Study 3
旅の夜:ブルームーン①
「お前、半年経ったしそろそろ学会行ってこい」
「え?」
誇張でも省略でもなんでもなく、単に会話はそれだけだったように思う。
夏になって大学中が休みに入り、それでも三年生までとは違って研究室に入った学生には休みなど存在しないことを知り文句を垂れながら日々登校していた沢に、梅田はさらりとそう告げた。もちろん、沢はなんのことだかさっぱりわからないという顔をした。対する梅田は無言でパンフレットだけを渡して去った。そこには付箋が一枚貼り付けられていて、見ると、以前より沢が作るように言われていた、これまでの研究成果をまとめた要旨が載っていた。
しかし意外だったのは、沢がそれにすぐさま反発しなかったことだ。僕は最初、その理由がまったく思い当たらなかった。普段の沢ならば、絶対に嫌がったはずなのに。
ただ、今にして思えば、パンフレットにある学会の開催地を見ていたときの沢の表情は、僕のメモリにとても色濃く残っている。僕の知る沢という人間にはまったくもって似つかわしくない真顔――単純に喜怒哀楽の感情には当てはめ難い複雑な想いをたたえた無表情が、そこにはあった。彼がその心に何を抱いていたのかは知らない。しかし沢はそれから、自慢の派手な赤髪を真っ黒な黒髪に染め直した。
そうして訪れた学会当日。今日まで沢は、何度かやんわりと梅田に対して抗議をしたが、当然通ることなどなく「学会出席も単位の一部だ」と説き伏せられて引き下がった。
「ま、交通費に宿泊費、出張手当までもらえるんだし、体のいい一人旅とでも思っておくかー」
平日の空いた新幹線の窓際席に、沢は眠たそうに座っている。僕はそれを無言で見守る。
「ああ、わり。お前がいるから一人旅ではねぇか。な、シータ」
いや、なんで僕まで一緒にいるの? なんで僕まで君と一緒に新幹線に揺られているの? なんで僕まで君の学会出席に付き合わされてるの?
「先生たちに学会の様子を写真に撮ってこいって言われたんだけど、それ、お前に任せるからさ。ずーっと映像録画モードでよろしく頼むわ。動画ならあとから切り取って写真にできるし」
なんで僕がそんなことしなきゃならないんだ!
「研究室のホームページに載っけるんだってよ。それに、学会の開催地は日本有数の温泉地のホテルだって話だから、お前も主人のために良さげな景色たくさん撮ってってやるといい」
僕にそんな主人愛は搭載されてないんだけれど。
「にしても、大学の研究者様はいいとこで学会やんだな。日本の学術界は豪勢だねー」
それからも沢は、僕を腹に抱えながらことあるごとに話しかけてきて、目的地までの時間を潰した。周囲の客からはかなり独り言の過ぎる青年に見えただろう。まあ僕としては、連れてこられた上に人目を気にして無視されるよりは退屈ではなかったが。
会話の内容は主に、以前に催された学祭での事柄だった。
「いやぁ、夏子先輩の漫画は、あとからもう一回読み返したけどやっぱり傑作だったわ」
そうだね。あれは僕も感動したよ。出色の出来だね。
「ウェイトレスの橋原先輩はマジ美しすぎた。あと、同時に白坂を揺するネタもできたな。お前も白坂にイタズラされたら使っていいぞ」
僕はそんなことはしないさ。僕と白坂は、君が思うよりも仲が良いんだ。白坂は案外、素直なところもあるんだよ。
「それから梅田先生の作ったケーキ、すっげぇ美味かった。あの性格からは想像できない細い造形は職人技!」
確かに、本当にお店を開いてもいいくらいの綺麗なケーキだったね。
「伏屋先生とグランドピアノはベストマッチだな。先生、普段からよくクラシック聞いてるし」
伏屋の演奏は機械的に解析してもなかなかの精度なんだ。聴いていて心地が良いよ。
