第26話会話

 学園祭二日前になると、普段は七時までしか空いていない校舎が九時半まで解放される。機材の最終チェックや装飾、設営などやることは山ほどある。そのため、大半の生徒が学校に遅くまでいるため、すっかり外は闇に包まれたというのに、校舎内は昼間より賑やかだ。


「お前たち、遅くなりすぎる前に帰れよ〜。俺は早く帰りたいんだからな」


 教師とは思えない言葉を発しながら体育館に来たのは、僕たちの担任だ。ヨレたジャージにサンダルは、テレビの中の日曜日昼下がりの父親を想像させる。


「いえ、時間ギリギリまでやります」


 委員長は当たり前というように担任を言い退け、すぐにステージ上に意識を戻す。とはいえ、委員長だけが先走りしているわけでは無い。体育館には裏方やすでにやることがない人も含め、クラスのほとんどが集まっている。皆、学園祭が近づいているという高揚感と、普段は残れない時間まで学校にいるという少しの背徳感で謎に高テンションなのだ。


「まあ、そういうと思ってな。ほれ、差し入れだ」


 さっきまで誰も担任のことに目を向けていなかったのに、差し入れという単語を聞いた瞬間、視線が一同に集中する。


「お前たち、露骨すぎるだろ……。ま、いいか。それじゃ、俺は職員室に戻るけど、怪我だけはしないでくれよ」


 手のひらを返した皆の威勢の良い返事に、担任は頬を掻きながら去っていった。


 差し入れに群がるクラスメート。その様子を遠巻きに眺める。最近はクラスの人と話すことも増えたし、混ざろうと思えば、自らその輪の中に入ることもできなくは無いと思う。

 でも、少し人間として成長したせいか、分かったことがある。僕はどうしようもなく冷静な人間だ。いや、そんなかっこいいものじゃ無い。ただ、臆病な人間だ。


 普段は感情の起伏が少なく、少しのことであれば我慢してしまう。だから、溜めに溜め込んで爆発する。夏祭りの時のように。


 我ながら、大きな事件なんか起こしそうなタイプだなと思う。


 そんなビビリな僕は、みんなが差し入れを取って散らばったあとから、余り物をこそっと取るのだ。


 差し入れを持って、体育館を出る。休憩後しばらくは、僕の出番が無いシーンだ。少しくらい体育館にいなくても大丈夫だろう。


 体育館から旧校舎に繋がる渡り廊下の横から、屋上へ繋がる古びた階段を登る。この階段はすでに使われていないもので、決して綺麗とは言えないため、人が寄り付かない。最近の僕専用の休憩場所だ。


 でも、今日は先客がいた。


 校舎で言えば四階の外階段で、町灯りに照らされた風景を眺める女性。ぼんやりと町を眺める表情とは裏腹に強く拳が握られている。


「桜坂……?」


 僕が名前を呼ぶと、彼女は慌てて振り向く。そして、僕の顔を見ると安堵した様子で胸をなでおろした。


『ここ、進入禁止のところだよ?』


 彼女が急いでフリップを笑顔で掲げる。


「それ言うなら、桜坂もでしょ? 人が誰も来ないからたまに休憩で使ってるんだよ」


『そうなんだ。いい場所だね』


 彼女は手すりに腕を預ける。僕も横で真似して、そこから見える景色に意識を向けた。山の上にある校舎から見える町は暗闇に飲まれ、至る所で点いている灯りが小さな丸の集合になってイルミネーションのように輝いている。


「そうだ。これ、担任からの差し入れなんだけど、半分食べない?」


 僕は手に持ったドーナッツを二つに割り、半分を彼女に差し出す。


『私、篠原くんのクラスじゃないから受け取りづらいな』


「いいんだって。飲み物もないんだから、一人じゃ食べきれないよ」


 押し付けるように彼女にドーナッツを渡す。


『じゃあ、いただきます』


 そこからは、僕も彼女も無言で景色を見ながら、ドーナッツを食べた。というか、桜坂は手がふさがっているから文字が書けないので、会話のしようがない。だから、僕も黙っていた。


 沈黙。


 言葉の響きは重いけど、彼女といるときの沈黙は嫌いじゃない。今、彼女は何を思って、何を考えているのだろう。

 

 僕といる空間が心地よいと感じてくれていたら、嬉しいのだけれど。そんなこと、わかりっこない。


 そのまま五分くらいだろうか、体育館から聞こえる小さな声に耳を傾けていた。


「そういえばさ、桜坂のクラスは劇の調子どう?」


 彼女は少し迷ったようにペンを宙に彷徨わせ、それからフリップに書いた。


『順調かな。あとは最終調整だけだと思う』


「そっか……。僕のクラスはギリギリまで時間を使って、ようやく形になるかなぁってとこ」


 桜坂はクスッと笑う。僕が首をかしげると、彼女は笑顔をつくったままペンを走らせた。


『こうやって篠原くんと過ごすの、久々だなって』


「あぁ、確かに久しぶりだね。最近は僕も桜坂も劇の練習で、放課後は図書室行けてないからね」


 彼女はペンを動かさない。本当に心を読まれているんじゃないかって錯覚するくらいだ。

 臆病な僕は少し困った。


「いや、本当はさ、ちょっと怖かったんだ。何が怖いっていうのはうまく言えないんだけど。現実を受け止められないっていうか、変化を見るのが怖いっていうの? ……ごめん。桜坂は受け入れて、前を向いてるって言うのに」


 また、彼女はペンを悩ませる。そして、僕に見せないように書いた文字を見つめ、消した。新しく書かれた文章には、『私は毎日楽しいよ。クラスのみんなで劇の練習をするのも、篠原くんとこうやっているのも』と書かれていた。


 会話ができないって、不便だ。声色から判断できることだってあるはずなのに、今は彼女の表情とフリップに書かれた文字からしか判断がつかない。


「……そっか。良かった」


 結局、僕はこう返すしかなかった。


『篠原くんは赤い糸が見えなくなって良かった? それとも、不便?』


 唐突な質問に、僕は言葉を詰まらせる。


「どっち、かな。見えなくなって良かったと思うことの方が多いけど、見えてほしいなって思う時もあるよ」


 今、僕の糸はどこの誰と繋がっているのだろう。体育館にいる愛衣だろうか、それとも隣の彼女だろうか、それとも見知らぬ誰かかもしれない。


『そっか。私も話せなくなって不便だなって思うこともあるし、良かったって思うこともある』


「良かったこと?」


 そんなことあるのだろうか。話せなくなって良いことなんて思いつかない。むしろ、不便なことしかないと思うのだけれど。


『私、休憩が終わるからもう行くね』


 彼女は笑顔で小さく手を振って、階段を降りていった。


 一人になった空間は、とても広く、そして静かに感じた。さっきまでだって、声を出していたのは自分だけのはずなのに、彼女がいなくなった瞬間、僕の言葉は泡のようにすぐに弾ける。そんな気がした。二人でいた時の僕の言葉は、黒板に書かれた文字で、今は曇りガラスに文字を書いたときのように、発してもすぐに見えなくなってしまう。


「糸が見えないと、一歩踏み出すのも勇気がいるなんて、知らなかったよ」


 僕の言葉は空気に溶けて消え去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る