第26話 アリカ、父将軍に腕相撲をもちかける


「久しぶりだな」


 将軍はアリカに向かって静かな声で言った。


「はい、―――」

「いつもの様に父上と呼んではくれないのか」

「はい、父上」


 そういうことにするんだな、と背後に控えるウリュンは唇を噛んだ。


「身体は大丈夫なのか」

「はい」

「気持ちは大丈夫か」

「少し混乱しておりますが大丈夫です」

「それでこそ我が家の娘だ」


 違う。ウリュンは内心思う。アリカじゃないこの娘は。だがアリカだと、思わなくてはならない。

 いや思ってもいい、が、口に出すな。絶対に。大きな背中がそう言っている。


「侍医の診断では、御子が出来ているかどうかはまだ判らないと言うことだが」

「はい。しかしそう感じるのです」

「感じるだけか」

「はい。すみません」

「それは仕方がない。女の身体に儂は疎い。ともかく今は身体を大事にするがいい。いずれにせよ、長い眠りから覚めたばかりなのだ」

「はい。父上、一つお願いがあります」

「何だ」


 将軍は訝しげに「娘」を見た。彼女が自分に頼み事をするのは初めてだった。


「私と、今ここで、腕相撲をしてはいただけないでしょうか」

「腕相撲?」


 ウリュンは思わず声を立てた。何故そんな。


「面白いことを言う」

「私は本気です」

「父上、望んでいるのですから」

「兄上」


 アリカはそう言うと、ウリュンの方を向いた。そんな呼び方をするな、と彼は内心思う。だが将軍が「父上」ならば、自分は「兄上」だ。仕方がない。

 仕方がないならば。

 彼は卓を寝台の脇へ引き寄せる。


「父上は名うての豪傑。まずはこの兄が」


 そう言うと、彼は右手を卓の上に乗せた。よろしいですか、とアリカは将軍に問い掛けた。将軍はうなづいた。


「では」


 アリカは寝台から降りた。

 袖を上げ、腕をむき出しにする。そこにはしなやかな白い腕があった。

 思わずウリュンは目を細める。

 賢いだけでなく、少女はいつの間に育っていたのだろうか。


「よし」


 将軍はうなづいた。二人は手を組んだ。将軍はその上に大きな手を乗せると、両者を交互に見た。


「良いか」

「はい」

「はい」


 はじめ、と将軍の声と同時に、うわ、とウリュンは自分の身体が右に傾くのを感じた。腕の付け根が痛んだ。


「な……」

「すみません兄上」


 手を外した「妹」はあっさりとそう謝る。


「ウリュン、手を抜くのではない」

「いいえ俺は」


 肩を押さえながら彼は首を横に振る。


「もう一度」


 しなやかな手を掴む。今度は左で。左でも右でも、鍛えてはいる。多少の差こそあれ、少女に負ける気はなかった。

 さっきのは気を抜いていただけだ。彼は思う。

 しかし。


「うわぁっ!」


 ウリュンは完全に倒されていた。力は入れた。入れたはずなのだ。

 気を抜かなければ大丈夫のはずだった。はずだったのに。


「代わろう」


 将軍はそう言うと、アリカの正面に屈んだ。

 ウリュンは痛む肩を撫でつけると、大きさのまるで違う両手の上に手をかざした。


「はじめっ!」


 今度はすぐに結果は出なかった。

 ―――動かない。

 将軍の顔には、明らかに驚きの色が浮かんでいた。動かない? 動かないなんて!

 サヘ将軍は根っからの武人である。その力は半端ではない。剣をふるい、槍を回し、強弓を弾く手だ。

 敵の手を握ってそのまま骨折させたこともある。

 なのに。

 なのにアリカは、涼しい顔のままだった。

 痛くも痒くも無いとばかりに、その華奢な手で、細い腕で、将軍の力をせき止めている。

 将軍はむ、と口をつぐむと、握る手に力を込めた。

 ぐ、と微かに左に傾ける。だがすぐに反対側からの力がかかる。

 ウリュンは父の腕の筋肉が張りつめるのを見た。


「うぉぉぉう」


 だん! 卓に音が響いた。


「申し訳ございません、父上」


 涼しい顔のまま、アリカは手を軽くさすった。

 将軍は、むむ、と低い声を立てた。


「成る程、先程サボンがお前の気が高ぶっている、と言っていたが――― 表に転がっていた椅子は」

「はい、私が投げたものです」


 投げた! ウリュンはふと、昨夜の友人の姿を思い出した。

 入り口に転がされていた椅子は、自宅のもの同様、結構な重量があるはずだ。

 父との話が終わった後、部屋に戻った彼は、友人の姿を見て思わず固まった。椅子は訓練用の鉄錘ではない、と。

 友人は練武場に用意されている最も重いものを、芸人のお手玉にも似た仕草で投げたことがある。皆それに仰天したものだ。

 それを。



「では身体を大事にするのだぞ」

「はい」


 声がする。サボンは慌てて厨房の外へと飛び出した。父と兄の姿がそこにはあった。


「掃除中であったのか?」


 はっ、とサボンは自分の手の中の手巾に気付く。そうか、これが雑巾に見えるのか。サボンはすっ、と自分の背中が冷えるのを感じた。雑巾。自分の涙を拭ってくれたものなのに。

 急に彼女は、自分が父とずいぶん離れた所に来てしまったことを感じた。

 将軍は穏やかな声で言う。


「しっかり仕事に励む様に」

「はい、将軍様」

「お前も身体を大切にする様に」


 サボンは顔を上げた。父の瞳が、ほんの少し和らいだ様な気がした。


「……はい」


 そして兄は。―――何も言わず、その場から立ち去って行った。

 怒っているのだ、とサボンは思った。自分のことを許せないくらいに。 

 そのまま彼女は「自分の主人」の元へと戻った。

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