100通目、最後の手紙
Ryoooh
1通目
ピンク色の便箋を折りたたんで、透明な瓶に入れる。
クッキーの入っていた小さな瓶だ。
私は食べられないから、真矢さんがあっという間に平らげていた。
あの人は看護師のくせに、担当患者に気を遣うという気持ちなんて全くなくて、母から送られてくるお菓子は全て真矢さんのデスク行きとなっていた。
ぎゅっと蓋を閉めて胸へと抱えた。
物音を立てないよう、静かに、慎重に。衣擦れの音ですら気付かれてしまうかもしれないのだから、ゆっくりと。焦ってはいけないのだ。
スリッパは履かずに裸足のまま。
以前スリッパが擦れる音で真矢さんが飛んできて、ひどく恐ろしい形相で説教されたことがあった。以来、抜け出すときは素足か靴下のままにしていた。
「……よしっ」
個室の扉をそっと開けて、覗き込むようにして廊下を伺う。
右。
誰もいない。
左。
ロビーにあるカウンターの明りはついていた。けど、誰かがいる気配はないし、いてもきっと仮眠をとっている時間だろう。
なにせ今は深夜三時を過ぎたくらい。私以外誰もいない療養所なので、当直も一人きり。不安はあるがその方が好都合なのだから、文句は言うまい。
そのまま扉をゆっくりと抜け出して、カウンターとは反対方向へ。
案の定カウンターは無人だった。
念のため姿勢を低くして進んでいく。
鍵のかかっていない玄関の扉は軋むような音がするので要注意だ。焦らないよう息を整えて、ここも無事に気付かれることなく通り抜けることができた。
「はぁっ……はぁっ……」
坂を下って、一歩一歩踏み占めるように坂を下って行った。
生きてきた時間のほとんどをベッドの上で過ごす私は、ほんの少し歩くだけで息が弾んでしまう。
それでも胸を押さえながら、海へと続く道を歩いていく。
足の裏に感じる小石の痛みも、張り裂けそうになり胸の痛みも今は気にしていられない。大切な大切な、願い事を叶えるために。
十分かけて辿り着いた海は、月に照らされてとても神秘的だった。
波は穏やか。風もあまり吹いておらず、もうすぐ夏だというのにどこか涼しげでもあった。
「お願いします。かみさま……」
私は浜辺に膝をついて、祈るように小瓶を胸に抱え、祈った。
二年前、真矢さんから聞いた、この町の神様の伝説。
祈りごとをしながら海にお願いすれば、神様が叶えてくれるという言い伝え。
その神様は龍の姿をしているという人もいれば、綺麗な女の人だという人もいるけれど、私にはどちらでもよかった。私の願いを叶えてくれるならなんでもいい。
「お願いします……」
もう一度祈って、瓶を海へ投げる。
ちゃぽん、と小さく音がして、瓶は見る見るうちに沖へと流されていく。
私はその様子をじっと見つめながら、瓶が見えなくなるまで祈り続けた。
今度こそ神様が叶えてくれると信じて。
◇
その日は色々あって、とても苛立っていた。
ほんの少し前まで教師と言い争いをしていたのだ。耳にタコができるくらいの説教を食らって、流石に我慢の限界だった。
毎度毎度、同じようなことをよく言い続けられるものだ。進路相談、とは名ばかりの説教タイム。相談に乗ってもらったことなど一度もない。
「くそっ、とりあえず働きたいってのがそんなに悪いことかよ……」
進路調査票に「就職」と書いたのがそんなにも気に入らなかったのか、教師たちはこぞって「夢はないのか」「大学に入ってからでも遅くない」と言う。
確かにそうかもしれないが、それは金に困らない連中の話だ。
母子家庭なのだから、これ以上母に負担はかけたくないと思うことの何が悪いのだろう。
大学だって金がかかる。安物の服や化粧品ばかりの母に、俺が働いて良いものを買ってやりたいと思う気持ちに唾を吐きかけられたのだから、この苛立ちは当然だ。ふざけんな、ちくしょう。
