第5話
鷹松が幸内に出会ったとき、まだ本条組という組はなかった。幸内は一次団体の若頭補佐だった。それから数年し、幸内は二次団体の組を任された。幸内派の人間が軒並み本条組へと異動した。その時の若頭が松浦という男だった。
若く組に入った鷹松は松浦の下について”いろは”を習ったものだった。
体つきは鷹松よりもはるかに小さく細く、一見すれば気のいい近所のおっさんという感じだった。今でいう頭脳派やくざの走りで、本条組の土台を磐石するのに尽力した。
体を壊し組を抜けた松浦は、やがて借金を抱えその面倒を鷹松が見ている。
体力のある奴であれば日雇いでも漁船に乗せるでも回収方法はあったが、年老いた病人には回収の目処はない。取立て屋に吊られる未来しか見えず、鷹松は松浦の借金を事務所の金で返済し、他の取立て屋が手出しできないようにした。もちろん幸内の了承の上でだ。
体調のいいときは屋台を引きラーメンを売って歩くという。
小さなぼろいアパートに住み、趣味もなく、つつましい生活をしているが、借金はゆっくりと増えていった。それを鷹松は自分の懐から松浦に言わず返済していた。気づいていないとは思えないが、松浦は問うことはしなかった。ただ弟分に黙って頭を下げるだけだ。
鷹松が世話をしている松浦が住んでいるのが板橋区高島平だ。
「鷹松さん、着きましたよ」
駅の南口は巨大な団地が並びスーパーや学校などで開けて雰囲気も明るい。逆に北側は大きな建物は少なく清掃工場があったりやくざの事務所があったりして暗い雰囲気であった。
松浦が住んでいるのは北側を少しいった先にある。ぼろぼろの古いアパートで二階建て全十室部屋があった。階段はところどころ錆びており、壁は薄汚れていて汚い。松浦は一階の左側から二部屋目に住んでいた。
「ちょっと待ってろ」
鷹松はそういうと加州を置いて一人車を降りた。
「俺は着いていかないでいいんですか?」
加州が運転席のウィンドウから顔を覗かせる。
「ああ」
鷹松がうっとうしそうに手を振ると、「ッス」といいながら頭を引っ込めた。
鷹松は松浦の家の前に立ちインターフォンを押す。すると足音がしたと思ったらドアの横の窓が開いた。
「おお、若頭」
好々爺が顔を覗かせて、まばらな歯並びを見せて笑った。
「若頭はやめてくださいよ松浦さん」
「いやいや若頭は若頭。そういうのはちゃんとしないと」
組をやめた人間がちゃんとも何もないが、とは思うが、鷹松は肩をすくめただけだった。
「ちょっと待ってて」
そういうと松浦は顔をひっこめ、隣のドアが開いた。
「あがっていくだろ?」
松浦が中に向かえ入れようとしたが、鷹松は軽く頭を振った。右手を上げて自分の後ろを示す。
「今日は連れがいるんで。つい先日引き取った親父の坊ですわ」
「へえ、組長の。ソレは驚いた。姐さん一筋だと思ってたけどねえ。へえ組長が……」
「なんで、さすがに待たせないんですわ。来たばかりで申し訳ないんですがここで失礼します。せっかく久しぶりに来たっていうのにすみませんけど。体調のほうはどうです?」
「いやいや最近は体調がよくてね、だいぶ外に出られているよ」
「よかった」
鷹松はほっとした。
「それで、今月なんですけど」
「ああ、いくらか渡せそうだ。っていってもお前さんにはあぶく銭だろうけど」
ちょっと待ってろと中にひっこもうとする松浦の腕を鷹松が掴む。
「いつかまた病院にいくこともあるでしょうから、いいですよ。それよりも来月までこれで凌げますか?」
鷹松は胸ポケットにしまってあった茶封筒を取り出す。中には数万入っている。
「鷹松、おめえ……そりゃ受け取れねえよ」
松浦は呆れたような顔をして一度茶封筒を辞退する。
