第4章/理解を得るのは困難で

1.あたしの宝物


 クマの浮き上がった下瞼、涙で荒れた頰、カサカサの唇。見ればそんな反応にもなるだろう。


 姫島はなんと声をかけていいかわからないような顔してる。水谷先輩は困惑こそしてるものの、さすが場の空気を読むのに慣れてるっつーか、笑みを浮かべる余裕があるみたいだ。


「珍しいね。泣いたの? 茅ヶ崎さん」


 ちょっとデリカシーには欠けるけど。


「体調でも悪いの? だったら帰りなよ。主婦であんな大きなプロジェクトまで背負ってるんだ。やっぱりこの頃無理し過ぎてたんじゃないの? 旦那さんも心配するよぉ?」


「そっ、そうですよ、茅ヶ崎さん! 体調悪いなら帰った方がいいですっ! もうすぐインフルエンザも流行るんですからっ!」



 みんなして帰れ帰れって。せめてそれを言うのは状況を知ってる奴だけにしてくれ。


 みんなは悪くないってわかりつつも苛立ちが大きくなっていく。


 あたしは帰れねぇんだ。あたしは大黒柱だから。社会人として最低限のことはしなくちゃならねぇ。それが家庭を守ることになるんだ。


 そう考えていた矢先……



「茅ヶ崎さん、それもう、社会人として最低限すべきことのレベル超えてるからね!?」



 まるで見透かしたみたいに坂口があたしの考えを打ち消す。


 握っていた試験管がきゅうと鳴く。水谷先輩がぎょっとした目であたしの手元を見た。


「危ないよ、割れちゃう! ねぇ、本当にヤバそうだよ。ちゃんと帰って、布団に入ってさ……」


「……そういう訳にいかないんです」


「もう、何をそんな頑なになってるんだい?」



「すみません……でも、帰ることにはします。ご迷惑かけて申し訳ありません」



 あたしはみんなに一礼してロッカールームへと立ち去った。


 私服に着替え、秋物のコートを羽織り、お守りに持ってきたものを首に巻きつける。



「だ〜から言わんこっちゃない。主任も無茶振りしたもんだよ。主婦にあのプロジェクトは無理だって」



 みんなにもう一回挨拶を……と思って持ち場に寄ろうとした。だけど、足を踏み入れる前から廊下にまで水谷先輩の声が聞こえてた。呆れたような、嘲笑うような。



「あっ、茅ヶ崎さん。帰り気を付けてね〜!」


「はい、申し訳ありませ……」


「ホラ、まだ秋なのにマフラーしてんじゃん。寒気があるってやっぱりヤバイよ。それにしても茅ヶ崎さんにしては可愛いデザインだねぇ」



 なんの悪気も無かったんだろう。水谷先輩はペンを片手に持ったままあたしのマフラーに手を伸ばした。あたしは何か嫌な感じがして反射的に仰け反った。


 そのとき、つん、と引っかかる感触が。



「あっ……ごめん」



 きっと先輩、ペン先が出ていることを忘れてたせいで。


 蓮が作ってくれたマフラーにほつれが出来た。


 あたしはぼんやりとそこを眺めた。


 しばらくして、あたしの中で何かがうごめいた。



「本当にごめん。あっ、そうだ。これいくら?」


「…………」


「弁償するからさ。ホラ、これで好きなの買ってよ。悪かったね」



 水谷先輩はさも当然のように財布から多目の札を取り出してあたしに渡そうとする。うごめいていたものがついに弾けた。




「これは……っ! 世界に1つだけのものだ!!」



「えっ……」




「代わりなんてきかないんですよ! 要らないです、お金なんて!!」




 叫びに続いて涙が溢れ出す。詫びようとしてくれてることはわかってたのに、どうしても抑えられなかった。



 みんな、言葉を失くしてしまった。


 いい歳した女が目の前で泣いてたらそうもなるよな……。



――茅ヶ崎くん?