とは言え、自分のいう事が甘いことだというのは自覚している。
高卒で、なんの資格もなくて、こんな小さな町ではまともに働けるところだって少ない。
町を出て一人暮らしなんかすれば、その分出費だってある。そうなれば母親を助けるどころではなくなってしまう。だからこの町でなんとか働こうと口にはしてみるものの、やはり現実はそう上手くはいかない。どれだけ甘いことを言っているかなんて頭の中じゃ分かっているのだ、本当は。
「あーあ、くそ……」
結局一番ダサくて惨めなのは自分だ。
自立もしてないガキ一人が騒ぎ立てたところで、何もできないのだ。それが分かってるからこそ、こうして苛立っているのだから。
学校を出て、しばらく海沿いの道を歩いた。
なんとなく今日は真っすぐ帰りたい気分ではなかった。空は茜色に染まっていて、海の向こうに沈んでいく夕日がとても綺麗だった。
その光景を見ているだけで、気分は落ち着くような気がした。
「……やりたいこと、かー」
夢なんてない。
習い事も部活もやる余裕もなかった。母親には何も興味ない、とは言ってみたものの、部活とかに入れば余計に金がかかってしまう。やりたくても言い出せなかった。
バイトをして、家にお金を入れて、ほんの少し勉強して。
友人には恵まれたから良かった。けど、将来はこれからも変わらない。
なんとなくしんみりとした気分が嫌で、浜辺へと降りていく。
海沿いの歩道はほとんどが防波堤やテトラポッドにのせいで浜辺へと立ち入れないようになっているが、地元民ですら知らないような抜け道があるのだ。
ごくごく少数しか知らない、秘密基地のような場所。
今は封鎖されている小さなトンネルを抜けて、大きな岩に隠れるようにして存在する、五十メートルほどの小さな浜辺だ。
俺と葉介と、真白の三人しかしらない秘密の場所。
ここだけはいつも波が穏やかで、外から覗き込まれることもないプライベートビーチ。何かあれば、いつもここで座って海を眺めていた。
一人で来るのは久しぶりだ。
むしゃくしゃしてるからと言って一人で黄昏るような性格じゃないが、何故が今日はここに座り、のんびりと陽の沈む海を眺めていたい気分だった。
「……ん?」
夕日に照らされて何かが強く光った。
波に揺られて浮かぶそれは、ゆっくりと近づいてくる。ここは岸壁や岩山に囲まれた場所のため、漂流物が流れてくることは滅多にない。ゴミはおろか枯れ木の一つだって打ち上げられたところを見たことがなかった。
立ち上がり、波打ち際へと歩いていく。
狙いすましたかのような波に靴が少し濡れてしまったが、気にしない。それくらいあの光る何かが、気になって仕方なかった。
「なんだこれ……瓶、か?」
海に流されていた割にはやけに綺麗な小瓶だった。
手に取って、陽にかざしてみる。中には小さな紙が入っていた。
「宝の地図だったりして……んなわけないか」
固く閉じた蓋を開けて紙切れを取り出す。
二つ折りにされていたのはピンク色の便箋だった。内容は至ってシンプルなもので、たった二行の言葉だけ。
『私とお友達になってくれませんか。お返事をお待ちしております』
丸っこいその文字に、どうしても目が離せなかった。
◇
「っていうか、これ返事のしようがないだろ……」
捨てる気にはなれず、手紙を持って帰ったはいいものの、重要なことに気付いた。
「住所もない、アドレスも名前もないって、返事くれとかいう割には抜けてんな」
自室のベッドに寝転がりながら、手紙を眺める。
手紙でのやり取りだなんて時代遅れだと思うし、何よりそんなガラでもない。
それでも、何となく捨てるといった選択は取れないでいた。小さく可愛らしい文字を見ると、そんな気が失せていったのだ。
友達になってください。
こんな事をわざわざ手紙にして海に流すなんて、一体どんな子なのだろうか。
顔は?
歳は?
