第75話 ほかならぬ人
今日、何度目かのため息をつく。
ここのところ降り続く雨は一向に止まない。
喫茶店の外、濡れたテラス席には誰も座らず空いていて、つい視線が追ってしまう。ほんの数日前……確かに私はあの席にいた。誰にも目を合わせられずにいるもの同士が二人、ささやかな共感と言葉を交わした時が頭をよぎった。
それだけでここが現実ではないような、どこに意識があるのか分からない、ふしぎな気持ちになる。
雨の音。誰かの話し声。歩く靴音。花や葉っぱに雫が落ちた匂い。
あちこちに伸び広がる意識が、普通の人では知ることのできない範囲の情報を集めて来た。非日常で研ぎ澄まされていた五感もだいぶ薄れている。
この雨と一緒に、私の沈んだ気持ちも消えてくれないか?
温かいコーヒーを喉に流し込んでも、心はいつまでも凍り付いたように動かせない。ほんの少しでも憂鬱が薄れることを期待して、また深く息を付いてしまう。
「よう。みんな集まるってのに、こんな天気じゃあな」
「あ……」
コウちゃんが言葉をかけながら、向かいの座席にリュックを降ろす。
バッチリ見られてしまった。朝から尽きることのないため息を。高校のみんなと会う前にぜんぶ吐き尽くしておきたかったが、どうにも難しい。
椅子に手をかけたまま、コウちゃんは携帯の画面に目を通している。その間にも、ピコピコお互いの携帯にメッセージが入る音がした。
「みぃちゃんから?」
「ん。無事みんな合流してあと駅四つだって。あと十分ちょっとで着くらしい。先に飲み物買って来るよ。メグは追加で頼みたいモンあるか?」
「ううん。大丈夫」
「……」
コウちゃんが私のことをずっと見ている。心配させちゃったかな?
少し前のことを考えているにおいが、ほんの少しだけ嗅ぎ取れた。
「どうしたの?」
「ああ……いや、改めて思ったんだ。こんな人混みでも平気になったんだな、って。色々あったけどさ、メグが無事に戻れて良かったよ」
「……っ」
「悪い、そんな顔させるつもりじゃなかった。でもな、みんなと会えば沈んでるヒマもなくなるぜ。きっと」
「そうだね。なにせ私の都合なんてお構いなしで、引っ越しのお手伝いに押し掛けて来るくらいだし」
「あの時は……ははっ、引っ越しそばまで食ってすまん」
私が気にしてないよ、って笑った顔を向けると、ようやく安心したのかコウちゃんが席を立った。
確かにここ数日、色々ありすぎたな。誰とも喋れず、目も合わせられず。人の存在する場所にいることすら息苦しくなって出来なかったけど、今はこうして周りを眺めながらコーヒーの香りを楽しめるんだから。
だからうじうじと引きずっていられない。
みんなに会えるんだ。ちゃんと笑わなくちゃ。もう心配ないことを伝えて、いつものように遊ぶ。旅行の話も聞きたい。写真や動画、まだ一つも見てないから。楽しみなんだ。そのはずなのに……心はいつまで経っても晴れない。
飲みかけのコーヒーにミルクを垂らすと、ふいに視界が歪んだ。
「うううぅ!? 痛い……ッ!?」
同時に目の内側から、針が突き出たような痛みが走る。
この感覚。忘れもしない。このどろっとした血のような赤い視界も。
これは――
҉ ҉
『やあ、調子はどうかな?』
「……シロ?」
声を頼りに目を凝らすと、テーブルに巻き取った糸のような塊が浮いていた。細くて白い、ミシン糸みたいな。それがぐるぐると回転し棒状に伸びていき……別のものになっていく。
鱗のかたちに似た藍色の脊椎が螺旋を描き、植物を思わせる薄緑の色彩へと変わった。頂点から四つに分かれ、うち半分は木がねじれて重なる双樹の形、その先は緋色の
ひげ根のすき間からこちらを写す目は、どんな色ともつかない昆虫の複眼に似ているが、なんとなく私を見て気がかりが消えたようなにおいを漂わせている。
「
『そうかい? まあサイズは自在に変えられるが、それはあまり重要ではないな。繋がりのないニンゲンには認識すら不可能だし?』
