9.知られたくなかった人
朝の訪れは鳥の鳴き声でも太陽の眩しさでもなく、シャンプーの香りで感じ取った。うっすら瞼を開いて見下ろすと、お気に入りのタオルを抱きかかえながらあたしの肩に頭を乗っけている蓮。嗅覚が真っ先に目覚めたらしい。
枕元の目覚まし時計を手に取った。逆さであるのに気付いてくるりと回す。って、また9時かよ。今からリビングのシャッター開けたら朝寝坊丸出しじゃねぇかと苦笑しながらも……
(あったけぇな)
会えなかった時間を埋めるようにぬくもりを分け合ったこと、その後もテレビさえつけずに寄り添って、あったかい紅茶を飲んだり魚を眺めたり……そんな優しさに満たされた昨夜を思い出して顔が勝手ににやけちまう。恋人時代とはいくらか形が変わったんだろうけど、妻として愛されるのって幸せなもんだな。照れるけどよ。
眠れない夜も多いと昨日打ち明けてくれた蓮だけど、今はこうして安眠できていることも嬉しい。もう少し、もう少しだけこうしていたいな……なんて、再び微睡みの中へ溶けそうになっていた。そんなとき。
ブーーッ
ブーーッ
「ん、電話か?」
充電器に挿したまんまのあたしのスマホが振動していることに気が付いた。蓮を起こさないようそ〜っとベッドから降り立つ。
「!」
手帳型のケースを開いたときおのずと背筋がピンと伸びた。
「も、もしもし。おはようございます」
『おはようございます、葉月さん。朝からごめんなさいね』
いやいや! こちらこそ呑気に寝ててごめんなさいと言いたくなる。品の良いその声は世間一般で言うところの癒し系にあたるはずなんだけど今のあたしにとっちゃそれどころじゃねぇ。なんたってあんな騒動があったばかりなんだからな。
『蓮の様子はどうかしら?』
「はい、あれからだいぶ落ち着いたみたいで昨夜はよく眠れてました」
『そう、良かったわ。葉月さんもちゃんと眠れた?』
「ありがとうございます。私なら大丈夫です」
息子の無事を願って神経をすり減らしただろうにあたしにまで気を使ってくれるとかマジで頭が上がらない。あたしはうつむいたままぐっと喉に力を込めた。
いつまでも善意を受け取っているだけじゃ駄目だ。あたしも覚悟を決めてちゃんと伝えなくちゃいけないことがある。
「あ、あの……それで……!」
『それでね、葉月さん。今日は休日だしこれからそちらに向かおうと思っていたんだけど大丈夫かしら?』
「えっ!? あっ、はい……いえ、それでは申し訳ないです! あたしの方からちゃんとご挨拶に……」
「ううん。葉月さんさえ良ければ私は構わないのよ。こちらこそいつも来てもらうばかりじゃ申し訳ないし、2人にはもう少しゆっくりする時間が必要だと思うの。ね、良かったら」
ありがとうございますと返したあたしはすぐに「しまった!」と思った。なんだ今のなっさけねぇ声色。相手はこんだけ気を使ってくれてんだぞ。しっかりしろよ……と自分に嫌気がさしてくる。
だけど……
『葉月さん。大丈夫よ』
「お母様……」
「葉月ちゃ……」
いつから起きていたんだろう。振り返ると蓮がベッドの上で半身を起こしていた。おはようと返しながらもあたしは片手でパジャマのボタンを外していく。
「ママさんが来てくれるって。昼過ぎになるらしい。あたしちょっと掃除するからドタバタしちまうけど……」
「僕も、一緒に」
「ありがとう。助かるよ!」
こうして寝室を後にしたあたしたちは歯を磨いたり雨戸を開けたりそれぞれに動き出した。それぞれの朝食をとりながら掃除の役割分担を決める。
掃除機や洗濯、トイレ、洗面台、玄関の掃除があたし、蓮は主にテーブル拭きやその辺に出したままになってる雑誌やリモコン、朝食の食器の片付けなどの整理整頓だ。別にゴミ屋敷みたいにとっ散らかしてる訳じゃねぇけどママさんがこの部屋に来るのは初めて。それもわざわざ隣県から、うちがマンションであることも考慮して電車で来てくれるんだ。失礼の無いようにちゃんとしておきたい。
気合いを入れるようにこく、と頷いた蓮がイヤーマフを装着した。
(確かに怒りはしないかも知れねぇけど……)
掃除機をかけながらあたしは考えた。
ママさんどんなに心乱れようとも理性が勝る人だ。どう思ってるかなんて本当のところはわからねぇ。だからこそその優しい言葉に甘えてばかりじゃいけねぇんだ。
ぐっと緊張が喉へ迫って手が止まりかけた。
家族関係もそう、仕事もそう、失った信頼は結果を出すことでしか取り戻せない。それも一度や二度とじゃ駄目だ。最初に信頼を得るまでの期間より遥かに長い期間を想定しておかなきゃならねぇぞ。
「よし! あとは洗面台と玄関!」
じんわり滲んだ額の汗を拭いながらあえて口にした。あえて明るく言うことで気持ちを切り替えようとしていた。
テーブルを拭きながらちらりとこちらを見た蓮は、薄く微笑みながらも何か胸に秘めたような顔をしていた、気がする。
ひと通りの掃除を終えたのは11時ちょっと前。残り時間的にもなんとかセーフだ。昼過ぎというのはママさんの気遣いなんだろう。一息つきたいところだけどここで座ったら気合いが持たねぇ気がする。12時には昼メシを食い終わってるようにとあたしはそのまま台所に立った。
「葉月ちゃ……僕、何、する……?」
イヤーマフをつけたままの蓮が近付いてきたんだけど、その顔には隠しきれない疲れが感じられる。多分、一度に集中力を使い過ぎたんだろうな。