それ以前に女の子でもないのかも。文字で判断しているだけで、本当は男だという可能性だってある。
頭の中で美しい女の子をイメージしているが、理想と現実は違う。そんなに可愛くないのなら、返事なんか出したって―――
「ねえ。さっきから呼んでるんだけど?」
「うおっ!?」
びっくりして跳ね起きた。
いつの間にか部屋の扉が開いていて、不機嫌そうな女の子が立っていた。
「ふっざけんな、ノックくらいしろよ!」
「したわよ。無視して気持ち悪い顔してたのは和也でしょ」
「お前言って良いことと悪いことがあるぞ」
「キモイものはキモイの。いいから早くご飯食べちゃってよ。帰れないじゃん」
ばーか、と言い残して部屋を出て行った少女は、隣の家に住む宮崎 真白だった。
母が夜勤だったり、遅くなる時はこうして晩御飯を持ってきてくれる。
悪態はつくものの、持つべきものは実家が定食屋の幼馴染だ。自炊ができなくても、バリエーション豊かな晩飯にありつけるのはありがたい。
もう少し愛想よく持ってきてくれれば、と思うのは贅沢かもしれないけど。
手紙をポケットに入れて、部屋の電気を消す。
あまり怒らせると明日から夕飯がなくなってしまう。早々に部屋を出て、不貞腐れた態度の真白が待つリビングへと向かった。
「……怒んなよ」
「怒ってない」
「あっそ。お、今日はとんかつかぁ」
ソファは彼女に占領されていたため、仕方なく対面に座布団を引いて座る。
テーブルに並んでいたのは湯気の立つご飯と味噌汁に、ボリュームのあるとんかつ。育ち盛りとしてはこれ以上ない晩飯である。
「ねえ、さっきの手紙ってラブレターかなんか?」
唐突に、真白が訪ねた。
顔はテレビに向いたままだった。
「は?」
「気持ち悪い顔して読んでたじゃん」
「気持ち悪くねーっての」
ラップを外して一切れ口の中に放り込む。
ソースと辛子のバランスが絶妙だ。肉も厚すぎず薄すぎず、丁度いい感じ。
「アンタにラブレターとか、趣味わるーい」
茶色く染めたショートカットの髪を弄りながら、真白はけらけらと笑った。
テーブルの対面に頬杖をついて覗き込む視線に、居心地の悪さを感じて目を逸らす。それが気に入らなかったのか、真白はまた小さく鼻を鳴らした。
「つーかそもそも、ラブレターじゃねえし。秘密基地で拾ったんだよ、これ」
三人の中で、あそこは秘密基地ということになっているのだ。最初に発見した真白がそう名付けた。高校生にもなって秘密基地っていうのもどうかと思うが。
箸を置いて、ポケットから折りたたんだ手紙を取り出した。
ひったくるように真白が手紙を奪い取っていった。余程気になっていたのだろうか、興味津々といった様子だ。
読むのに数秒。
読んだ後に怪訝な顔をして、あからさまに「期待外れだ」と言った顔になるのにまた数秒かかった。
「……なにこれ、友達になってください?」
「ボトルメールって知ってるだろ。昔一緒に見た映画のやつ。瓶に入って流れてきてさ、なんか気になって持って帰ってきたんだよ」
「へー……アンタって、そんなロマンチックなこと嫌いじゃなかったっけ?」
「ロマンチックか、これ」
俺の持っているロマンチック観とは少しずれているようだ。
あれは映画だったからこそで、現実だとなんだか不気味である。ちょっとホラーチックですらあると思う。
真白はまた少し不機嫌そうに、手紙をひらひらと振って言った。
「文字からして女の子じゃん。なに、返事でも書こうとか思ってるわけ?」
「書きようがないだろ。どこ宛に返事出すんだよ」
「あー……そういえば。あれ、でも映画だと返事も海に流してなかった?」
「映画と一緒にすんな。届くわけないだろ」
拾っただけでも奇跡みたいなものだ。
返事を海に流して届くなんて、さらにどれだけに奇跡が起こったってあり得ないだろう。届けば確かにロマンチックだが、現実は映画とは違う。
「じゃあなんで持って帰ってきたのよ」
言われて、固まった。
確かに言われればそうなのだ。返事を書く気もないのに、たったこれだけの言葉しか書かれてない手紙を何故持ち帰ったのか。
「それは……」
「まぁ、でもさ。名前とか何も書いてないってことは、向こうだって届くと思ってなかったんでしょ。だったらダメ元で返事してみたっていいんじゃない?」
「だったらお前が書くか?」
「私は拾ってないもん。こういうのは拾った本人がやるべきでしょ」
映画みたいに、とくすくす笑っていた。
憎まれ口ばかりを叩き合うような関係だから直接言ってはやらないけど、真白はそこら辺のアイドル並みに顔が良い。
スタイルだって悪くないし、暑くなってくるとやたらと薄着になるクセがあるから、たまにドキッとするときもある。今みたいに。
なんて思いながらまじまじと見ていたら、真白はじろりと睨み返してきた。
「……なによ」
「なんでもねえよ」
「嘘つき。悪いけどね、そういういやらしい視線って分かるんだからね」
「だったらそんなサイズの合ってないシャツ着てくんなよ。誘ってんのか?」
「アンタとなんか死んでもごめんだわ」
こっちのセリフだ、と視線を逸らす。
誤魔化すように残りの米をかきこんだ。
「はぁ。こんな変態に返事書かれるこの子も可哀そうね」
「書かないっつーの。っていうか、書いたって仕方ないだろ。どうせ届かないんだから」
と言っておきながら、心の中でなんて返事を書こうか考えている自分がいたのは内緒である。
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