8.逃げてきた理由


 仕事の昼休み中。


 たまにはスパイシーなモンが食いたくなったあたしは今日の看板メニューである雑穀米キーマカレーの食券を買った。たっぷり添えられたレタスから手をつけりゃあ血糖値の上昇も抑えられるって訳だ。さすが製薬会社だけあって健康に気を使ったメニュー。まぁ普段、蕎麦単品ばかりのあたしはそこまで意識高くねぇんだけど。


 席に着いてまず一口運んだ。間もなくしてあたしの持つスプーンがカチャリと小さな音を立てて皿の隅に落ち着いた。いや、不味かった訳じゃねぇぞ。


 勤務中はすっかりビジネスモードなあたしもこうして気を緩める瞬間に度々思い出すんだ。もちろんあいつのこと。



 ただ今日はいつもより長い時間、現実に戻れずにいる。



 室内の大部分が硝子張りで外が一望できる、なかなか洒落た空間。程よく散りばめられた木々。だけど夏らしい青々とした空には幾つものビルの群れが伸びている。


 東京と比べたら規模は小さいだろうけど、県内で言えばわりかし都会と言える。そう、ここらの地域はビジネス街だ。


 すっかり慣れたはずの景色が目にしみるよ。今日はつい最近交わしたある会話を思い返してた。



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 あたしは蓮に付き添って総合病院へ足を運んだ。場所はやや蓮の地元寄りだけど、あたしらから見て県内。予約は1ヶ月待ちだったけど精神科では割と早い方。たまたま空きが出来てたんだそうだ。



――気分障害の傾向が見られますね――


――以前は自分で出来ていたことでも今は援助が必要かも知れません。それくらい症状が悪化しています。今後しばらくは月2回で通院して下さい――



 医師からはそう告げられた。気分障害とはいわゆる『鬱病うつびょう』だ。


 今後も診断名は変わる可能性があるらしい。実際、蓮が言うには発達障害と学習障害があるというところこそ同じだけど、以前は鬱病とは別の診断名だったそうだ。症状の全てが発達障害によるものとは言い切れない、判断はとても難しいんだとか。



 あとはこの病院、今の主治医とやっていけるかどうかだな。


 蓮は心を閉ざしたままだし、しばらく通院サボってたし、本当にこの医者と合わないのかもあたしの目からだとわからない。特に感じが悪いとは思わなかったしなぁ。


 通院しながら他の病院も探してみるか。あるいは前の主治医の異動先を調べて転院するか。そういう手段も時には必要だ。



 そんで病院から帰ってきた後。


「よく頑張ったな」


 うちの会社から歩いて行ける距離のアパート。二人っきりの室内で、あたしはまず彼の勇気を認めた。だけどあたしの中でも抑えるのはちと難しい不安が湧いていた。



――なぁ、蓮。



「こういう話、ちょい気が早いかも知れねぇんだけど、お前あたしと結婚したらどんな場所に住みたい?」



 キョトンと目を丸くした彼。あたしなりに気を使ったつもりなんだ。だってよ、前から疑問だったから。



「お前さ、この環境って住みやすいか? 県内では特に人口が多くて発展してる街だぞ。正直あたしでさえうるせぇと思うときがあるのにさ」


「…………」



「もっと穏やかなところの方がお前に向いてるんじゃねぇのか? あたしのマンションに来てもいいけど、あっちも環境としてはそんなに大差無い。通勤がそこまで苦にならない範囲ならあたしは構わねぇぞ。そうだな、例えばお前の地元近くとか」


