第34話 疲れたサボンと疲れないアリカ
ふう。
さすがに疲れた、とサボンは正議殿から降りて来ると最寄りの柱にもたれ、一息つく。
額に手を当てる。微熱があるかもしれない。
ここ数日、ほとんど寝ていない。疲れが出たのだろう、後で医女に来てもらおう、と彼女は思う。
そう特に、皇后となったアリカが勝手に髪を切ってしまってからだ。
*
とある朝。
ばさばさと床に落とされ、無造作に集められたそれを見た時、サボンは心臓が止まるかと思った。
「何を凍ってますか? サボン」
皇后アリカケシュは、あっさりと言ってくれた。
「な、何をって……」
思わずかがみ込んで、切られた髪を拾い上げた。掴んて、主人の目の前に突きつけた。
「何ですかこれは!」
「髪ですよ。あなたと同じ色」
「それは判ってます!」
「じゃあいいではないですか」
「一体どうして」
「特に意味は無いですよ」
あっさりと皇后は言う。
「意味が無いって! ああ、こんなざんばらに…… これじゃあまるで、世を捨てた法道者の様ではないですか!」
サボンは大きく首を振った。
宮中に来て以来、皇后アリカは何かと女官サボンの鼓動を速めてきた。
最初はそう、「書庫籠城十日間」だった。
皇帝の命で、当初は書籍が彼女達の北離宮に運び込まれていた。
だがアリカはすぐにそれには飽き足らなくなった。
「書庫は何処ですか」
皇帝に直接鍵をもらうと、身重のアリカはそこに閉じこもった。サボンを連れて。
アリカは怖ろしい勢いで書籍を繰ると、幾つかの山に分けて行った。
そして元の場所に片付けようとしたサボンに向かい、首を横に振った。
さすがにサボンも理由を訊ねた。
「散らかしたままじゃあ、私が後で女官長様に叱られるわ」
「叱らせはしないです。やったのは私です。そうですね…… そう、この山は片付けて下さいな。これは構いません」
「何?」
「物語書です。これは片付けてしまって下さい。それともあなた読みますか?」
「結構。それ以外は困るの?」
「検討中なんです」
「検討中?」
「ええ」
その意味は未だに判らない。ともかくその時サボンは言われるままに「これは大丈夫」と言われたものは棚に戻し、それ以外は放置した。
その間果たしてアリカはどれだけの時間眠ったのだろう? サボンは疑問に思う。寝具を運びこませると、アリカはサボンに先に寝る様に命じると、夜中でも作業を続行していた様だった。
「疲れましたか?」
「疲れない方がおかしいわ」
「そうですね」
くす、とアリカは笑った。
「疲れたら疲れたと言って下さい。私には判らないですから。そうしたらあなたは休んで下さい」
「そうは行かないわ。私は皇后様付きなんだから」
「でもあなたは疲れるでしょう?」
「あなたは疲れないって言うの?」
「ええ」
あっさりと皇后は言った。
「私は疲れないです。疲れないんです」
それに返す言葉を、サボンは持ち得なかった。
そして今回の断髪である。
最側近の女官である彼女はずいぶんと女官長に責められた。
「そなたがついていながら何ということです! あの方のすることが突拍子もないことはそなたが一番良く知っているはずでしょう!」
言いたくなる気持ちは判る。とっても判る。実際サボンは何度アリカに問い掛けたことか。
「女性は長い髪を編んだり結ったりするのが普通でしょう!」
だがアリカときたら。
「邪魔でしたから」
この一言を吐くと、涼やかに笑った。それでサボンは何も言えなくなった。
「まあ見ていて下さいな」
「何をですか」
人前でなくとも、敬語を使うのに慣れてしまった。
「長い髪が当然、なんていうのは所詮このあたり、ここしばらくの間にできた習慣に過ぎません。先の先の皇帝の御代の頃は、男性だって長髪が普通でした」
「そうなんですか?」
「そうです」
ふふ、とアリカは笑った。
涼やかな笑い。
普段は笑みなど何処の空、口を一文字に引き締めるだけの皇后が、サボンと話す時だけはよく笑う。宮中では有名なことだった。
「歴史的なことには私は詳しくないから、そう言われては何とも言い様がないです」
「そうですね」
「けど今の風習は風習として尊重するものでは?」
「でもそれは永遠ではありません」
ふぁさふぁさ、と皇后は軽くなった頭を揺らす。
「今までの重さが嘘の様です。普通の女性なら、肩や首の凝りもさぞ減るでしょうね」
「式典はどうするのですか」
「だから」
両の口角がくっ、と上がる。
「似合うものを皆で考えれば良いのではないですか」
うー、とサボンはうめいた。
女官長トゥバーリ・レレンネイ・ヒャンデはぶつぶつ言いながら、縫製方筆頭女官ネノ・プリョーエ・クスやその配下の者を呼び寄せ、額を突き合わせ、「短い髪に似合う礼装」を考えたものである。
「今から伸ばす気はないのですか?」
サボンは何度か皇后に問い掛けた。
「無い」
彼女の答えは簡潔だった。サボンは大きくため息をついた。
もっとも。サボンは思う。以前は自分がこんなことで彼女を煩わせたのだ。
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