「そのまま休んでていいぞ。ありがとな。あ〜でも、あたしもさすがにちょっと疲れちまったからなるべく作業工程の少ないモンを……そだ、うどんとかでもいいか? あったかい方がいいよな」
「ん……!」
こく、と頷いた蓮がトテトテと冷蔵庫の前に回り込んでくる。冷凍室を開けて保存用フリーザーバッグをいくつか取り出した。
「これ、使って」
「おぉ!? お前こんなに用意してたのか? 助かるぜ! 具材こんだけありゃ豪華になる」
中身は小さめに刻んだ大根や人参や鶏肉、万能ネギもある。煮物とかでも有効な手法で、特に根菜類はこうして一度冷凍しておくことで火の通りは早くなるし味も染み込みやすい……っていう知識はあたしもあるんだけどよ。
正直今の今まで気付かなかった。コイツが少ない体力でも料理がしやすいようにって工夫してたこと。比較的体調のいいときにコツコツと用意してたんだなって思うと、その頭ごと抱え込んでぐりぐりと撫で回したくなる。
「頑張ったな。偉いぞ、お前」
でも今は、そっと労わるような言葉の方が相応しく思えた。
一人前用の鍋を使って作った鍋焼きうどんには玉子も落とした。とろりとした食感と優しい味わいで身体も心もほっこりだ。
ピンポーン
もうそろそろかなって思っていたときにチャイムの音が。あたしがすぐさま立ち上がると蓮も後に続いてくる。インターホンのカメラを覗くとママさんで間違いなかった。ごくりと喉が鳴る。
「お母様……! わざわざすみません!」
「こんにちは。こちらこそ急に言い出してごめんなさいね。あっ、これ良かったら。今回手作りは出来なかったんだけど、うちの近所でも評判の水饅頭なの。一緒に頂きましょう」
「すみません。ありがとうございます」
うちはお茶もお茶菓子も何処にでも売ってるようなものしか出せない。恐れ多く感じながらも紙袋を受け取ると玄関先のママさんは目を柔らかい三日月型に細めた。
グレーの薄手ニットにベイクドピンクカラーのロングスカート。トレンドとロマンチックさを兼ね備えた装いが嫌味なく似合うママさん。そんな彼女があたしたちの生活空間に居るってすっげぇ緊張するんだけど。
「水槽も観葉植物もとってもいい雰囲気ね。落ち着くわ」
そんなことを言ってくれたからあたしは安堵した。
ダイニングには椅子が2つしか無いから場所はリビングを選んだ。ママさんに座ってもらう座椅子から見るとちょっとテーブルの高さが低いんだけどしょうがない。
ママさんが持ってきてくれた水饅頭とうちの焼き菓子を用意している間に電気ケトルでお湯を沸かす。緑茶を淹れ終わって全てテーブルに並べたところで、蓮とあたしはママさんの向かい側に置いたビーズクッションの上に座った。
「先日は蓮がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
お茶を一口飲んだ後にママさんが頭を下げて言った。隙が無いくらい上品で整った仕草、これから話がどういう方向に流れていくのか却って怖くなっちまう。
「いえ、私の方こそ蓮さんとちゃんと向き合う姿勢が足りませんでした。お母様たちに心配をおかけする事態になってしまって申し訳ありません。反省しています」
そしてあたしの方はというと、言葉が思うように出てこないときてる。参ったな、また頭が混乱してきて何を伝えたいんだか自分でもわからなくなってきてるぞ。
蓮は数回頭を下げるような仕草をしたけど、多分どうしていいかわからずにオロオロしてる。
そんな頼りないあたしたちを交互に見つめながらママさんは言った。真剣な表情で。
「2人だけだとやっぱり難しいこと……多いわよね。私もどうするのがベストなのかまだ良い案も出せないんだけれど、こういうことにならない為にもこれからはもっと私たちを頼ってほしいの。私たちも葉月さんばかりに任せないように気を付けるわ」
「はい……」
「葉月さん。蓮も、どう? 今の状態でこれからもやっていける?」
ママさんにしては少し焦っているように感じられる。そう……だよな。当然だ。
大切な自分の息子を追い込むような女が嫁じゃこの先安心できねぇよな。
――お母さん。
静かに。小さく。でもはっきりとした声がうつむいてるあたしの元に届いた。呼んだのは目の前の人のことだけど。
ママさんとあたしはきっと同時にそっちを向いた。
ぐっと奥歯に力を入れている蓮。何か予感が迫り来る。
「葉月ちゃ、も、今度、病院に」
「え?」
「僕が心配かけた、から、葉月ちゃんも、診てもらわなきゃ……」
潤んだ目、震える握りこぶし、それを見てあたしははっと息を飲んだ。
――蓮……!
思わず彼の肩を掴み思い詰めたその顔を覗き込んで囁く。
「いいんだ、そのことは。まだなんかあるって決まった訳じゃないし」
「蓮……? どういうこと?」
今更ながらに後悔する。何処まで話すかちゃんと決めてなかったこと。失礼の無いように部屋を整えるって確かにそれも大事だけど、むしろこっちの方が優先すべきことだったんじゃねぇかって。
でももう遅い。
「葉月さん……まさか……」
目の前のママさんは既に青ざめた顔をしていた。
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