7.触れられないお前


 あたしは蓮を縛り付けてしまいたかった。絶対に樹海になんか向かわないように。家から出られないように。


 だけど本当にそんなことしたら暴力になっちまうっつーか、素人が手を出していい範疇はんちゅうじゃねぇような気がした。やがておずとずとした仕草で立ち上がった蓮は、もう一度ごめんなさいと言った。謝るくらいなら馬鹿なこと考えんじゃねーよ……。


 あたしを刺激しないようにする為なのか、気分が悪くなっちまったのか、ぐすっ、ぐすっ、と鼻を啜りながら寝室の方へ向かっていく。あたしも泣き疲れて放心状態。


 寝室に危ないモン置いてなかったかと思い出す。拘束が駄目なら監視したい。でもその気力すらない。裏切られた気持ちなんだ。今はあいつのこと見たくない。


 じゃあどうすりゃいいってんだ。


 明日もまた通常通りの仕事があるってのに。病院に隔離するしかねぇのか? そういうのってどうやりゃいいの。電話一本で対応してくれるモンなのか?



 あたしはこのとき、かつては検討しようとしていた日中一時支援のことさえ思い出せなかった。心が砂漠になったような気分で、冷静だった頃には考えられた何もかもを忘れていた。



「蓮……今日、皮膚科行ってたんだよな」


 しばらくして、ベッドに横たわってる蓮に声をかけた。こちらに背を向けていたあいつは何か申し訳ないとでも思ったのか半身を起こそうとする。だけどその動きは凄くだるそうで小さく呻きまで漏らしている。


「そのままでいいよ。寝てろ」


「…………」


「わりぃ、あたしも落ち着くまで時間かかりそうだけど、頼むよ……もうこれ以上、変なことは考えないでくれ」


「……ぐすっ」


「お前が生きててくれるだけでいいんだから」


「…………はい」



 気の利いたことなんてなんも言えないまま、蓮と距離をとった。食欲が無い。風呂に入る気力もない。あまりにも限界状態だと嗜好品でさえ欲しくならないんだとわかった。


 だけど最低限の生活は崩さないようにしなくちゃ。蓮がこの生活の何が不満だったのかわからねぇ。今すぐ聞き出すのも無理だろう。


 今、あたしに出来ることは限られてる。そして明白。


 蓮が一日中何も出来ずに終わったとしても、罪悪感なんていだかずに済むように、もっと、もっと、生活を楽にすること。金も好きに使っていいって言ってやれるようにすること。その為の努力をすることだと勝手に結論付けた。半ば現実逃避だった。



 寝室は同じ。ベッドも同じだから一緒に寝るしかなかったけど、あたしらは朝まで一言も交わすことはなく、指一本触れることもなかった。




 翌朝は一応蓮の予定を訊いた。病院とかに行く予定はないかって。特に何もないって答えだ。次の精神科の診療にはあたしも絶対付き添うとも伝えておいた。


 カッターもはさみも吊り紐になりそうなものも、危なそうなものは全部隠して仕事に出かけることした。大人しくしてろとやや命令口調で言い残した。ああ、そりゃ本当はあたしだって、優しい言葉をかけてやりたかったんだけどな。こいつを失いたくないって恐れの方がまさっちまったよ。



 なぁ蓮、なんでお前は幸せじゃなかったんだ。


 あたしの与える安心じゃ足りなかったのか。


 1人で居るとき、いつもあんなこと考えてたのか。いつからだったんだよ。



 頭ん中が憂鬱で満たされたまま職場に着いた。いつもより40分くらい早くなった。


 さっさと持ち場に向かえば良かったんだけどな。この顔を人に見られたくなくて、用を足したい訳でもねぇのに女子トイレで時間を潰そうとした。


 つってもあんな狭くて薄暗い空間、いつまで居たって気分は変わらないどころか却って憂鬱が深刻化しそうだったから、結局すぐに出ることにした。



 そこでまたタイミングの悪いことが起こっちまった。




――茅ヶ崎さんさぁ。




 虚ろな意識のまま顔を上げた。喫煙所の前。



「この頃明らかに辛そうだけど大丈夫なのかねぇ。やっぱり既婚者で、しかも女性で、リーダーなんて無理があるんじゃない? あれでも一応主婦だよねぇ。全く主婦らしさ無いけど、旦那さんそれでいいのかねぇ」



