第26話

翌朝小夜子が目覚めたのは、街の小さな病院のベッドでした。

何故こんな場所に居るのか、どのようにして此処まで来たのか、思い出そうにも思い出せません。

頭の中にもやがかかっているように記憶が断片的なのです。


とりあえず上半身を起こして周囲を見回してみるものの、何をどうしていいのかさっぱり判りません。


混乱が解けぬままでしたが、暫くして医師や警察が部屋に来たところで「とりあえず普通ではない」とだけは掴めました。


医師はともかく警察までお出ましなので少々ビビりましたが、彼らと話をして漸く事態が掴めました。簡単に纏めるとこうです。


昨日街の若者が「バンパイア退治に行く」などと言って町はずれの古城まで出向いた。ところが夜になっても帰宅しない為、家族や知り合いが警察に連絡した。

とりあえず目的地は判っているので警察が古城内へ捜索に行くと、三人の男と一人のアジア人少女が全員気を失って倒れていた……との事です。


事情は判りませんが何かの事件だと思った警察は、一先ず全員を病院に輸送し、意識を取り戻した者から事情を聴いているようです。


無論、小夜子も訊かれました。あそこで何があったのか?あそこで何をしていたのか?あの男達との関係性は?等々……。


更に警察は小夜子の荷物を押収していたので、ますます根掘り葉掘り事情を訊かれてしまいました。


同様にあの男達も事情聴取されたようですが、三人とも口を揃えて「バンパイアに襲われた」などとふざけた事ばかり言うので話にならないと。


小夜子は考えました。

昨日伯爵はどうにか力を振り絞って男達を撃退しようとしたのです。そして小夜子との約束通り、暴力を振るわないという条件であの場所に居た人間全員を催眠術で眠らせたのです。

その後男達が気を失っているうちに、伯爵はどこかへトンズラこいたのです。


その証拠に、あの古城で発見されたのは小夜子と三人の男達だけです。伯爵の姿を見た者は居ません。

あの野郎、男達を撃退するのは構いませんが小夜子まで巻き添えです。やりやがって。


そんな感じで、小夜子への事情聴取は暫く続きました。もしかして、あの古城に若者達が集って麻薬パーティーでもしていたんじゃないのか?なんて失礼な疑いまでかけられました。


特にあの古城で生活していたという点を、嫌と言う程尋問されました。なんせ不法侵入罪になりますから、これでもかとこってり絞られたのは言うまでもありません。


結局小夜子は、外国人で事情がよく判らなかった事(という風に誤魔化した)と、古城見学をしたのはいいが帰り道が判らなくなってしまい仕方なく古城で寝泊まりした事(と、やっぱり誤魔化した)と、まだ未成年である事からどうにか大目に見て貰い釈放されたのでした。


肝心の古城内で全員失神事件については、当人の言動が曖昧であり事件性も薄い事から、「なんだかよく判らないけど恐らく集団ヒステリー的な不思議な現象」として片付けられたのでした。

いい加減なものです。


さて、すっかりバツの悪い立場になった小夜子は、とうとう日本に帰らなくてはならなくなりました。最も期限が迫る以前に、こんな状況では観光だってできやしません。


小夜子の心残りはただ一つ、伯爵です。


彼は一体何処へ行ってしまったのでしょう。

お別れの挨拶すらしていません。

このまま何も告げず日本へ帰るなんて、そんなの絶対に嫌です。だからと言って、今更何処へ行けば彼に会えるのでしょうか?


こうして考えている間にも、帰国への期限は着々と迫ってきています。いてもたっても居られず、小夜子は一人、あの古城へと歩き出したのでした。


鬱蒼とした森を抜け、古城へと辿り着きます。不審な事件があった後にしては人気が無く、中にもすんなりと入れました。


しかし伯爵の姿は何処にもありません。名前を呼んでも反応なし。

どうやらもうこの場所には居ないようです。となると、一体何処へ……?