「やっ……!」



「……え?」



 細い悲鳴のような声に遮られてあたしはドキッとした。不穏な高鳴りだった。



 蓮は口をぱくぱくさせるばかりで声が思うように出なかった。だけど表情がしきりに訴えていた。


 眉はこれでもかというくらい中央に寄り、見開いた大きな目の奥は極限まで縮まっていた。見る者を深くまで吸い込むブラックホールみたいな。


 漫画でよく顔に縦線が入るってやつあるだろ。あの効果が似合いそうな顔だ。



「地元が怖いのか」



 辿り着いた答えを突き付けると蓮はきゅっと唇を噛んだ。それからメモ紙にこんなことを綴ったんだ。




『地元の人たちは僕を知ってる。ここの人たちは僕を知らない。僕の存在は葉月ちゃんにだけ知っててもらえればいいです』


『ここに居れば僕は空気のように生きていけます』




「はは、あたしは空気に惚れた覚えはねぇぞ」


 苦笑しながら返したんだけど、実はちょっと頷けるものがあった。あたし自身の経験とは違うけど、そういや後輩でそんな奴がいたなって。



 都会に紛れることで自由を得るっていうやつ。



 蓮は地元でいじめに遭ってた。地元に居づらくなると、自分のことを誰も知らない環境に行きたくなるんだろうな。わかる気がするよ。


 だけど実際はどうだ。蓮はこの街に逃れてなお苦痛からは逃れられなくて危うく命を投げ出すところだったじゃねぇか。本当にこいつの為になるのか? いいのか、それで。



 もはや結婚まで待たずとも考え直した方がいいんじゃないかと思い始めた。



 随分と躊躇ためらったんだけど、スマホの電話帳に入ってる蓮ママの携帯番号……これ、活用させてもらった方がいいかなと思って。どっちにしろ病院を受診した後は報告する約束になってたし。ママさんとのやり取りは蓮も承諾してるし。



 その日は早めに自宅マンションへ帰ってコールした。



 医師から受けた診断結果、それと現在の生活環境に無理がないか心配だと素直に伝えた。


 スマホ越しの声はしばらく途絶えてた。今思うと何かを秘めてたんだ、あれは。



『そうね、理由がわからないと貴女も却って不安でしょうから、やっぱりお伝えしておこうと思います』


「は、はい……?」



『あのアパートなんですけど、蓮はその……以前は幼馴染の子とルームシェアしていたんです。定時制高校を卒業した後、自分の住んでるところに来ないかと誘われたらしくて。あの子勝手に決めちゃって、私たちも望んで送り出した訳じゃなかったんですよ』



 そりゃ初耳だとあたしは目を丸くした。


 だってびっくりするよ。共同生活に対して蓮が乗り気だったなんて、意外としか言いようがない。よほど信頼関係の築けていた幼馴染だったんだろうか。



『今その幼馴染の子は地元に帰ってきています。ほんの半年くらいしか一緒に住んでなかったんですよ。蓮本人がルームシェアを解消すると電話で伝えてきたので詳しく聞いてみたら、もう物件を譲り受けた後でした。幼馴染の子、多分負担が大きかったのね。家賃や生活費を分担するにしても蓮は満足に働けなかったから……』


『蓮には地元に帰ってくるよう説得しました。だけどあの子は一人でやっていけるって。実際は兄弟や地元の人を怖がってるんですよ。陸も蓮のこと、刃物を振り回す恐ろしい兄だと思ってしまっています。家族揃って暮らすことはもう難しいと認めざるを得なかった。だから仕送りで蓮の生活を支えようと主人と二人で決めたんです』



「そう、だったんですか」



 浮かび上がってきた新事実にあたしはしばらくぼんやりしてしまった。電話を切った後も心ここにあらずといった状態。


 帰り道で買った缶ビールを開けたものの、つまみに手をつけるのも忘れてた。たった今ママさんから聞いたばかりの言葉を何度も反芻はんすうしていた。




――実際は兄弟や地元の人を怖がってるんですよ――




 それってやっぱりルームシェアしていた幼馴染もなんだろうか。


 あの部屋は今じゃすっかり蓮の世界になっていて、誰かが居た痕跡などパッと見ただけじゃわからない。あたしが会いに行くって言っても蓮は断ったことが無い。幼馴染との交流はもう途絶えているんだろう。



 あたしは中身半分くらいになった缶を強く握った。ミシ、と小さくひしゃげる音がした。


(なんかやるせないな……)


 一緒に住むくらい仲の良かった幼馴染との関係まで壊れたなんて。そうなんだとしたら、あいつ、あたしと出会うまでの間ずっと、凄まじい虚無感の中で生きていたんじゃないだろうか。



 親も、兄弟も、友達も駄目だった。



 それくらい蓮と一緒に暮らすのは難しいことなのか……?



