第19話

不思議な月夜のデートを終えた頃には、すっかり深夜を回っていました。良い子はお休みの時間です。


「伯爵様、とても素敵なところへ連れて行ってくれて、有難う御座います」


「構わん、ただの気紛れだ」


伯爵ったらいい歳して(いい歳ってレベルも越しているような気がしますが)、少年のような照れ顔を見せているようです。

コイツ、結構可愛いじゃん。小夜子はそう思いながら仄かに赤く染まった伯爵の頬を眺めていました。


「小夜子よ、一つ訊いていいか?君は……誰かに恋慕した事はあるのだろうか?」


「ありません。私誰かを好きになる程弱い人間ではありませんので」


小夜子はキッパリと吐き捨てました。


「ほう、恋愛に勤しむ人間は弱いとな?確か先程君は弱い女でありたいと言っていたようだが」


「本当に弱い人間は求めていません。心は強くても、それを露わにせず、わざとか弱いふりをする女の子の方が可愛いでしょってだけ。私は心の底まで弱い人間じゃないの。だから恋愛なんて傷の舐め合いはしないの」


伯爵は小夜子独自の恋愛観に、ただ黙って耳を傾けていました。彼女はどこまでも意志を持ち、それを曲げずに生きている事が判ります。


「折角だから一つ教えてあげる。恋愛って一番厄介な病気なのよ。特効薬のない心の病気。恋愛をする人は、本気で相手を好きになるんじゃないわ。ただ一人で寂しい心を誰かに埋めて貰いたいだけ。そうしてお互いの利害が一致した者同士、惨めに寄り添ってお互いを慰め合うの。そうすれば一時的に寂しさを紛らわせるから。恋愛って人生を楽にする麻酔みたいなものかもね」