「それから何と言っても最高だったのは、学祭終わりに夏子先輩が売上全部はたいて、焼肉奢ってくれたことだな。俺、あんなたけぇ肉初めて食ったよ。お前にも食わせてやりたかったぜ」
気持ちだけで十分さ。代わりに僕はね、彼女から高級潤滑油をもらったんだ。おかげで最近は足回りの駆動がスムーズだよ。
そんな会話を延々と続けた目的地への道のりは、だいたい三時間半といったところだった。沢のひんやりと冷えた手に抱えられながら、二人揃って窓からの景色を眺めた。都心のビル郡がみるみるうちに田んぼになって草原になり、緑の木々と山々が視界を埋め尽くすまでのめまぐるしい変化は、それらを初めて見る僕にとってとても興味深いものだった。何事も、いくら伝聞や映像で知っていても、直にこのレンズやディテクタを通して得る体験には到底及ばないものなのだ。異郷の地で駅から降りたとき、体内に取り込んだ空気の感触がいつもと大きく違ったことは、僕にとっては非常に難解かつ甘美な疑問として長く残ることだろう。
沢はそれから、僕をリュックへ詰めると慣れた足取りで駅構内を歩き、様々なバスが停まる大きなターミナルへと足を進めた。どうやらここから目的地の温泉街まで直接行けるらしい。集まる人々の中には大きな鞄を持っている人も結構いて、会社の出張かはたまた旅行か、そんな想像をすることもできた。
沢がバス停の前で立ち止まってスマホを眺めていると、不意に横から声が掛けられる。
「遅いじゃない。時間ギリギリよ」
沢がその声の主を認めたとき、スマホへと向けていた表情は一瞬だけ驚愕に変わり、そしてすぐに、嫌悪を含んだ納得へと移り変わった。やがて彼は叫ぶ。
「お前も一緒なのかよ!」
揺れるバスの中で白坂が言った。
「え、あのバス停に集合して行くって、知らなかったの?」
対して沢が言い返す。
「そりゃ知らねぇよ。だいいち、学会に行くのは俺一人だと思ってたし、お前もなんにも言ってこねぇんだもん」
「だって、梅田先生があなたにも伝えておくっていうから。元々は梅田先生が言ったのよ、あの駅のバスターミナルで落ち合って、二人で行くのがいいだろうって。あと、お前じゃないって何度も言わせないで」
「あー、はいはい。つーかあの女……どこまでテキトーなんだ。待ち合わせの話なんて一切聞いてないし、そもそも俺は学会のパンフレット渡されただけで、説明らしい説明は何もされてないんだぞ」
それを聞いた白坂はこめかみに手を当ててうなだれる。「そっちのグループって、そんな雑な情報共有でどうやって回ってるの……河村先輩も昼間に研究室にいた試しがないし」という感想は至極もっともなはずだが、しかし僕や沢にとっては今更だ。
「だいたいよぉ。学会ってーのは、成果の出てるやつの行くところだろー?」
「当たり前じゃない。だから私は、あなたも行くって聞いたときは、すごく驚いたわよ」
「んだとてめっ……」
嫌味を嫌味で即座に返された沢は顔を歪ませ、白坂を睨む。けれども白坂はそんな視線など意に介した様子もなく、呆れた表情で前を向いて座っていた。
揺れる座席。二人は隣同士。中央に開いた絶妙な隙間が、二人の心の溝そのもの。僕は身を縮める想いで居心地の悪い空気に耐える。
険悪な沈黙の中では予想通り、沢がリュックの口を開けて僕に話しかけてきた。
「シータお前、こいつが来ること知ってたか?」
まあ、僕は知っていたよ。白坂ともこの学会の話は、ときどきしていたからね。
すると白坂は、その様子を見て目を丸くする。
「ちょっとあなた、その子、連れて来ちゃったの!?」
「んだよ、いいだろー別に。シータにはシータの仕事があんだよ」
白坂はまたしても顔を手で覆ってうなだれたが、もう何も言わなかった。
