偽婚約解消⑤
「えっ、なんで?!付き合ってないよ!」
「ふーん……?そうですか……」
奥田さんは首をかしげながら自分の席に戻った。
たしかに業務上は接点が多いけれど、どこでどう解釈すれば私と有田課長が付き合っていると勘違いするんだろう?
定時を過ぎた後は、明日に備えてひとつでも多く仕事を片付けておくために残業した。若手の仕事内容にチェックを入れたり、定時間際に頼まれたデータ入力などをしていると、あっという間に時間が過ぎる。
仕事が一段落ついたところで時計を見ると、もうすぐ8時になるところだった。オフィスには私と有田課長しか残っていない。
「佐野主任、まだかかりそう?」
「いえ、そろそろ帰ろうかと」
デスクの上を片付けながら答えると、有田課長は腕時計を見ながら大きく伸びをした。
「腹へったなぁ……。そろそろ俺も帰ろうかな。佐野主任、一緒に晩飯でもどう?」
有田課長から食事に誘われるなんて珍しい。いつもはだいたい私の方が先に帰るから、会社を出る時間がバラバラなのだ。
帰って食事の支度をするのも面倒だし、ひとりで外で済ませて帰るのもなんだから、有田課長の誘いに応じることにした。
「たしかにお腹空きましたね。行きましょうか」
「って言っても牛丼くらいだけどな」
「そんなところだろうと思ってましたよ。お腹空いてるので、牛丼でもラーメンでもなんでもいいです」
帰り支度を済ませ、灯りを消してオフィスを出た。有田課長と二人でエレベーターに乗ると、二つ下の階で止まる。
どこの部署も忙しくて残業しているのだなと思っていると、エレベーターに乗ろうとしている人の姿が開いた扉の隙間から見えた。思わず「あっ」と声をあげそうになったけれど、慌てて口を閉じる。
扉が開きエレベーターに乗ってきたのは、三島課長と下坂課長補佐だった。
「お疲れ様です」
有田課長が挨拶すると、三島課長は「お疲れ様です」と返したあとでチラリと私の方を見た。
「佐野もお疲れ様」
「お疲れ様です……」
下坂課長補佐は「お疲れ様です」と言いながら、私たちに向かってにこやかに会釈する。
三島課長だけならまだしも下坂課長補佐まで、どこにも逃げ場のないエレベーターで一緒になってしまうとは、私もとことん運が悪い。有田課長がいる分だけ、いくらかはましだけれど。
「営業部は忙しそうだね」
「そうですね。異動になった人数が多かったので、引き継ぎだけでも大変です」
課長同士で会話している間も、私は下坂課長補佐の視線が気になって顔を上げられなかった。
「三島課長は美人な補佐がついていいなぁ……。うちは相変わらず俺と佐野主任二人で、なんとか部下を仕切って仕事を回してるよ」
有田課長が笑いながら何気なくそう言うと、下坂課長補佐は「美人だなんてとんでもない」と表向きは謙遜しながら余裕の笑みを浮かべている。
自分が美人だという自覚は大いにあるのだろう。同性としては、そんなところが少々鼻につく。
葉月は飛び抜けた美人でも、それを鼻にかけたような態度は取らないのに。
「すみませんね、美人じゃなくて」
思わずボソッと呟くと、有田課長は慌てて取り繕おうとする。
「いや、佐野主任が美人じゃないなんて言ってないよ?補佐がついていいなぁって言っただけで。……っていうかむしろ佐野主任は俺の優秀な右腕だから、生産管理課に補佐は要らない。うん、必要ないな」
「私はいつから有田課長の右腕になったんでしょうかねぇ……。右腕、2本も要りますか?」
有田課長の調子の良さに半ば呆れて、小姑のようないやみを言ってみる。
「あーっ……右腕というか女房役みたいな?とにかく悪気はまったくないんだ。晩飯おごるから機嫌直して!」
女房役ってなんだ、野球選手じゃあるまいし。
「牛丼並盛りくらいじゃ許しませんよ。どうせなら同じ牛でも高級焼肉にしてください」
「高級焼肉はちょっと……。どうにかハンバーグくらいになりませんか?」
「……仕方ないですね。それでは松阪牛のハンバーグで手を打ちましょう」
いつもの調子で有田課長と軽口を叩いていると、下坂課長補佐はおかしそうに笑っていたけれど、三島課長は無言のまま階数表示の数字をじっと見つめていた。
1階についてエレベーターの扉が開くと、有田課長は私の『松阪牛』が聞こえていないかのように、三島課長たちの方に向かってひきつった笑いを浮かべた。きっと助けを求めているんだろう。
「そうだ、これから佐野主任と食事に行くんだ。すぐそこの洋食屋でハンバーグでも一緒にどう?」
会社の近くの洋食屋には松阪牛のハンバーグなんて置いていない。
有田課長め、三島課長と下坂課長補佐をだしにして、なんとかごまかそうとしているな。
……いや、むしろ問題はそこじゃない。
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