 聞き覚えのある声。喫煙所は硝子張りで中の様子がよく見える。ちょうどこちらに面した硝子部分を背もたれにしている背広の男。あれは……水谷先輩だ。


 やっぱあたしの居ないところで好き勝手言ってやがったか。心が乾いてたからなのか不思議と怒りは起きなくて、それくらいの感覚で受け止めてた。だけど当然ながらこの話し方、独り言なんかじゃない。



「旦那さん年下なんでしょ? ああいうデキる女ってさ、案外引っかかりやすいっていうか……ヒモっていうの? そういう男にさ」



「…………」



「都合よく使われてるようにしか見えなくて痛々しいよ。そう思わない? 坂口くん」




(坂……口……)




 あたしは重力を失う瞬間を体感した。ブラックホールに吸い込まれていくような。


 “ガーン”とか、そんな効果音すら無い。地に足が着かない、蓮のメモを見つけたときもこんな感じだった。突き抜けた絶望ってこんな感じなのかと思った。




 気が付けばあたしは、廊下を全力で走っていた。聞き慣れた声が追いかけてくると気付いたのは随分後だ。



「茅ヶ崎さんっ! 待って!」



 ぐい、力強くと腕を掴まれて、やっと動きが止まった。あたしは振り返りざまにそいつを強く睨んだ。目頭がじんわり熱を持ったまま。


「触らないでよッッ!!」


 こんな言い方、いままでしたことない。こんな女っぽい、ヒステリックな声を持ってたことに自分で驚いた。


 あたしを引き止めたのが水谷先輩だったら、さすがにもうちょっと考えただろう。嫌でも冷静になってしまっただろう。でも違った。眉を寄せ、悲しそうな目であたしを見下ろしていたのは坂口だったんだ。



「……ごめん」



 いつも暑苦しいくらい元気な坂口が小さな声で詫びた。




 出勤までまだ時間がある。だからあたしたちは場所を休憩室に移した。少ししか人の姿は無くて、端っこの席に寄れば誰にも聞かれる心配はなさそうだった。


「捕まっちゃったんだ、水谷先輩に。信じてもらえないかも知れないけど、俺はあんなこと思ってないよ。ただ先輩、話し出すと長いしさ、無視もできないし、ペースを合わせるしかなかった」


「…………」


「いや、やっぱり信じて! だって俺、蓮くんのこと知ってるんだしさ。会ったことはないけどさ、頑張り屋な子だってこともわかってるし。先輩はほんのわずかな情報しか無いから誤解してるんだよ。俺は……っ」



「……もういいよ、わかった。坂口のことは信じるから」



 今、あたしは自分の頭さえ重く感じる。顔を上げたくても上げられない。さっき坂口のおかれてた状況、それと真剣な思いは本当に信じようと思った。それでもこんな沈んだ声になっちまうんだよ。どうにもならないんだよ。


「ね、茅ヶ崎さん。何かあったでしょう?」


 そしてついに見抜かれた。


「さっきのは俺たちが悪かったけど、それにしたってショックが大きそうっていうか、今の茅ヶ崎さん、凄く脆い状態に見えるんだけど」


「…………」


「力になりたいって思っちゃ駄目かな?」


 気が付くとあたしは、きつくきつく、歯を食いしばってた。蓮に言えないこと、蓮にだけは言えないこと、誰かに聞いてほしい気持ちが確かにあったんだと今更わかった。




 昨日あったことを話したら坂口は一回大きく目を見開いたけど、やがて、うん、うん、とゆっくりとした相槌を挟みながら聞いてくれるようになった。まるであたしのせわしない鼓動をゆっくりとしたものに導くように。


「蓮くんはまだ寂しさと闘ってるんだね。1人の時間って、余計なことまでつい考えちゃうし」


「データ入力も家事も、出来なかったらそれはしょうがないってあたしはいつも言ってたんだよ。なんであいつはそんなに気にするんだ。何がそんなに寂しいってんだ。あたしが傍に居るのになんで死にたくなるんだよ」


「※希死念慮だろうね。なかなか切り離せないものらしいよ。決して茅ヶ崎さんとの生活に不満がある訳じゃないと思う。嬉しいときは本当に嬉しいし、幸せだと思う瞬間も確かにあると思う」