二人はそれ以降、一度も言葉を交わさなかった。目的地へ向かって曲がりくねった峠を右へ左へ進むバスの中、なんでもないような顔をしながらも自分の肩肘がわずかでも相手に触れることのないよう、互いに細心の注意を払っているように、僕には見えた。
やがて山々の間から現れた風光明媚な街並みが車窓に映る。僕はその素晴らしさに思わずシグナルランプを赤から黄色、緑、青とグラデーションで変化させて感情の昂りを表現した。
学会の会場となるのは、その街の中心から少し離れた位置に構えるホテルのホールだった。既に数多くの人が集まっている。若い学生から年配の教授たち、その他にも企業の研究者など、参加者は学術機関の出身者だけに留まらない。
身なりに関しても、サンダルやTシャツのようなラフな私服から、キッチリとしたスーツを着こなす者まで様々で、ドレスコードというものはほぼないに等しい。こうした雰囲気は研究分野が違えば大きく変わることもあるし、個人の感覚にも左右される。実際、会場では、更衣室でスーツに着替えた白坂と、観光客のような私服しか持ち合わせていない沢の間で、互いの感性に文句を飛ばし合うという小競り合いもあった。
曰く「研究成果を発表する場でそんな格好ってどういうことよ!」
曰く「学術を研鑽する場に服装なんか関係ねーだろ!」
二人はより険悪なムードを構築しながら受付を済ませる。出身大学を告げて参加証を受け取り、午前の講演を聞くために講堂内の席に着いた。
学会では主に、博士課程の学生から教授まで、直近の研究で進展のあった者が、その内容を報告する。講演中、沢は興味の有無が激しく、目を輝かせていることもあればうたた寝していたこともあったが、一方の白坂は始終一定のペースでメモを取りながら聞いていた。
そして二人の本番は午後からだ。今回二人が登録しているのは、ポスター発表の部門である。ポスターというのはA0の紙一枚に、自分の研究についての導入から実験内容、結果と結論までをまとめたものだ。それを壁や衝立に貼ってブースのように構え、尋ねてきた参加者に説明する。参加者の中のお偉い教授や来賓たちは、こうしたポスターを評価する仕事も兼ねており、出来が良ければ賞を授与されることもある。若い学生たちは、まずはこういった簡易な発表の部門から学会に参加し、その雰囲気に慣れ、他分野の知識を得ていくのだ。
ポスターの見学はどのタイミングでもできるため、会場は常に、雑然とした空気になりがちだ。僕もその空気に紛れて徘徊し、沢に言われた通りに会場内を撮影して回った。
そんなことをしていれば、当然、僕に気付く人も大勢いた。でも、きっと何かのデモンストレーションとでも思ったのだろう、不審がる人は一人もいなかった。
一通り探検して満足したので、僕は沢のところへ戻ることにする。参加者には外国人も多くいるので、英語の説明を要求されてあたふたしている姿でも眺めてやろう、なんて考えていた。
しかし期待外れなことに、沢のブースにいたのは日本人だ。まあ、あまりに閑古鳥が鳴いているのも心配になるので、それはそれでいいということにしておこう。二人は楽しそうに話をしている。その場を自然と盛り上げる沢のコミュニケーション能力だけはさすがと言わざるを得ない。どうやらどこかの企業の人のようで、その会話には聞き慣れた名前も登場していた。
「そうか、君は蓮川先生のところの」
「はい、そうなんですよ。まあまあ楽しくやらせてもらってます」
沢がそう答えると、正面に立つ恰幅の良い男性は、その口髭を震わせながらガハハと笑う。
「えっと……保志さん? は、蓮川先生と面識があるんですね」
「ああ、その通りだ。何を隠そう、私が蓮川先生の一番弟子だからね」
「へぇー、そうなんすか! 蓮川先生って、やっぱりすごい人なんですか?」
