傘泥棒は連鎖する

 傘が無い。

 僕の目の前には傘がいっぱい詰まったコンビニの傘立てがあり、僕の背後では雨がざあざあと降っている。そして僕がここまでやって来た時に差していた傘は、傘立てからは消えていた。

 おそらく、ほぼ間違いなく、誰かが持って行ったのだろう。

 僕は、誰でも心に秘めているはずの、些細でありがちなな邪心と良心の狭間で揺れていた。

「傘は天下の回りものです」

 と後輩が言った言葉を思い出していた。

「特にビニール傘という物はみんなで共有するべき物です」

 ヤツはのほほんとした口調で、それが当然、と言う顔をして言い切った。

 確かに、ビニール傘に強いこだわりを持っている人間はあまり存在しないだろう。ワンタッチ式だとか、ちょっと色がくすんでいるとか、そんな違いはあるものの、あらゆるビニール傘は『ビニール傘』として一括りにされてしまいがちだし、実際僕も何の気なしに他人のビニール傘を間違えてもって返ってしまった事はある。

 誰でも傘泥棒になれるのだ。そして、そうなる可能性をみんな平等に持っている。

 もし仮にその可能性を不可避のものとして公式に認め、「傘泥棒はしょうがないのだ」という事になったとして、それが社会的な問題に発展する事はほとんどゼロに近いのではないだろうか。

 そんな事をいちいち考えている人間は居ないだろうが、世界中の無邪気な傘泥棒たちは頭のどこか片隅で無意識にそのような言い訳を自分にしているに違いないのだ。

 ビニール傘をなくしたら、他のビニール傘を使えば良い。という常識。

 しかしやはり考えてほしい。

 そうやって連鎖的に発生する傘泥棒たちの陰に隠れるように、間の悪い誰か一人は確実に持つべき傘をなくしてしまうのだ。

「ちょっとすみません」

 僕が傘立ての前であれこれ考えていると、一人の女性が横から手を伸ばして傘立ての中から一本引き抜いた。僕は傘立てを利用する人たちの邪魔をするような位置に立っていたのだ。

「ああ、すみません」

 ふと女性の顔を見ると、それは大学で同じ講義を受けている浜宮優里だった。

 優里も僕の顔に気付いたようだ。

「伊藤君、だっけ?」

 驚いた。彼女が僕の名前を知っているとは思わなかった。同じ講義を受けているとは言え、クラスは違うし、サークルなど、他に僕と彼女の接点になるようなものは無いはずだ。

「浜宮さん、だよね」

 確認などするまでもなく彼女の名前は僕の頭にしっかりと刻まれていたのだが、僕はそんな言い方をしてしまった。僕は焦っている。動揺している。でも嬉しい。彼女が僕を知っていた。

「何してるの? 傘立ての前で突っ立っちゃって」

「持ってかれたみたいなんだ」

 優里は、あら、と言う顔をした。

「どこ行くの?」

「駅まで」

「私も。一緒に入っていきなよ」

 そう言って優里はほんの少し傘を僕の方に傾けた。

 こんな偶然があるなんて。僕はやはり安易に他人の傘を持って行かなくて良かったのだ。

「ねえ、もし暇だったら、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」

 と優里が言ったので、僕はもちろん即座にオーケーした。

「良い傘だね」

 と僕が褒めると、優里はちょこっと舌を出して、

「実は私も盗まれたの。頭に来ちゃって誰のか知らないけど持って来ちゃった」

 と言って僕にいたずらっぽい笑顔を向けた。

 僕はほんの少し良心が傷んだが、優里の笑顔には敵わなかった。

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