人生を楽しむ事と楽に過ごす事は別物です。確かに誰かに縋り、頼り、人の手に身を委ね恋愛を楽しむ者が、必ずしも強い心を持っているとは言えません。


そう言った類の者は皆、他者を愛する心よりも愛されたい心が強いのです。


誰かに愛され、必要とされている。そう自覚した段階で、人は生きる勇気を見出します。


しかしそれは、自らが生み出した勇気ではありません。他者の評価により自己を保っているだけです。


成程小夜子の言う事はどこまでも面白い。そう考えながら、伯爵は小夜子の話を聞いていました。


「そんな事より伯爵様、一つ言いたい事があるのですけど……」


「なんだ?遠慮せずに言うがよい」


「さっき私の事小夜子って呼んでくださいましたね。今までは君、とか娘、とか名前を呼んでくれなかったのに」


伯爵はどこか慌てた様子で答えます。


「別に深い理由などない!ただ、君にも一応名前があるようだから、何時までも名無しの扱いでは悪いと思っただけだ」


小夜子は子兎みたいにピョンピョンと跳ねながら、伯爵の周りを纏わりついています。


「ふふふ、伯爵様~。私のお名前呼んでくださったのね、嬉しい」


「やかましい!くだらぬ事でいちいち喜びおって……。もうじき夜が明ける。早く眠りにつきたまえ」


「はーい」


小夜子はいそいそと部屋に戻りお気に入りのナイティに着替えた後も、まだニマニマ笑いが収まらず、そのままベッドの中に潜り込むのでした。


翌朝、小夜子は極上な目覚めを迎えられませんでした。何故なら本来柔らかな布団に包まれているだけの筈が、どうしてかずっしりとした重圧感に襲われて目が覚めたからです。


目覚めると同時に、小夜子は二つの驚きを感じました。


一つは目を開けてすぐ目の前に伯爵の顔があったという事。そしてもう一つは、そのような光景を目にするのは、伯爵が小夜子のベッドに乗りかかっていたからという事です。


あ、どうしましょ。これって何時だったかしら、その、興味本位で読んだ少しイヤラシイ小説の、女性の寝こみを襲うそれに凄くよく似た体勢なのです。


とんでもない寝起きドッキリを仕掛けられた気分ですが、とりあえずこの状況をしかと確認せねばなりません。


「伯爵様、お早う御座います。あのー、これは一体どういった状況でしょうか?」


伯爵は虚ろな目のまま答えません。


「伯爵様!確かに私達かなり蜜月と言うか相当マブダチみたいな関係にはなってきたと思いますけど!私まだ純潔を捧げる気は御座いませんの!」


大きな声を出したにもかかわらず、伯爵は眉一つ動かさないままです。


伯爵の瞳が充血しています。


爛々とした瞳は焦点が合わず、どこを見ているのかすら判りません。


だらしなく開いた口から、鋭い牙が覗きます。


伯爵は一言も言葉を発しないまま、小夜子の両肩に手を当てています。僅かに伯爵の手が震えているように感じます。


「伯爵様?なんとか言ってくださいまし。寝ぼけているのかしら?とにかくそこをお退きになって!いくら伯爵様でもやっていい事と悪い事が御座いましてよ!」


小夜子の言葉は一切伯爵の耳に届いていないようです。伯爵は大きく口を開けると、そのまま小夜子の首筋に噛みつきました。


小夜子の体が硬直します。


きゃっ、と小さな声を上げた時、伯爵は漸く正気に戻ったかのように、急いで小夜子の首から唇を離しました。


どうやら噛みつく素振りは見せたものの、牙はまだ小夜子の肌を貫いていなかったようです。

首筋にはうっすらと小さな歯形だけが残っています。


伯爵はそのままの体勢で小夜子を見詰めています。その顔は大変当惑している様子でした。まるで悪戯が見付かってしまった子供のように、悪びれているような、怯えているような、それでいて悲しんでいるような、そんな様子でした。


伯爵はそっと小夜子のベッドから離れます。


震えていました。頭を下げて肩を小さくした伯爵は、何時もよりずっと頼りなく見えます。


「伯爵様……。ご事情を説明してくださいまし」


小夜子の冷静な問いかけに、伯爵はポツリと口を開きました。


「恐ろしい事だ……」


たった一言、それだけを呟きます。


「私の中で恐ろしい事が起きてしまった……」


問いかけに応えるというよりは、独り言のようにブツブツと呟いています。


そのままヨロヨロと部屋を出て行きました。壁伝いに手をかける姿は、まるで病人のようです。


小夜子は自分が襲われかけた(のでしょう、多分)事より、伯爵の異常な行為と危うげな様子が気になって仕方がありません。


伯爵が出て行く後ろ姿は、とても声を掛けられる様子ではありませんでした。


それでもこのまま放っておく訳にはいかないので、とりあえず着替えと簡単な身支度を済ませて、小夜子は伯爵の部屋へと急ぎました。


「失礼致します」


伯爵は薄暗い部屋に居るようですが、気配の一つも感じられない程静まっています。


よく見るとベッドの布団が盛り上がっています。僅かながら、呼吸で布団が動いているようです。


「起きていますよね?伯爵様」


返事はありません。


「寝たふりなんてしないで。起きているんでしょう?」


小夜子は夏休みの寝坊助坊主を叩き起こす母親のように、勢いよく布団を引っぺがしました。


伯爵はじっと枕に顔を埋めたままです。


「何をしようとしたのか説明をしてください」


その言葉を聞いてか聞かずか、伯爵はまだ震えています。


「怒っている訳じゃないの。ただ何をしようとしたのか、聞きたいだけ。だから、ね。答えてくださいまし」


優しいトーンに少し安心したのか、伯爵は漸く重い口を開いてくれました。


「……私の本能が目覚めかけているようだ」


伯爵はゆるりと体を起こし、そのままベッドの縁に腰をかけます。小夜子もその隣に座りました。


「今の私は血が欠乏している。どうやらそれに耐えきれなくなったらしい。無意識のうちに新鮮な生き血を求め、体が勝手に動いてしまったのだ」


「つまり、血が欲しいから私の血を吸おうと思った、という事ですよね?」


伯爵は頷きます。


「吸ってくだされば宜しかったのに」


小夜子が明るく反応しても、伯爵の目は曇るばかりです。


「そんなつもりはなかった!君を、小夜子を襲うつもりは無かったのだ。ただ私の本能が生き血を求めるが為に、気が付くと君が眠る部屋へと足を運んでしまった。私は無防備に眠りこける君を犠牲にしようとしてしまったのだ」


