよね。あの穴蔵の女も、黒川もお姉様も。私の知らないところで起きた事ばかりだったんですから」


 テーブルの上の皿、冷めた料理に目を向ける。

 彼はほとんど食べていなかった。目玉焼きが半分に、トーストはひと齧り程度。カフェオレは冷めきっていて、ベーコンは固くなっている。サラダには一度だって箸を向けていない。食べたくないのか、それとも食べられないのかはどうでも良かった。ただ無性に、明楽の言葉と相まって苛立ちを覚えるだけ。


「だから良いんです、もう。遅いんですよ。ずっと考えてたんですけど、やっぱりこうするしかないんです」

「和葉さ……」


 皿に指を掛ける。

 そのまま薙ぎ払うようにして、テーブルの上の一切を振り払った。


「明楽くんは悪くないんです。貴方じゃなくて、その周りがいけないんですよ。お母様から始まって、肉親も友人も他人も全てが」


 がしゃん、と部屋に響いた音に、明楽は身を竦ませた。

 床に放られた皿は粉々に割れて、カップの中身が壁に染みをつける。食べ掛けだったモノはソファやカーペットにまで飛んでいた。


 それでも、明楽は少女から目を離せずにいた。

 離したら最後、どうなるか分からない怖さがあった。小刻みに震える体が、混乱で纏まらない思考が「今は彼女から目を離すな」と警鐘を鳴らしている。酷く不安定な感情を撒き散らすようにして、和葉の表情がくるくると変わっていく。

 それがどんな意味を持っているか、明楽は知っていた。

 見たことがあるからだ。いつかの母親のように、今の和葉は自分をコントロールできていないのだ。大切にしていた宝物ですら、嬉々として壊して笑うような不安定な精神。あの暗い部屋で自分を殴って犯した母親と同じだった。


 すっきりとしたテーブルに手を付いて、ゆっくりと明楽へと手を伸ばす。


「本当はこうしたくなかったんです。でも、仕方ないですよね」

「……」

「怖がらせてごめんなさい。大丈夫ですから。明楽くんがちゃんと『出来るようになるまで』、私がずっと傍にいて教えてあげます。だから明楽くんも、ちゃんと私が望むようになるまで、頑張れますよね?」


 指先が頬を撫でて、前髪を掬っていく。

 和葉は本気だった。悪い夢でもタチの悪い冗談でもなくて、昨日の言葉も含めて本気なのだ。


 明楽は反射的に頷いていた。

 こくこくと何度か小さく動いたのを見て、和葉も満足そうに笑った。それで良いんです、と言ってから、ぶち撒けまけられた残骸を見下ろす。どうせもうこの部屋には戻らないのだから、掃除はしなくていいだろう。そんなものはあの色狂いの姉にでもやらせておけばいいのだ。


 壁掛け時計を一瞥して、ふう、と息を吐く。

 一息入れたいところだが、あまりぼやぼやとしていられない。


「ちょっと早いですけど、行きましょうか」

「……行くって、どこに」

「学校です。ふふ、可笑しな明楽くんですね。行きたかったんでしょう?」

「……」

「あぁ、荷物は纏めてください。必要な物だけ持って……あぁ、やっぱりいいです。何か必要になれば、私が買ってあげますから」


 ふふふ、と嬉しそうに笑う。

 指先はそのまま明楽の手首を捕まえて、引っ張るようにして立たせた。雪那が帰ってくる前に家を出なければならないのだ。これ以上ここでグダグダと話している暇はなかった。


 少年の不安げな表情も、じんわりと滲んだ汗も今は許そう。

 いずれ彼も分かってくれる筈だ。今は上手く出来なくても、その度に傷付いていく周囲を見ればいくらのんびりとした彼でも必死になるだろうから。


「明楽くんは何も心配しなくていいんです。私が全部、やってあげますからね」


 そう言い放った彼女の表情は、いつもの和葉と変わらないように見えた。


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