「じゃああたしはどうすりゃいいってんだ。普段幸せだと思ってても、なんかの拍子に本当に死んじまうことってあるのか? そんなの嫌だよ……!」


 さすがの坂口も返答に困ってる様子だ。いがぐり坊主を自分で撫でながら、う〜んと唸って思考してる。


「こんなときだからこそ、焦らず少しずつ話を聞いていくのがいいんじゃないかな?」


「いや、焦るだろ。樹海の場所をリストアップするなんて具体的なことまでしてたら」


 困らせてるってわかりつつも、あたしの口からはどうしてもネガティブな言葉しか出てこない。



 でも坂口は何か答えに辿り着いたような顔をしたんだ。少し微笑みを浮かべた。



「こんな言葉が励ましになるかわからないけど、茅ヶ崎さんがついててくれる安心感は確かにあると思うよ。いつかは話そうと思ってたことかも知れない」


「…………」


「俺さ、この職場に憧れの女性が居たんだよね。強そうに見えて全然そんなことない人。表向きはヒーローみたいな人だよ」


「…………」



「もう結婚しちゃったけどね、年下クンと」



 うん、何故このタイミングで自分の恋愛話? みたいなことになる?


 関連性がわからなくてぼんやりしてたんだけど、しばらく経って誰のことを言ってるんだかわかった。あたしはぽかんとした。



「俺が蓮くんだったらそう簡単に離れたいとは思わないなぁ。ましてや同じ家に居るならさ、強いだけの人じゃないっていうのもわかるんじゃないかな。いつか自分も守れるようになりたいって、その為にもっとしっかりしなきゃって気持ち、生まれるんじゃないかなぁ」


「坂口……」


「ね、もっと見せていいと思うよ。茅ヶ崎さんの弱いとこ。無理して強そうにしてるより、よっぽど心を開きやすいよ。共感も得やすいよ。俺たちの前ではいいよ、強くありたいって思うなら。でも旦那さんにならいいじゃない。女らしくとか、決してそういう話じゃなくて、1人の人間として不完全なところを晒したってさ」



 出勤の時間が迫ってくる中で、坂口は密度の濃い思いを伝えてくれてる気がした。



「蓮くんにだって、茅ヶ崎さんを支える力は十分にあるはずだよ。それ、実感してるよね? 彼を頼って。大切な人から頼られてると生きる気力も湧いてくる。守らなきゃって思うだけじゃなくて、守られてもいいんだ。夫婦ってそういうものじゃない」



 なんか……坂口、ごめんな。あたしこそごめんな。鈍い女でよ。なんも気付かなくてよ。お前の詮索をうぜぇと思っちまうとき、これからもあるかも知れねぇけど、いろいろ心に整理をつけてあたしを応援しようとしてくれてたこと、素直に感謝しなきゃって思うよ。



 あたしは少し、力を得た気がした。


 無理はしない。社会人だから最低限のことはやるけど、家庭を優先したっていい。だから今日は定時で上がるんだ。



 そして蓮に……


 やっぱり気の利いたことは言えないかも知れないけど、強いだけじゃないあたしで接していくんだ。開いた距離を取り戻すんだ。必ず。




 そんな強い決意のもとでなんとか1日を乗り切った。


 帰る前の電話、気まずいけどそれ以上に心配だし、やっぱり欠かすことは出来ねぇと思ってコールした。



 だけど……



「え……」



 不穏な音声アナウンスに心臓がドクリと音を立てる。



 電波の届かないところにあるか電源が入ってないらしい。



 あいつは充電を切らすことなんてそうそう無い。昨日みたいに電話に出なかったことだって珍しいのに。



 いや、大丈夫だ。風呂に入ってるだけかも知れねぇ。


 危ないモンは全部片付けてきたんだ。相当力尽きてた。変なこと考える気力もないだろうってくらい。



 なぁ。そうだよな、蓮。



 信じていいんだよな!?



 返答のあるはずもない問いかけをして、無意味だとわかって、その後はひたすら自分に言い聞かせた。大丈夫だと。


 だけど身体は駆け足になった。全身で突き進んだ。今日は間違いなく彼が居るはずのマンションに向かって。



 ピンポーン


 ピンポンピンポンピンポン



「蓮! 居るか、蓮!」



 うざいだろうってわかりながらもインターホンを連打してしまった。鍵を開けながら何度も呼んでしまった。



 部屋の中が、暗い。



 居るって、言ったのに。



 あんなに走ってきたのが嘘みたいに、廊下を進む足取りはガクガク震えてる。


 寝室から先に行った。居ない。


 洗面所にも、風呂にも、トイレにも、居ない。



 あたしがいつも、帰宅して速攻座ってるダイニングの席。その前に白い封筒が置いてあった。



「おい……嘘だろ」



 震える手でそれを取る。



『葉月ちゃんへ』



 蓮の文字が記されていた。



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 ※希死念慮・・・死にたいと願うこと。病気や人間関係など解決し難い問題から逃れる為に死を選択することを「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることもあります。


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