伯爵は酷く自分を追いつめた顔をしています。まるで重罪を犯してしまったかのように。


しかし小夜子はそんな伯爵を不思議な顔で見詰めています。


「どうして止めてしまったのです?あのまま無理矢理に押さえつけてでも私の血を吸ってくださればよかったのに」


「君が抵抗したから我に返ったのだ」


「あれは血を吸われるとは思っていなかったからです。そうだと判っていたら、あのままこの身を捧げましたのに」


小夜子は自分の首筋に手を当てました。

今朝伯爵が付けたうっすらとした牙の痕。あとほんの少しでも伯爵の意識が戻るのが遅ければ、伯爵の牙は小夜子の薄い皮膚を貫き、真紅の鮮血が溢れ出したでしょう。


その血液は伯爵の舌根を伝い、喉へと流れ込み、彼の渇望した肉体へと染み渡るのです。

やがて血を失った小夜子は、伯爵へ御身を捧げつつ美しい姿のままでこの命を終えるのです。


それは、何時か夢見た様な残酷で美しい終焉です。


「以前にも申し上げましたけど!私伯爵様に生き血を捧げるのは何時でもOKですわよ!そんなに血が欲しいなら今此処で吸ったって構わないわ。どうして止めてしまったの?私みたいなおブスの血は吸いたくない訳?なんとか言いなさいよ」


「君の命を奪いたくない……」


「えっ?」


弱々しくか細い声でそう呟く伯爵の言葉に、小夜子は目を真ん丸にしました。


「私が君の血を吸えば、君は命を失うか我が同胞となり永遠の命を手に入れるかの選択を迫られるだろう。私はそれが嫌だった。君をそんな窮地に追い詰めたくない。私は君の命を奪いたくないのだ」


「どうして?」


小夜子は首を傾げます。訊ねる声は柔らかで、先程の問い詰める様子とは違いました。


薄紅色の唇が僅かに微笑んでいます。まるで恋人との会話を楽しむかのように、伯爵の言葉へ問い掛けます。


「判らぬ。ただ君を殺めたくない。かと言って君を魔族に引き込む真似もしたくはなかったのだ」


この告白を聞いて、小夜子はどうしてか声を出して笑ってしまいました。


「可笑しいか?」


「ええ。だって人間の血を吸って生きていらっしゃるバンパイアさんなのに人間を殺めたくないだなんて、本末転倒じゃないですか。一体どうしてしまったのです?」


「私にも判らぬのだ。今まで何人もの女を殺めてきたが、このような思いになる事は一度も無かった。どうせ一人の女を犠牲にしても、また別の女を拾ってくればいいと、そう思っていた。しかし君と生活を続けるうちに、今までとは違う思いを抱いてしまったようだ」


そこまで言うと、伯爵は黙り込んでしまいました。


「違う思いってなあに?」


そう聞いても、一向に応えてくれません。


「私は今困惑している。自分の中で、嘗て抱いた事のない得体の知れぬ感情が渦巻いているように思えるのだ。しかしそれを遮るかのように、私の本能は血を求め、騒ぎ出している。私の体の中では感情と本能がぶつかり合い、葛藤しているように感じるのだ」


この状況に一番困り果てているのは、紛れもなく伯爵自身です。頭を抱え、バンパイアとしての本能と突如目覚めた得体の知れぬ感情。 この二つに翻弄されながら、悩み、苦しみもがいているように感じられます。


「伯爵様それは……」


ここまで言い掛けた後、小夜子は口を噤んでしまいました。まるで本音を押し殺すように、唇をぎゅっと閉ざします。


伯爵が何故このように困惑しているのか、小夜子には判ります。しかしそれを伝えてしまえば、伯爵はますます困惑するに違いありません。


と、言うより……。


当の小夜子自身も困惑しているのです。だって、小夜子の口から伯爵にこの事実を伝える事は、とても勇気がいりこっ恥ずかしい事なのですもの。


小夜子は自称・奥床しい女の子ですから、とてもじゃないけれどこんなに恥ずかしい事実を伯爵に堂々と告げるなんて真似、出来ません。


何かに気が付いたような素振りを見せた小夜子に、伯爵はどうかしたのかと問いかけましたが、小夜子はそのまま知らん顔を続けます。多分、今の伯爵に下手な事実を伝えるよりも、そっと休ませておいた方がよさそうですから……。


「伯爵様、少しお休みになったらいかがですか?そうすれば多少は気分が落ち着くかもしれませんよ」


伯爵はちっとも眠る気じゃなさそうですが、小夜子は強引に伯爵を寝かしつけて、静かに部屋を出ました。

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