「もちろんだとも! 過去の業績は言わずもがな、この分野では相当な権威となって久しいね。君もここへ来ているくらいなら、先生の書いた論文を、いくつか読んだことがあるだろう?」
「ありますあります。確かに、名前は色んなところで見ますね。実は、蓮川先生ってあんまり研究室にいないんで、喋ったことは、ちょっとしかないんですけど」
「はっはっは。昔から放任主義ではあったが……まあしかし、今は純粋に忙しいのだろう。様々な役職を歴任しているから」
保志という男は、かつての師の活躍を、まるで自分のことのように喜び語った。その様子からは、彼が蓮川のことを心から尊敬してるのだと伺える。保志は蓮川の偉業について一通り話すと、髭に覆われた顎を撫でながら沢に尋ねた。
「とすると、今、君を実際に指導しているのは……伏屋くんかな?」
「いえ、俺は、伏屋先生とは別のグループで、俺が教えてもらってるのは、梅田って言う……」
「おぉ、おぉ、亜紀くんか。そうかそうか。いやあ、彼女は相当なやり手だ。では君も、なかなかに大変だろう」
「え、ええ、まあ……色々と……」
思わず目線を逸らした沢の笑顔は、このとき若干、歪んでいた。沢の脳裏には今、研究に関することも、そうでないことも、いっぱいいっぱい、いっぱい浮かんでいることだろう。僕はその様子を見て、心の中でクスリと笑う。
「あそこは良い研究室だと思う。君にも同じように思ってもらえると嬉しい限りだね。蓮川先生には、お身体と権力争いに十分お気をつけなさるよう、お伝え願う」
「はい。……え、権力争いってなんですか?」
「ん? まあ、あれだ。残念ながら学術界にも、派閥や徒党めいたものはあってね。どこそこが主催の学会には出ないとか、今のあの雑誌の論文審査員はどいつだから出しても通らないとか……ああ、いや、こんな話は君に聞かせるようなものじゃあないな。とにかく、蓮川先生はああいった性格だし、良くも悪くも優秀だから、敵もいる」
「敵……ですか」
「そう、乱暴に言ってしまえばね。そういった些事に絡め取られて、あの人の研究が滞ってしまうのは、ひいては人類の損失と言えるのだよ」
「人類っすか……なんか、壮大な話っすね」
保志から飛び出た言葉の大きさに、沢はポカンと口を開ける。しかしそれでも、保志はあくまで真面目な表情で沢に応えた。
「何を言っている。今や君も、その一端を担っているのだ。君の仕事がいつか、人類を救うかもしれないぞ」
「え、俺?」
「そうだ。どんな研究にも貴賎はない。一大プロジェクトも学生の卒業研究も、その秘めたる可能性の大小は誰にも測れない。だからこそ、これから君が知ること、追い求めること、広めること、役立てること……その全てに覚悟と責任と、そして楽しさがあるんだ」
「覚悟と責任と……楽しさ……」
沢は呟く。目の前の保志の口調に感化されたのか、珍しく真剣に。
すると保志は思わず「あっ」と口ずさみ、大仰な仕草で右手を自身の頭に回して小突いた。
「いや、いかんな。どうも最近、説教臭くなってしまって」
「いえ、そんなことは」
「長く居座って申し訳ない。そろそろ私は行くとしよう」
そう言いながら居住まいを正した保志は、そそくさと踵を返して背を向けた。
「では沢くん。人類の未来のために、是非、研究に励んでくれたまえ」
大きな破顔とともにかけられた保志の言葉に、沢の背筋が少しだけ伸びる。
陽が落ちて学会の時間が終わると、会場はそのままレセプションパーティーへと移行した。だいたいの学会にはこうした催しがつきもので、地元である主催側が準備をし、年度が変わり加わった新人や、遠方から来た参加者を労う意図が込められている。
ホールを開放的に用いての立食形式。眺めの良い窓際などに椅子が並べて設けられ、白いクロスのかかったテーブルには、豪勢な食事や華やかな花木が飾られている。
