第5話 元縫製方女官のカリョンの店
「母さん、それ、糸大丈夫?」
フェルリはふと母親の手元を見て言う。
「……ああ、そうだね。こっちの色が少し足りないかも」
フェルリ宛とラテ宛では襟巻きでも少し長さが異なる。同じだけの長さを買ったら少し足りなかったらしい。
「まあ明日行くさ。ちょうど上着と肌着用の布と糸のために、カリョンの店に行こうと思ってたんだ」
「行きたい! カリョンに会いたい!」
「ラテ様学問所をお休みするつもりですか?」
「う……」
手を止め、ぐっと革で包まれた墨筆を握る。
「終わってから……」
「まあ仕方ないね」
*
翌日「ただいま! エガナ、カリョンの店に行こう!」と帰るなりラテは道具包みを居間の長椅子の上に放り出し、エガナに飛びついた。
「何ですかラテ様、勉強道具はきちんと片付けなさってからです」
はあい、と彼はさっと包みを拾うと自室へと走り込んだ。少し遅れてフェルリが戻ってきた。
「お前は行くかい? 足りないのはお前の糸なんだけど」
「いや俺はいいよ。カリョンさんと会うなら時間かかるんだろ?」
「まあねえ。懐いていたしねえ……」
この頃、元縫製方女官のカリョンことクドゥサベリ・カリョーキン・トイドエは結婚して夫と共に店を切り盛りしていた。
出入りしていた布糸関係の大店の主人が何かと美しい編み飾りを考案し発表する彼女を跡取り息子の妻に望んだのだった。
彼女は当時上級女官になっており、縫製方筆頭の候補にもなっていた。
だが当人はその気が無かった。カリョンはあくまで職人肌だったのだ。共に仕事をしていた同僚のセキ・アルレイ・クダスに上昇志向があったのとは対照的だった。
そして現在、アルレイは縫製方筆頭に手がかかるところまで来ている。
「そういうのが嫌だったからねえ」
当人は店で品出しをし、今様の布や糸、時には服地そのものを捌きつつ、時折新たな図案の編み飾りを作っては市井の女性に教えていた。
*
その店は、三人が住む館からは多少歩く場所にある。
「もっと市場の中心に店を置けば良かったのに」
「何ですか足が痛いですか?」
「そんなことないよ」
「どんどん大きくなりますからね。服も作らなくては。靴もそのうちまたあつらえないといけないですね」
「まだ大丈夫だよ」
「靴は大切です。いつも父が言ってましたよ」
そういう彼女は常にきっちりと足に合ったものを履いている。
「そういうもの?」
「ええ。特に子供はちゃんと足に合ったものを履かないと」
「フェルリはサンダルが好きだよ」
「そうですね。あの子もすくすく育ってしまってるから、多少サンダルくらいの方が楽なのでしょう」
「僕もそうできない?」
「……作りによりますね。その辺りも少々カリョンと相談してみましょうか」
「カリョンと?」
「良い靴屋を知っているでしょう」
市場を抜けると陽の光がさっと広がる通りに出る。そこから見える、一番大きな建物がカリョンの店だった。
*
「まあいらっしゃいませ。今日は何を?」
「糸が足りなくなってしまったのだけど、これと同じものはあるかしら」
「少々お待ちを」
そう言って彼女は奥へと見本の糸を持って行く。
「少し探すのにかかるそうですから、お茶でもどうですか?」
「ええ、実はそのつもりで」
くすくす、と二人の女は笑った。
「若様もこちらへ」
店では彼女はラテのことをそう呼ぶ。かつての女官は無論彼が誰なのか良く知っていた。一体幾つ、彼の冬用の柔らかな上着を編んだことだろう。
「あなた、少し外します」
「相判った」
彼女の夫はこの店の「若旦那」だった。
元々彼女を見初めたのは彼の方だったのだ。父親の仕事を継ぐことに今一つだった青年だったが、宮中宛に糸の需要が増えた際に不思議に思って父親についていった。その時に直接父親を相手どったのが彼女だった。
まだその頃、この店―――サテハ布糸商会は数多あるその類の店の一つだった。皇后アリカが編み飾りを奨励するまでは。
そこで「数多の色、数多の素材の糸が必要だ」という判断ができたのはカリョンと直接交渉したことがあるこのサテハ商会だけだった。
結果、総合力ではトモレコル商会にとても叶わないが、この分野においては群を抜いた存在となっている。
何せ当時、下級女官の彼女と真面目に新たに大量に必要になる素材の話をしようなどという商人自体がサテハの大旦那しか居なかったのだ。
とは言え、当初は大サテハも当時はまだ少女に毛が生えた程度の彼女を侮ってはいた。
何しろ当時のサボンとそう変わらなかったのだ。しかも下級女官の中でも副帝都以外の出だった。
ところが糸が必要だと宮中に呼ばれる頻度が増える様になり。
桜の公主の降嫁に際しての衣装作成の際には商会まで単身やってきて細かい色合いの違いまで厳しく追及してくる彼女に、次第に大サテハは感心しだした。
そしてそれを傍らで見ている若サテハは、彼女の糸や布に対する姿勢と気迫、それにそれらを扱う手に惹かれた。
若サテハは桜の公主関係の入り用が一段落した後、結婚の意思を訊ねた。……が、当時仕事に張り切っていた彼女はにべもなく断った。
その人生の矢印が結婚に傾いたのは、レレンネイの引退からブリョーエの女官長就任といった一連の人事異動が彼女の職場に派閥を作ってしまったことだった。
カリョンはただもう美しいものを作ることを第一としていたので、派閥に分かれて皆の仲がぎすぎすするのが嫌だった。
「貴女結婚に逃げるの」
そうアルレイに問われた。
「そうよ」
全部が本当ではないが、わざわざそう言う必要もない、と彼女は思った。
「ずっと一緒にやっていけると思ったのに」
そう思ってくれるのは有り難かった。
だが自分とアルレイでは入った期も腕も近すぎた。
この時はまだ派閥が一緒だったが、いつか自分と対立させられることになる可能性をカリョンは避けたかった。
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