 そのとき。



「話なら聞いているよ。後は我々が引き受ける。プロジェクトの件は落ち着いたらでいい。安心しなさい」



 深く落ち着いた声色があたしを諭す。ゆっくりと歩み寄ってくる。川上主任だ。


 主任はあたしの肩にそっと触れると、小さな声で囁いた。



「みんなに心配かけたくないって気持ちはわかるよ。でもこれじゃあみんな知りようがない。知っててもらった方がいいこともある」


 ついに言われてしまうんだと思った。


「ご主人のこと、みんなに伝えていいかな? 正確に知ってもらいたいから、どんな問題を抱えているかまで話そうと思うんだけど、いいかな?」


 だけどもう、この状況じゃ、これ以外の選択肢は無いように思えた。



「……はい。申し訳ありませ……っ、後ほど必ず連絡入れます」



 観念したあたしは顔を伏せたまま頷いた。ずっ、と鼻を啜り、大切なマフラーを握り締め、その場を後にする。早足だった。もう居たたまれなかった。


「連絡も慌てなくていいよ。落ち着いたらでいいからね」


「はい……!」


 川上主任があたしの背中へ声をかけてくれたけど、短く答えるのが精一杯だった。




 そこからどうやって帰ったのか、よく覚えてない。


 まだ昼にもなってなくて、電車の座席もガラガラだったのに、ずっとドア付近に立ったまま、揺さぶられたまま、流れ行く景色だけを眺めていた気がする。




 職場であんな振る舞いを見せてしまって、マジどーすんのさ、あたし。そんな後悔の念さえ長くは続かなかった。


 マンションに辿り着き鍵を開けると、淡い期待が打ち砕かれる。彼の愛用のスニーカーが無い。蓮はやっぱり帰って来てない。



 着替えも忘れたまま、あたしは水槽を撫でるようにして触れる。片手には蓮が残してくれた手紙。魚たちと亀の世話の仕方が書いてある方を上にして。


 あたしは心の中で、今は触れられない彼に語りかける。



 忘れないよ、蓮。例え慌ただしい状況だって、お前があたしに託してくれたことだ。水槽ちゃんと綺麗にするからな。みんな元気だぞ。お前の帰りを待ってるぞ。


 なぁ。お前は優しいから、手紙には大好きだとか幸せだとか書いてくれたのかも知れねぇ。本心は違うかも知れねぇ。こんな乱暴な女とはもう関わりたくないって思ってるかもな。


 あたしは……嫌だよ。お前と別れるなんて。ジジイババアになって寿命で死ぬまでずっと一緒に生きたいと思って結婚したんだ。


 でも、例えお前が許してくれなくても、命だけは無事であってほしいって心から思うんだ。もうそれだけでいいから。


 マフラーはほつれちまったけど、形ある限りずっと大切にするよ。これを大切にしたいって思うのもお前がくれたものだから。



 あたしの一番の宝物は……蓮、お前だよ。




 ピンポーン



 どれくらい経った頃か。チャイムの音が聞こえた。


 警察か? それともパパさんかママさん? もしそうなら良い知らせ……なんだろうな? 立ち上がったばかりのあたしの体中に緊張が走る。


「……はい」


 モニターを見ると、女性が……立ってる? しかもなんか見覚えがあるような……


『私よ。開けて』


 この強気な口調。なんか聞き覚えがあるような。



 もしやと閃いてドアを開けに駆け出した。ほんの僅かの距離なのに息が切れた。



 開けてみるとやっぱりだ。見上げるくらい高い背丈。猫のようなツリ目。不機嫌そうな顔。



「花鈴……さん」



 掠れた声でぽつりと、やっとその名を口に出来たとき、はぁッと大きなため息が返った。



「ひっどい顔。引っ叩いてやろうと思ってたけどやめたわ。私が虐めてるみたいになるの嫌だもん」


「蓮のこと……聞いて……?」


「そうよ、それ以外になんかある!? おねーさんになんかなんの興味も無いってのにさ」



 鬱陶うっとうしげに髪をかきあげる彼女をひとまずは中に案内しようとした。でも彼女はそのままの位置で、建前なんか要らないといった風に振舞っていく。



「だから言ったでしょ。蓮には気を付けてって」


「はい……」


「呆れた。いい歳して、本当に後先考えてなかったのね」


「ごめんなさい」



「だからそういうのやめてよ! 私に謝ってどうすんの!? あれだけ威勢良かったクセに、こんな簡単にくじけるの!? ここまで言われて悔しくないの!?」



 内側に下がっていたあたしの両肩ががしっと掴まれた。ツリ目を一層吊り上げた花鈴ちゃんがあたしに容赦なく喝を入れる。



「ここに来たのだっておねーさんの為じゃない。蓮の為よ。心当たりある場所とか全部話すから役立てなさいよ!?」


「花鈴さ……」



「しっかりしてよ、おばさん!!」



 涙が引っ込んだ。あたしの唇に力がこもる。


 彼女は確かに口は悪い。だけど確かに心強い味方なんだとわかった。


 誰がおばさんだって、それは全て無事に解決してから言い返してやると心に決めた。

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