僕は最初、人目を気にしながら会場の隅の方を動いていたけれども、案外皆、料理や会話に夢中で僕のことなど気にしない。酒が入って酔っ払った人に踏み潰されないよう、それだけに配慮すれば問題ないと学習した。
各々が思い思いに人の輪を作っている。旧友や旧師と昔話に花を咲かせている人たち。研究内容について、学会中とはまた違うざっくばらんな意見を交わしている人たち。初対面同士でこれから親交を深めようとしている人たち。あちこちで様々な会話が飛び交って、さすがの僕の高性能な音声処理システムでも、その全てを解析することは難しい。それくらい賑やかだ。
しばらく動き回っていると沢を見つけた。早速、地元の大学出身で固まっている四、五人の会話に突撃している。明らかに初対面であるはずなのに、昔からの知り合いかのように軽々と話しかけ、あっという間にその輪に潜り込んでしまう。見れば、少しばかり顔が赤い。右手には飲みかけのワイングラス、左手には皿いっぱいの料理を持って、大口で笑い、飛び跳ね、おどけて、次々と話し場所を変えてゆく。様々に人の島を渡り歩き、果ては年配の教授陣が集まるところにまで挨拶に回る姿は、ある意味、楽しさに対してひたすら貪欲で彼らしいと思った。
一方、賑やかなホール中央から少し外れると、夜の温泉街を見下ろせる窓際に白坂がちょこんと座っていた。レセプションに際し私服に着替えて来た人も多いというのに、彼女はいまだにスーツ姿で、膝を揃えて背筋を伸ばし、両手で小さなグラスを持って外を見ている。室内にはほとんど目を向けず、大きな窓に映る街の光が瞬くのに合わせて、そのグラスを一定のリズムで口へと運ぶ。まるでそうしていることが、自身の使命であるかのように。
僕はとりあえず、綺麗に揃った彼女の足の隣に停止した。きっと彼女は、僕に気づいたことだろう。けれども彼女が人前で僕に話しかけることはない。しばらく無言の時間が過ぎ、仕方がないので僕はまた、会場の様子を記録するためにその場を去った。
そんな調子で、パーティーは二時間ほど続いた。特に締めの言葉があるわけでもなく、皆、その場の流れでパラパラと会場から消えていき、ようやく御開きという雰囲気になっていた。料理もあらかた食べ尽くされ、隅の方に配置された椅子から順に少しずつ片付けられている。
「駅までお越しの方、次が最終バスになりまーす。あと十分で出発しまーす」
マイクを使った音声が会場に流れる。
ちょうどそのとき、ずっと姿を見ていなかった沢が僕の前に現れて腰を落とした。
「お、いたいた。シータ、お役目ご苦労さん」
いいえ、それほどでも。
「バスで駅まで行こうと思うんだ。その方が便利そうだし。行こうぜ、シータ」
ああ……えっと……。
沢が僕へと手を伸ばす。けれども瞬間、僕はその手をかいくぐってかわし、駆動し始めた。
「あれ? おい……シータぁ」
沢は不思議そうに僕を見送りながら立ち上がったが、すぐに僕の意図を理解したようだ。僕が停止した窓際では、白坂が苦しそうに椅子に右手を添えて俯いていた。
「お前……何してんだよ」
たぶん、酔い潰れてる。
白坂は沢に気づいただろうか。しかしどちらにせよ、見上げることも難しいほど気分が優れないらしい。
「……ん……ぅ……」
「もしかして、ずっとここで飲んでたのか? ってうわ、お前、これ焼酎じゃん」
沢は、白坂の左手が辛うじて保持しているグラスを取り上げると、その匂いに顔を顰めた。
「まさか、一人で黙々とこれ飲んでた?」
一応、意識ははっきりしているらしく、白坂は、ゆっくりと首を横に振ることで否定を返す。
「んじゃ、誰かに飲まされたのか?」
白坂はまた首を横に振る。
「はぁ? ……じゃあ、何だよ。一人で飲んでたけど、ずっとこれを飲んでたわけじゃない、とかか?」