「いいですから、受け取ってください」
鷹松は拒む松浦の手をとって、封筒を押し付けた。松浦の手は痩せて骨と皮だけだった。体調がいいといっても常人のそれではない。本当は通院でもして健康になって欲しいが、一人の稼ぎでは金銭的に逼迫していればそれも難しい。アパートの賃料だって時折遅延するくらいだ。
「本当はもっとお渡ししたいんですが、すみません」
本当は若頭という立場であれば一人くらい十分に支えられる稼ぎはあるが、松浦は望まないだろう。ここまで堕ちたといえ、もともとは若頭を張っていた人だ。プライドもある。精神的にこの金額がぎりぎりのラインだった。
「鷹松……すまねえな」
「いいってことですよ。それよりかアニキが元気になってくれたほうがいいんで」
「お前の金でうまいもんでも食うわ」
松浦は静かに笑って茶封筒を受け取った。
「そうしてください。じゃあ今日は短くてスンマセン」
「いい。坊を待たせちゃいけねえ。早く行け」
「じゃあ。今度はお茶、いただきます」
鷹松は一礼すると踵を返した。
ぱたりとややあってから扉が閉まる音がした。
「加州、待たせたな」
敷地横に止まっていた車に乗り込むと、退屈そうにしていた加州に声をかける。
「ああ、終わりました?」
「ああ、悪かったな待たせて」
「いやいいっスよ。じゃあ次は何処いきます? まだ時間早いし」
事務所には帰らないと言付けた鷹松だったが、このあとに何か予定があったわけではない。車の時計を確認してから、「いや」と呟いた。
「初日に詰め込んでもしかたねえ。今日は早く帰って明日同じ時間にこい」
「分かったっス。とりあえず家送りますね」
「頼む」
加州はエンジンをかけ、車の左右前後を確認したあとアクセルペダルを踏んだ。
車窓の風景がゆっくりと流れていく。鷹松はウィンドウに肘を付き頬杖をついてアパートをみた。
若頭というそれなりの地位に上ってもやくざの行く末はこんなもんだ。
蝿のように汚いものを食らい、人には顔をしかめられやがてごみ溜めのようなところで死んでいく。
華やかに見えても所詮は仮初めだ。
「あー、やんなっちゃうね」
思わずそんな言葉が飛び出る。
「なんか言いました?」
「いや、なーんも単なる独り言。お前も難儀な世界に来たなあって思っただけだよ」
「なんですか、それ」
加州は笑いながら「シートベルト締めてください」と鷹松に注意した。
「今日はどこか飲みに行きます?」
「ああ、そうだな」
加州は鷹松によくなついた。時折考え方で衝突することがあるが、基本的には加州は鷹松には従った。
やくざとしての最低限の礼儀や決まりから始まり、金の回収の仕方や人の扱いなども鷹松は加州に教えていく。普通であれば自分で覚えろ、と一括するだけだがやはり加州の扱いは鷹松の中でも特別だった。
加州は加州で素直に犬のように従うから、鷹松はそのうちかわいくて仕方なくなった。昔、自分の後を付いて回った弟を思い出す。
「今日はあそこだな」
鷹松は仕事が終わると車を置き、加州を連れて自宅近くの蕎麦屋に向かった。
その蕎麦屋は老夫婦二人でやっているこぢんまりとした小さな店だ。仕事帰りのサラリーマンが、一杯ビールを飲みつまみを軽くつまむ。
だからといって蕎麦の味が悪いわけではない。昼には昼食をとりにサラリーマンが集まるし、老人たちもよく足を運ぶ。
鷹松は引き戸を開け暖簾をくぐる。
「二人」
指を二本立て、カウンター近くの女将に会釈する。
「開いている席にどうぞ」
鷹松は頷き、奥の二人席についた。
「蕎麦アレルギーじゃねえよな」
「大丈夫ですよ。好き嫌い何もない良い子なんで」
「良い子ねえ」
小さく笑ってお品書きを広げた。それを加州の前に広げる。しばらく加州は眺めていると、女将が注文をとりに来た。