そう言うと、踊るように回って見せてテーブルの表面をなぞった。楽しそう? シロはいつもぴんと張り詰めた雰囲気だったけど。上機嫌、とも違うな。なんだろう……生き生きとしているような。そんな感じ。
『ああ、うん。キミの感覚は概ね合っている。実に数百年ぶりに自分を取り戻してね。剥離していた精神をくっつけて、ようやくボクは元通りになれたんだ』
「そっか……おめでとうシロ」
『ありがとう。いくつか伝えたいことがある。まずは経過報告だ。キミが外宇宙へ押し戻した支配者サマだが、特に動きはない。静観……とも違うが、少なくとも再び招来の呪文を唱えない限りは、こちら側に影響を及ぼす危険はなさそうだ。そしてその呪文を唱えようとする者はもういない。ボクの視点になるが脅威は消え去ったと言える』
「……」
『少々ユニークなことがあってね。あちら側の宇宙……端から端まで届いていた支配の糸がほどけた』
「ほどけた? 毛玉のコントロールから解放されたの?」
思わず聞き返した。
あの完璧に揃えられた世界、その繋がれた者たちが意思を取り戻したのなら、シロの願いは叶ったってことになる。バラバラになっていた魂も治り、孤独に耐えなくて良くなったってこと、だよね?
からころとシロの身体が鳴り響く。頭のラッパか爪の開閉部分から出る、シロの笑い声だ。
『そうだとも! いまだ全体を覗き見る目は健在だが……監視というより観測に留まっている。ああ長かった。10,000,000,000年規模で停滞していた箱庭に、ようやく変化が訪れたというワケだ』
「でもなんで……?」
『それはキミの影響だよ』
「ええ? わ、私?」
『大願の押し引きのとき、支配者サマと炯眼で繋がっていただろ。キミの魂に、ヤツは染められたんだ。宇宙ごとのみ込める精神体。だが自らの容れ物を持てないが故に、ちっぽけな魂の色を無視できない。それが大海に等しいグラスに落とした血の一滴だとしてもね。そしてグラスいっぱいのワインに血の一滴が入り込めば、それは別モノだ。支配者サマの純粋性は失われ……キミという消えない染みが刻まれたのさ』
私を頑固な汚れみたいに言って……
まあシロのいた所が、良く変わったんならいいか。
少しだけ気が晴れてきた。少しだけだけど。
『支配者サマは過去・現在・未来を含有し、あらゆる時間と空間と共に在る。鳥瞰的に見ればキミのしたことは何の影響も及ぼさない。だけど……ええと、どう言えば伝わるかな……そうだ。活動写真! アニメイシヨンっていうのを頭に浮かべて欲しい。パラパラとめくれる膨大な時間の中で、この《今》という切り取った世界線のヨグ=ソトースからすると、やはりキミという色は灼きついて剥離させることの出来ないものなんだ』
「……向こう側は、これからどうなっていくの?」
『正直予測が付かないな。キミという魂……心底諦めないという性質に引っ張られれば、いつかそれぞれの宇宙の境界を打ち破るかもしれない。多元宇宙すらのみ込んで漏らさず精神が繋ぎ合わされば、ある意味での天国と言えるだろうけどね。まあ、そう深刻なことにはならないと思うけど』
「ち、ちょっと……ほんとに大丈夫?」
えらく楽観的な展望を持っているが、これってこの地球が危ないどころの話じゃないぞ!? 誇張なくすべての星、すべての宇宙に関わる未来が、いま……雑に投げっ放された気がする……!
シロは笑った。
本当に楽しみで、好奇心があふれ出すような――わくわくしている子どものようなにおい。それは多分、シロ自身も長く忘れていた魂の癖なんだろう。
『どこの誰とも分からない色なら不安になるけど。ボクは信頼しているよ。なにせ他ならぬ……キミの魂だ。めぐ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます