東京タワー消滅夢譚
東京タワーが無くなってしまう夢を見た。
解体とか、崩壊とか、そういう事ではなく、ある日、何の前触れもなく忽然と姿を消すのだ。
もちろんそれはただの夢だし、現実にそんな話が起こり得ないなんて事は充分理解している。というか考えるまでもない。あんな巨大な建築物が一瞬にして姿を消すなんてことは物理的に不可能だ。マジックショーやSFの領域だ。
深谷レイジは朝目覚めた瞬間の夢見心地に脈絡の乱れたとろくさい頭脳でそういう事を考えたのだが、いつもなら覚醒と同時に霧の如く虚空に沈むその夢の映像は、何故だかいつまでたっても頭から離れなかった。
聳え立つ東京タワー。
消え失せる東京タワー。
壊れたフィルムみたいなその短い映像は終わりまで流れるとまた巻き戻され、消える度にまた現れ、消える度にまた現れを繰り返し、テンポの良いマジックのように、ぱっぱっと入れ替わる。それが視覚と平行して頭の中でイメージされる。僕の脳内CPUにはそんなマルチタスクな性能は無かったはずなのだが。とレイジは考える。
熱いシャワーを浴びてスーツに着替え、電車に乗って電車を降りて、カフェでコーヒーを飲みながら頭を仕事モードに変換させ、出勤から退勤までの数時間の間、レイジの頭の片隅にはほぼ休み無く東京タワーの事があった。
いや、この表現は慣習的に過ぎる。ステレオタイプなセンテンスに引き摺られて、本来あるべき表現が歪められている。
正確にはこう言うべきだ。レイジの頭の中の東京タワーは、この日一日、常に思考の中心にどーんと根を張っていた。むしろ彼の思考はこのタワーが放つ電波によって生み出されているとさえ思えた。
顧客へのクレーム対応をしている時、メールの文章をキーボードに打ち込んでいる時、休憩時間に同僚と放射能の濃度についての雑談を交わしている時、擦れ違った他社の女性社員を思わず視線で追った時……そういったすべての事象に違和感を覚えた。何もかもが虚ろで空っぽだった。彼の頭を叩いたらきっと中身のないブリキの箱みたいな軽やかな音が響いた事だろう。
一日が慌ただしく過ぎたはずなのに、まるで手応えがなかった。僕は何もしていない。ただ操られていただけで……
バカな事を。
レイジはデスクの前でひとり内省的な調子で頭を左右に振る。
どうかしてる。妙な事を考えている。
定時まであと一時間というところでその日のノルマをひと通り片づけて奇妙な一日を振り返っていると、どうも頭が痛くなってきた。目も乾いている。きっと疲れているんだな。ふと目を閉じるとやはりあの赤い鉄塔が頭の中に現れ、消えた。そして
くわわわわわああん
という軽やかな音が響いた。いや、気のせいだ。軽く頭を叩かれたらしい。痛い。いや、それほど痛くない。叩かれたのは肩だった。誰かの手がそこに乗っている。
振り返ると、常務がむっつりとした顔で立っていた。
距離が近い。
常務の話は端的にして明確だった。早い話がクビである。リストラによる人員削減である。
「急な話ですまないが」、という常務の前置き通りの急な話で、いったい何が起きたのかという感じでなかなか頭が混乱している。
落後者の烙印を押されるとはこういう事か。いや待て悲観的になったって仕方ない。でも何で俺? 他にもリストラ対象は居て決して俺だけが削られるという訳では無いという主旨の事を常務は言っていたが、そんなの気休めにもならない。混乱してるのに電波がうるさい。
東京タワー。混乱。東京タワー。混乱。東京タワー。混乱。エンドレス。
定時でそそくさと退社して帰宅途中に大江戸線に乗り換えて赤羽橋へと向かった。まっすぐ家に帰る気にはなれない、というのもあった。
地下鉄の駅を降りて地上に出るとすぐにあの赤く聳え立つ電波塔の姿が視界に入った。それはレイジがこれまでTVや雑誌や他の様々な媒体を介して目にしてきた物と寸分の狂いもない写像として彼の網膜に焼き付いたようだった。
もう何年も同じ場所に立ったままのせいで多少くたびれてはいるのかも知れなかったが、他を圧倒する存在感に衰えが無いのは、一目して瞭然と言うしかない。レイジは海底を闊歩するような覚束ない足取りでタワーの根下へと近付いていく。近付くほどに、見上げる角度が急になる。空には西の方からうっすらと赤みがかった色が付き始めていた。
こうして現実のタワーを直接仰ぎ見るのは何年ぶりだろうか。
頭の中で指折り数えて年月を遡る。
あれは、一九八二年の夏だった。
レイジは小学校の四年生で、夏休みの家族旅行で東京に来ていた。
数多くの小学生がそうであるように、彼もまた例外なく相当なハイテンションに達していた。タワーを見上げては叫声を上げ、駐車場を駆け回っては親に叱られ、エレベーターのボタンを自分で押したがった。確かそんな感じだった。んで、気がついたら宿泊先のホテルのベッドで目を覚ましたのだ。
そうだった。
あの日の記憶は一部すっ飛んでいる。
親に聞かされた話ではいきなり鼻血出してぶっ倒れたとか、そういう事だった。まるで覚えていない。どこで倒れたのか、何故そんな事になったのか、きっかけも経過も抜け落ちている。貴重な東京観光のメインイベントが知らない内に終わってしまったと聞いて落ち込んでいたような気がする。
あの時は、どんなルートをたどってここに来たのだっただろう? そのころ大江戸線はまだ存在していないから、もう少し距離のある所から歩いてきたか、もしくは観光バスだったか?
今来た道を振り返ってみたけれど、あの時自分がここを通ってきたかどうかなんて、思い出せもしなかった。
また前を向く。
目を疑う。
さっきまで視界の中心にあった東京タワーが、消えていた。
レイジはぐるりと周りを見渡したけれど、やはりどこにもその姿はなかった。自分の方向感覚が狂ってしまった訳ではなさそうだったが、軽い眩暈と共に体が軸を失って揺れている。
思わず足が止まった。携帯で周辺のマップを表示させると、位置的にはやはり目の前にあるはずだ。いやいや、そもそもさっきまでちゃんとそこにあったのだ。進むしかなかった。他にどうしようもなかったというのもあるけれど、困惑する一方で何故か気持ち的にはしっくりと来るものがあった。その日朝からずっと感じていた、奇妙で不可解な精神状態に対する解答が現れたような気になったのかも知れない。
レイジは地図上の東京タワーが示されている場所に向かう。
坂道を少し上った。そして、だだっ広い四角形の空き地に出た。
何もない。草もまばらな地面が何の目的も見出せず途方に暮れた五月病の新人社員みたいな平坦さで目の前に広がっていた。
足を踏み入れ、空き地の中央に立つ。
(こりゃいったい、何の冗談だ?)
頭の中でそう問いを発してみても、誰かに聞いてる訳でもないので当然ながら答えはない。自分の中にも勿論ない。ぐるりとその場で回ってみたが、タワーの痕跡すらない。ないない尽くしで訳がわからない。
頭を抱えていると、すぐ背後で
「何を探しているの?」
と声がした。
振り向くと女が立っている。距離が近くて後ずさる。雨も降っていないのに傘を差していた。東京タワーみたいな真っ赤な傘だった。
さっきまでそこには誰もいなかったはずなので、驚いてしまった。言葉が思いつかない。レイジは
「東京タワー、ここになかったですか?」
と言った。まるでボールペンを探しているみたいな感じになった。
「東京タワーなら、歩いてどっか行っちゃったわよ」
と女は答えた。
「歩いて?」
「ええ。足が四本あるでしょう」
「ああ……足。ありますね」
「なんだかね、どうせ地デジ化で用無しになるんだって、怒ってたみたい」
「へえ。なるほど」
『なるほど』というのは便利な言葉である。話の長いお客さんに対しては非常に無難な相槌を打てるツールとして使える言葉だが、こんな状況でこの言葉を返したのは初めてであり、頭の中では一刻も早くこの場を立ち去るべきなのではないかという懸念が早くも渦巻き始めていた。
はっきり言って不気味である。
突然人の背後に立って晴れ空のもとに傘を差し、突拍子もない事を話し始めるような人間が居たら、大抵の人間はその場を離れたくなるのではないか。彼は東京タワーの事なんか言い出すべきではなかったのだ。
しかしながら彼がそうしなかったのはとても単純な理由であって、要するにその女が少なくとも見た目に於いては大変に魅力的であったからだ。
赤い傘は天候的には不自然ではあったが似合っていたし、黒地に赤と白の花柄がちりばめられたワンピースは全体的にシックな色合いで落ち着きを感じさせた。表情には何か呆然としたような雰囲気があって、視線は常にどこか遠くに向かって放り投げられている、という感じだった。口元は常に半開きで、鮮やかな赤い口紅と同じ色のマニキュアが指先で目立っていた。
「納得したの?」
と彼女は言った。
とろんとした力の抜けた目がレイジを見た。何についての問いなのか、彼は一瞬わからなかった。
「見てたんですか? 歩いていく東京タワーを」
レイジはそう問いを返し、彼女はまた口を開いた。
「ええ。見てたわ。初めは首都高を跨いでから西に向かおうとしたみたいだけど、思い直したみたいに海に向かって歩き出したの。きっとね、あれは先ずNHKを目指して渋谷方面に行こうとしたんだけど、移動距離とか歩きにくさとか考えてすぐ近くの日テレの汐留かフジテレビのお台場の方に行く事にしたのよ。ほら、ビルとか道路とか、そこを走っている車や人を避けて歩くのって難しそうじゃない。あの大きさだと」
「あー……そうかも知れませんね。よくわからないけど。なんでテレビ局に行くんだろう」
「きっと文句が言いたいのよ。どうして俺を首にするんだって。そりゃあもうずいぶん長いあいだ働き続けてくたびれた所もあるかも知れないけど、今でも充分仕事してるじゃないか。結果出してるじゃないかって、そう言いたいのよ」
そう彼女が言うのを聞いて、レイジは迂闊にも東京タワーに対して同情の念を抱いた。馬鹿げた話だと分かっていても、その文脈に生じた共通項に彼は否応なく惹き付けられてしまった。
そして彼女と同じく東京湾の方向を見てみたが、四本足で歩く東京タワーの姿を見つける事は出来なかった。
「リストラか」
とレイジは言った。
「そういう事よ」
と彼女は答えた。
藍色に染まり始めた東の空は、いつもと何も変わらなかった。ただ、タワーが消えた跡の空き地に立っているせいか、空が広く感じられた。
「あなた、名前は?」
「は?」
「名前、あるでしょう?」
「……深谷レイジ」
「忘れちゃダメよ。自分が自分である事を。名前は、その為にあるんだから」
レイジはその言葉を頭の中に巡らせて、ひとしきり味わってから、
「あなたは?」
と聞いた。
「常磐塔子。塔子の塔はタワーの塔よ」
「はは。よくできてる。覚えておきますよ」
「私の事は忘れてもいいのよ」
「忘れられそうにないですね」
「だったらいいけど」
そう答えた彼女の口調には何か引っ掛かるものがあったが、その時は大して気にも留めなかった。
話している間、塔子はずっと海のある方に遠い目を向けていて、会話が途切れるとレイジもそれに倣った。やがて太陽が彼らの背後で一日の仕事を終えて地平線の彼方に退場してしまう頃、塔子は「じゃあ」とも「さよなら」とも言わずに黙って踵を返してその場を去っていった。
レイジはその後ろ姿を目で追った。
東京タワーのことはもう、どうでもよくなっていた。
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