第44話 湯煙の祈りと危機
雪解けの季節を迎え、春の息吹が森を染め始めていた。
巨樹の枝先には新芽が萌え、柔らかな陽光が枝葉の間から煌めきながら地上へと注いでいる。
舟神の祠から小道を下った先、岩壁から小さな湯の滝が静かに流れ落ちる温泉で、シエラは神聖な湯垢離を行っていた。
湯面から立ちのぼる乳白色の湯気が、彼女のまわりに神秘的なヴェールをかけている。
この場所は禊に最適とされ、代々の
温かな湯に身を半分沈め、彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
硫黄の微かな香りと森の清々しい空気が混ざり合い、心が澄んでいくのを感じる。立ちのぼる湯気の中、彼女の巻き角は朝霧に溶け込むように柔らかな輪郭を描いていた。
結い上げられたクリーム色の髪は湯気を纏い、真珠のような光沢を放ちながら、一筋、また一筋と首筋へ雫を落としていく。その滴りが肩を伝い、湯の中へと還っていった。
少し離れた所では、体長三十センチほどの妖精たちが、透明な羽を煌めかせながら湯面すれすれを飛び交っていた。
陽光に透かされた羽が、水面に虹色の光を映し出し、幻想的な模様を描いていく。彼らは、色とりどりの花びらや小さな赤い果実を両手で大事そうに抱え、湯に浮かべながら囁くような歌声を響かせていた。
時折、足先を湯につけては、キラキラと音を立てて楽しそうに水しぶきを上げる。それは、春の訪れを祝う彼らなりの儀式だった。
温泉のほとりでは、シエラに懐いたユニコーンの親子が、気だるげに横たわっていた。
純白の母ユニコーンは、時折頭を持ち上げ、警戒するように森の匂いを確かめては、安心したように再び頭を下ろす。
その背に寄り添うように、まだ角の生え揃わない仔ユニコーンが、温かな陽射しを浴びている。額の小さな銀色の突起が光を反射し、未来の麗しい角を予感させた。
柔らかな春風に乗り、清らかな陽の香りが漂い、親子のたてがみを静かに揺らしていた。
神子として祠で祈りを捧げる前の、穏やかでいつもの光景だった。
その静謐さが、一瞬にして崩れた。
最初に異変を察知したのは、母ユニコーンだった。
優雅に伸びをしていた姿勢から一変、首を高く掲げ、耳を鋭く立てた。黒曜石のような瞳は森の一点を凝視し、鼻孔を開いてなにかの匂いを嗅ぎ取る。
仔ユニコーンも母の緊張を感じ取り、素早く足元に立ち上がった。
次の瞬間、妖精たちの囁き歌が途切れ、羽ばたきをやめ、宙空に静止した。
彼らは一瞬、湯面に浮かぶ花びらのように静止し、そして——いっせいに四方へと飛び散った。まるで危険を察知した小魚の群れが、捕食者から逃れるように。彼らの羽の煌めきが、湯気の中に溶け込んでいく。
ユニコーンや妖精たちの異変に、シエラは直感的に悟った。レオではない。彼らは少年に懐いているはずだから。身体に走る悪寒が、近づく危険を告げていた。
この温泉に、危険なものが近づくはずはなかった。二年前に亡くなった育ての親、ドワーフ族の星導師グロンビドルが、なんども言っていた言葉が鮮明に蘇る。「舟神様のご加護があるからこそ、この場所は守られているのだ」と。
「おい、こっちだバム! 滝の音がする!」
耳慣れない男の声に、シエラは反射的に身を縮こませた。湯の中にあった体が急に冷え、全身に鳥肌が立つ。
森の茂みを掻き分け、小枝を折る音が、複数の場所から迫ってくる。足音は最低でも二つ、三つ。
シエラは咄嗟に湯から上がると、濡れた肌を隠すように神子装束の上着を掴み、身にまとった。震える指先で、背中の銀の留め具をかろうじて留める。心臓が早鐘を打ち始めた。
「いたぞ! バム! ジェガ! 羊角の女だ!」