小夜子は城を出ました。そしてひたすら歩きました。

方向感覚が強いとは言えません。そもそも自分の足で歩いて行った訳ではないので、その方向が正しいかすらも判りません。


それでも記憶を辿って、歩いて歩いて、爪先から血が滲む程に、ただ黙々と歩き続けました。


どれくらい歩いたでしょうか。足の疲れもそろそろ限界です。

すっかり日も傾き、オレンジ色の空には夕焼雲が浮かんでいます。


陰りを増していく空模様と疲労で、小夜子は心が折れる寸前です。じんじんと痛む足を引きずりながら、深い森を抜けました。


そこは、何時だったか伯爵と来た、あの野薔薇の丘でした。

あの夜と変わらず、丘の上には沢山の野薔薇が咲き乱れています。


小夜子は丘を登りました。そして自分以外誰一人居ない周りを見回して、何かが途切れたようにがっくりと膝をつきました。


気が付くと小夜子はポロポロと泣いていました。

足が痛いからではありません。ただ悲しくなって、ワンワンと声を上げて泣きじゃくりました。


薄暗い丘に泣き声だけが響きます。


もうじき日が暮れます。オレンジ色の景色は徐々に夜のヴェールを纏いはじめました。


日が落ちてもなおしゃがみ込んで泣き続けます。


こんなにも自分は泣けるのかと、不思議に思いました。

友達が居なくても、悪口を言われても平気だったのに。


「伯爵様……」


嗚咽のように声を漏らした、その時です。

小夜子の髪をそっと撫でる掌を感じました。


小夜子は驚いて顔を上げました。


そこに居たのは伯爵でした。伯爵が目の前に居るのです。

そして、小夜子の髪を優しく撫でているのです。


「伯爵様……」


伯爵は何も言わずに微笑んでいます。


「伯爵様!」


小夜子は満面の笑みを浮かべて伯爵に飛びつきました。


「伯爵様!一体何処へ行っていたのですか!何も言わずに居なくなってしまうなんて酷いじゃないですか!」


「すまない、私も辛かったのだ。君と、小夜子と別れるのが……」


伯爵の両腕が小夜子を力強く抱き締めます。


「君との別れに対面するのなら、いっそその前に立ち去った方が幾らか楽だと思ったのだ」


「だから昨日私を気絶させたのですね……」


「乱暴にしてすまない。あれから私は城を飛び出し、何処か安息の地をと求めていた。そして気が付いたらこの丘へと来ていたのだ」


まだ涙が乾いていない小夜子の顔が微笑みます。


「私も此処へ来れば伯爵様にお会いできると思いまして」


すっかり日が暮れた丘の上には、あの夜と同じように月が輝いています。

柔らかい月明かりが、小夜子と伯爵を優しく包み込みます。


「君は……やはり日本へと帰るのだろう?」


小夜子は一瞬俯きました。


「ええ、帰ります」


「仕方のない事だ。君には帰るべき場所がある」


「伯爵様はどうなさるのですか?」


「あの城にはもう住めないだろう。何処か別の場所を探す」


「野良バンパイアなんて可笑しいわね」


二人は目を合わせて笑います。


「私は君を失うのが怖かった。やっと手に入れた安息、君と過ごせる幸福を。しかし昨日の事で気付いた。君はあんなにも全力で私の身を守ろうとした。その想いは、例え小夜子がこの地を離れても、私の心に残り続けるだろう」


「伯爵様……」


「私はこの場所であの月を眺めよう。君も日本の空を見上げて同じ月を眺める。私達は同じ空の下で繋がっている筈だ」


最後の最後まで、カッコつけです。でもそんなキザな台詞も、これで最後だと思うとちょっとだけ寂しくなります。


「今の私はとても満たされているのだよ。小夜子、君の想いがあるのなら、私はもう血を欲しない。君への想いが、我が身を満たしてくれる筈だ」


月明かりに照らされた伯爵の姿は、いつもの老いぼれバンパイアよりほんの少しだけカッコよく見えました。

小夜子はすっと右手を差し出しました。


「私、貴方にお会いできてよかった」


「私もだよ」


伯爵は小夜子の手を取り、手の甲にキスをしました。


「私は少しだけ眠りに就こう。心配するのではない、少し疲れただけだ。次に目覚めたら……次に目覚めたらまた君に会えるだろうか」


小夜子は伯爵の手を強く握りしめ、そしてにっこり微笑んで言いました。


「またお会いしましょう」


伯爵も微笑みます。


「小夜子、また会おう」


最後の握手を交わした後、伯爵の姿は徐々に薄くなり、月夜の丘に消えてしまいました。


いよいよ明日はルーマニア最後の日。小夜子は日本へと帰るのです。

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