すると白坂は、しばらくの間、動きを見せずに固まっていたが、やがて緩慢な仕草で頷いた。
それを目にした沢は、呆れたとでも言いたげに小さな溜息を零す。
「えっと……つまり、なんだ。一人で誰かと喋るわけでもなく、たただひたすら、会場にあるいろんな酒飲んでたのか。始まってからさっきまで? そりゃ潰れるわお前……」
「うっ……ん……」
沢の憶測は概ね当たりだろう。高性能なカメラを持つ僕にだけはわかるが、白坂のグラスには、直前に飲んだ焼酎だけでなくワインやウイスキーなど様々な液体の痕跡がわずかにある。
白坂は反論しようとしたのだろうか。それとも何か、別のことを言おうとしたのか。けれども結局は言葉にならない。少し待っても反応がないとわかると、沢は「まあ、そんな調子じゃあ喋れねーか」と呟いて白坂の横に屈んだ。
「俺、バス乗るけど、どうする? 俺は初めから駅前でビジネスホテルにでも泊まろうと思ってたし、そもそもこの辺りに宿とか取ってないんだけど……いや、よく考えたら俺、お前の宿泊先も知らねぇし、担いでバスに乗せるわけにも……」
あ、その件なんだけど、沢……。
僕が沢の足を小突いて知らせようとした直後、ホテルマンの張った声が会場に通った。
「乗られる方、もういませんねー。では、バス出まーす」
「……え?」
結局、バスには乗れなかった。閉まる会場にそのまま残るわけにもいかず、それから二人と僕はホテルを出た。動けない白坂に沢が肩を貸し、クロークに立ち寄って二人分の荷物を受け取り外へ。時間も時間だし、温泉街というのはそもそも夜遅くまで騒がしい場所でもない。通りに明かりは灯されていても、辺りは既に静まりつつあった。
「ったくよ。上手な酒の飲み方も、大人には必要なスキルじゃねぇのかよ!」
沢は今、白坂を背負って歩いている。相手に捕まる力がないときのおんぶというものは結構な重労働だ。さらにお腹側には沢自身のリュック、右手は白坂のキャリーバッグを引いている。
「お前、いつも自分は大人だって言ってるじゃねーか。二十歳越えたら、もう十分大人なんだろ。なんであんな、飲み会ってほどでもない、緩いパーティーで、潰れてん、だよ!」
口うるさく小言を言うもののだんだんと息が切れている。僕は申し訳ない気持ちになりながらも、そんな沢の横を並走することしかできない。ああ、申し訳ない。申し訳ない。
「大学四年、にもなって、酒が初めて、なんてことは、ねーだろ。研究室の飲み会、だって、あったじゃねぇか」
たぶん僕が思うに、研究室の集まりでは近くに座った人が話しかけたり、白坂のペースをセーブしていたに違いない。少なくとも、こんな状態になる前には誰かが止めたと思う。
「……わ、たし……は……」
「反論はいいよ。俺は今、お前が喋れ、ないのに、乗じて、文句を言ってんの。黙って聞いとけ……っくあー、つか、ちょっと休憩!」
沢はそこまでを吐き切るように言うと、川に架かる橋の前にあった石造りのベンチに腰掛けた。口は荒いものの白坂を優しく隣に横たえて、それから自分の荷物も放り出して息を整える。
「いや、暑っつ。さすが夏真っ盛り。んでお前さ、宿は予約してんの? この辺の宿なんて今から飛び入りしたって絶対どこも空いてないだろうし、駅に行くならタクシー呼ぶしかないし」
「……ふ、う、さい……そう」
「フーサイソウ? なんだそれ」
沢はそこからしばらく待ったが、返事がないとわかるとポケットからスマホを取り出した。
「はあ……まあ、ちょっと検索してみるか……あ、電池少ねぇわ。シータ、やばくなったら分けてくれな」
な……まさか君、僕の生命力を吸い出すつもりか!
「だって背に腹は代えられないしな。現代人にとってスマホの電池切れイコール死、だしさ」
充電が切れたら動けなくなるのは僕も同じなんだぞ!