足首に紐を巻き上げるサンダルを履くひまはなかった。シエラは、着替えといっしょに置いていた両手杖を強く握りしめた。それは武器というより、神事のための道具だったが、いまは唯一の守りだった。
草地を挟んだ木々の間から、見知らぬ男たちが次々と姿を現す。一人、二人、三人――そして、まだ現れる。
(レオ……)
少年は、そう遠くない場所で薬草を採取しているはず。無事でいてほしいと願いながら、同時に、そばに来てほしいとも思う。半年前まで孤独な生活を送っていた自分が、こんなにもレオの存在を頼りにしているのだと、切実に実感した。
§
レオは巨樹の根元に生えた白い花を一本摘み、茎の模様を確かめていた。
「この白い花とよく似た毒草があると、シエラが言っていたけど……うん、こいつは大丈夫だな」
花を籠に入れていると、聞き慣れた軽やかな足音が近づいてきた。
「お前かあ……」
レオは仔ユニコーンに微笑みかけた。
だが、様子がおかしい。
いつもならすり寄ってくるのに、今日は近づいたかと思えば背を向け、慌ただしく一方向へ駆け出す。ある程度離れたところで振り返り、またレオを見つめる。その瞳には明らかな焦りが浮かんでいた。
「……ん?」
なにかを訴えかけているように見えるが――。
再び、たてがみを揺らして駆け寄ってくる。
「どうしたんだよ? あ、おい!」
近寄ろうとすると、また急いで遠のいていく。その仕草には、明らかな意図があった。
「そっちに何かあるのか?」
スピードを上げても、仔ユニコーンは絶妙な距離を保ち、遠のいては近寄るを繰り返す。まるで、「ついてこい」と言わんばかりに。
「待てよ。その先は温泉がある方角だぞ……。まさか、シエラに何かあったのか!」
心臓が激しく鼓動し始めた。レオは籠を放り投げるようにして置くと、弓と矢筒を素早く背負い、駆け出した。仔ユニコーンの導きに従い、巨樹の間を駆け抜けた。
やがて、滝の音に混じって、不快な男たちの笑い声が聞こえてきた。
(この声は……)
レオは身を低くし、樹木の陰に隠れながら慎重に近づいた。
(シエラ!)
温泉のそばで、神子の少女が両手杖を握りしめ、逃げる機会をうかがっている。その表情には、不安と警戒が浮かんでいた。
「やっと見つけたよ。僕たちのこと、覚えてるよね? NPCのお姉さん」
聞き覚えのある、嫌な声だった。レオは息を潜めた。
(あいつ……バムだ。でも、どうして……あの遺跡で死んだはずじゃなかったのか?)
「ぶひょー! イイ! やっぱあの獣人NPCすごくイイ! なあバム、この女はワシがもらっていいよな? な?」
(ジェガも生きていたのか)
両手に斧を持った小太りの男が、シエラを値踏みするように見つめながら、不敵な笑みを浮かべていた。
「目的を忘れるなジェガ。まずは金だ。金が手に入らなければ意味がない」
「だな! あの小僧からいただく予定だったクエストの報酬金。アレはワシらのもんだったのにぃ!」
(シエラを怖がらせるだけでなく、ぼくたちを騙しておいて……許せない!)
温泉を挟んで、シエラとバムたちは対峙していた。大人が六人。どう見ても逃げ切れる状況ではない。
(どうすれば、シエラを逃がせる? そうだ!)
レオはバムたちの死角に回り込み、弓に矢をつがえた。手の震えを抑えながら、呼吸を整える。
(見つからずに注意を引く。そうすれば、ヤツらはこちらを警戒せざるを得ない。その先は……そのとき考えるッ!)
レオは弓を引き絞りながら、心の中で願った。
(シエラを、守れますように……!)
次の瞬間、彼は胸元に異変を感じた。
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