 そこまで考えたところであたしは激しくかぶりを振った。残りのビールを一気に流し込んで、カン! と強くテーブルへ叩きつける。



(何を弱気になってんだ。難しいなんて覚悟の上だろ。それでも支え合っていくって決めたんじゃねぇか!)




 しかしこの強い決意も、また翌日、蓮のアパートを訪れた際に危うく揺らいだ。



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「や〜、早いもんですねぇ、もう7月なんて。このあっっつい真夏にこそガツンとしたスパイスが効きますねぇ、茅ヶ崎さん!」


「あー……」



「で、今度は何を悩んでるんですか? ん??」




 …………




「…………っ!!」




 カバっと顔を上げると、目の前の席にはもういがぐり坊主のあいつが座っている。ゴシップ嗅ぎつける能力ハンパなさ過ぎだろ!


(出た、坂口)


 あたしとおなじ雑穀米キーマカレーにこれでもかというくらいガラムマサラを振りかけている。もしかして持ち歩いてんのか? 味覚の方はメチャクチャ狂ってそうなんだけどな。



 何度も言うけど、あたしこいつに詮索されんのマジでかったるいから! 間違いなく苦手なものランキングの上位だよ。大嫌いなセロリの次くらいに勘弁だ。



 だけど……


 ただ、ちょっとな。



 世間一般の常識くらいはわきまえてる奴だと思うんだ。むしろ確実に備わっていると認めよう。



――なぁ、坂口。



 そんな奴の一般論とやらを聞いてみたくなったんだよ。





「あのさ……男と女が一緒に生活するの、ルームシェアって、言うか?」




 キーマカレーにがっついていた坂口がリスみたいに頰を膨らましたまま顔を上げる。まぁるく目を見開いていく。ぶっちゃけ凄いマヌケ面。



 でも今、マヌケ具合ではあたしも負けちゃいない。


 すっかり冷めた昼メシに手をつけることも出来ず、どんな顔をしていいのかもわからず、ぎゅっと唇を噛み締めているばかりのあたしも……



「それって蓮くんのことですか?」


「いや……その、一般的にはどうなのかなって」


「いやいやいや! 今までだって相談乗ってきたじゃないですか。ここはどーんと正直に言ってくれても……」



「だから! 単にアリなのかどうか知りたいだけだって!」



 不覚にも声を荒立てた。不覚にも……思い出す度に胸が締め付けられるんだ。



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 昨日、蓮のアパートでノートパソコンを借りて、転院先の候補を探していたときだ。メモ帳はいつも通り机の上に置いてあったけど、ちょうどペンのインクが切れたところだった。



「なぁ、蓮。他にペン無いの? あたし今日忘れてきちまって……」



 …………よ……



 語尾が消えかかった。


 あたしもいけなかったんだ。蓮の机の引き出しを勝手に開けた。蓮が素早い動きであたしのところへ駆け寄った。青ざめた顔をして。



 たまたま開けた引き出しの中はほぼ空っぽで、ただ一つ、透明の袋に入った一対のピアスがあった。タグがついている訳でもない。ターコイズの塗料が少し色褪せている。新品ではない。




「……ちがう」




 蓮は思いつめた顔で細く泣くように呟いた。



 再び動き出すまでに随分時間はかかってたけど、別の引き出しから取り出した新しいペンでこう書いた。



『前にルームシェアしていた幼馴染が忘れていった』



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 ふぅ、と苦笑混じりのため息をついた坂口が頰に詰め込んだモンを飲み下して口を開く。


「わかりました。じゃあ一般的視点で言いますね」


 あたしは膝の上で拳を強く握る。




「まぁそれは、限りなく同棲、限りなく元カノでしょうね」



「だよなぁぁぁ!! やっぱそうだよなぁぁぁ!!」



「……茅ヶ崎さん、隠す気ないでしょ」




 そう、今でも脳裏に焼き付いて離れない。



 ターコイズと貝殻モチーフの可愛らしいやつ。耳に引っ掛けてぶら下げるタイプの。



 ありゃあどっからどう見ても女モンのピアスだったんだ。

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