しかし憎たらしくも沢は、そんな僕の抗議など聞こえないかのような顔でスマホの画面を見続けた。ややあってその表情が変わる。どうやら成果があったらしい。
「お、あったあった、『風彩荘―華―』。この辺にある旅館の名前か。場所は、えっと……川沿いを上って途中で横に逸れて……そこからちょっと離れたくらいか。うわ、結構高い宿だぞ、ここ。さすがお嬢、いいとことるねぇ」
本当だ。街の中心からは適度な距離、少し入り組んだ道ゆえに静かな宿で、山の傾斜の中腹にあるため眺めも良い、か。佇まいや立地、宿泊費も含めて文句なしの高級旅館だ。
「んじゃ、とりあえずそこまで白坂届けるかー。悪いがシータはまた自分でついてきてくれな」
いぇっさー。君が僕の電力を奪わないうちはね。
それから沢はまた歩き始めた。白坂を背負って、彼にしては珍しく黙々と。
さすがの沢も、無駄に喋れば体力を使うだけだと学んだようだ。彼の身体にだってそれなりにアルコールは回っているはずだし、この暑さでの疲労もあるだろう。坂道を上っていく足取りは、正直に言えば僕の方が早いくらいだ。
聞こえるのは彼の少し荒い息遣いと、地を踏みしめる音。僕の移動に伴う駆動音は非常に微小で、引かれるキャリーバッグのガラガラに上手く紛れている。時折吹き抜ける風に揺れる柳の葉は、ゆっくりと進む僕らを包み込むように淡く鳴る。並ぶ宿先や道には最低限の光だけが灯されていて、足元は見えても向かう先は照らされない。暗く静かな空間は、まるで知らないうちに僕らを別世界にでも迷いこませたかと疑いたくもなったが、しかしどこからともなく響いてくる幽かな下駄の音が、そんな感覚を鎮めてくれた。
ここは夜でも蒸し暑い。沢の額からは玉のような汗が浮かんでは流れ落ちる。片目を瞑って歩いているのは、その汗が目に入らないようにしているのか。あるいは今になってようやく、身体に充満していたアルコールから痛みだけが濾過されて頭の中に残っているのか。背負われている白坂の髪もよく見れば汗に濡れていて、その雫はたびたび流れて沢の首筋に落ちていく。
そうして歩いたのは二、三十分くらいだったはずだ。体感では二倍か三倍はかかったような気もしたが、とにかく僕らは目的の宿にたどり着いた。
幽玄な門構えに立派なエントランス。想像通りの良い宿だ。夜ももう結構遅いが、それでも予約客のチェックインがまだだからか、フロントでは着物の女性が一人、受付をしていた。
沢は透明な自動扉をくぐるなり、真っ先にそこへ向かって歩き、言った。
「すみません。今夜、ここに予約してるはずなんですけど」
女性は一瞬、わずかに驚いたけれども、すぐに手元のノートパソコンを確かめて答えた。
「一名様でご予約の、白坂様ですね?」
「こいつがそうです。申し訳ないんですが、部屋の案内と荷物、お願いしてもいいですか」
すると女性は、フロントから出てきて沢の手からキャリーバッグを受け取った。
「ほら白坂、着いたぞ」
沢は背中に向かって声をかけながら白坂を下ろす。
彼女はまだ幾分か辛そうな顔をしていたが、それでもなんとか座り込まずに両足で立った。
沢はそれを見届けると、自身のリュックを背負い直し「んじゃな。まあ、せめてスーツは着替えてから寝ろよ」と残して出口へと向かおうとした。
けれどそのとき、沢の身体は後ろへ引っ張られる。白坂が沢のTシャツの裾を掴んだからだ。
「んあ。おいなんだよ」
「……まっ……あな、た……も……」
「……え、俺が何? わりーけど俺、もう結構疲れたから、早いとこ宿探して寝てーんだけど」
沢の言葉に、白坂は裾を掴んだまま首をふるふると力なく横に振る。
「なんだよ……礼か文句ならまた今度聞くよ。それでいいだろ」
それでも白坂は、依然としてただ首を振るだけだった。言いたいことはあるようだが、言葉を発する余裕は、まだないのだろう。そんな白坂を前に、沢も困ってしまったようだ。フロントを前にして二人、極めて微妙な膠着状態となる。数十秒ほどの沈黙を経て、しかし白坂の意図をいち早く察したのは、部屋への案内をしようと様子を伺っていた女性だった。
「あの……もともと二人部屋ですので、こちらへどうぞ」
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