「熱燗と天抜き、あと盛り蕎麦」
「じゃあ俺もそれを」
「他はいいのか? じゃあ卵焼きと生麩の田楽と、あとエイひれの炙りを」
女将が去ると加州は、パタンとお品書きを閉じ脇にたてた。
「最近どうだ?」
「最近ですか? ああ、最初に預けられた女の人、今月分支払いましたよ」
「へえ、風呂にでも?」
「いや違うっス。あとで報告出しますけど、デリヘルっス」
加州は口元に手を当て周りに聞こえないように声を潜めた。
「へえ、やるな」
たしか宇都宮は風呂に沈められればと言っていた。それはそれが難しい女だということだ。それを加州はやってのけた。風呂よりももっと難しいデリヘルを。
「どうやってやったんだ?」
宇都宮が難しいというのならそれは難しいということだ。どういう手腕をつかったのか気になるところだ。
「え? 普通に粉かけてきたから、金遣いの荒い女は嫌いだって。借金抱えてるならもってのほかって言ったらさっさと自分からやり始めましたよ。すげー馬鹿ですよね。何処の誰とも分からない奴に股を開く軽い女、気に入ると思ってるんですかね」
加州の声は冷ややかだ。
「それだけお前にご執心ってこったろ」
「鷹松さんは、そういう女でもいいって?」
「そこまでは言ってねえよ。ただてめーの面は異様に女受けがいいってこった」
「もー」
頬を膨らませながら背もたれに加州は寄りかかる。その前に頼んでいたメニューが運ばれてきた。
ほかほかと湯気の立つ茶色いスープに浮かぶ天ぷらの出汁の香りに加州の腹がなった。
「膨れてねえで食え」
鷹松は徳利をもち、お猪口に注ぎいれる。
「あ、俺が注いだのに!」
慌てて徳利に手を伸ばそうとする加州を留め、鷹松は猪口を摘んだ。
「いつも言ってるけど、そういうのめんどくさいんだよな。自分のペースで飲みてえんだ。だからお前も勝手に飲み食いしろや」
「もー。俺だってそういうのしたいのに」
「したいってなんだよ。めんどくさいだろ」
鷹松は笑ってまた猪口を傾ける。そのあとで天ぷらを箸で摘まんで口に運んだ。だしの浸ってない軽い衣の食感が歯に軽く、続いて衣が吸った出汁がじわりと舌の上に広がる。天ぷら油に入っているゴマ油の香りが鼻から抜けていく。
仕事の後のてんぷらは異様にうまい。
鷹松は満足げに目を細めた。
「天抜きって天ぷら抜いてるのかと思ってた」
割り箸をわって、加州はふわふわとした卵焼きに箸をつける。
「それじゃあ掛け蕎麦だろ」
おかしそうに笑う鷹松の目じりは早くも酒で淡く桃色に染まっている。
「それもそうか」
加州もお猪口に酒を注ぎいれ口をつけた。瞬間小さく咳き込む。暖められた酒気が一気に鼻の穴に上ったらしい。鼻をすすりながらそれでも加州は酒に果敢にトライする。
「別に無理に熱燗にしなくてもいいんだぞ」
鷹松は頬杖を付きながら加州の徳利を手元に引き寄せる。
「初めてだからびっくりしちゃっただけっスよ。今度は平気。せっかくなら鷹松さんがうまいってモノを同じように食べたいじゃないですか」
そういって加州はエイひれをかじる。
「お前と俺じゃ酒の強さも違うし、慣れも違う。育った環境も違うし、俺がうまいものがお前のうまいものとは限らない。俺はそばはつけ汁にどっぷり浸けたいが、通はちょっとしかつけないか、塩で食う。どれも食べる人間にとってはうまい」
「俺は、アニキがいないから真似したいんですよ」
「へえ。そこまでに熱烈だとちょっとびっくりだな」
鷹松は少し驚いた様子を見せ、加州は「引かないでくださいよ」と突っ込んで笑った。
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