旅人と狂狼

おがた

プロローグ

「食事の時間にはまだ早いんじゃないか、おおかみさん」

 狭い部屋の簡素なベッドに腰掛けたまま、笑いながら相手を見上げて問いかける旅人の態度には余裕すら感じられる。その目の前で、後ろ手で扉を閉めて退路を断った訪問者が人狼だと確信していながらだ。

「今夜の食事の前に、あんたに聞きたいことがある。というかなんで俺が狼だと断言できる」

「後遺症の副作用で人間と人狼の区別はなんとなくわかるようになった。但し、昼の間はぼんやりとしかわからないけどな。まあお前が人狼だってことは、そうでなくてもなんとなく察してたよ」

 はじめに旅人の言葉を嘘かもしれないと指摘し、人狼ではないかと疑った男。けれど、その後のやり取りでは全くそういった指摘をすることなく、むしろ庇うような様子さえ見せるようになっていた。

「俺が聞きたいのはその後遺症のことだ。あんた本当に人狼に食われないのか?」

「夜の間限定だけどな。試してみるか?」

 ほれ、と旅人が無防備に両腕を広げて見せる。人狼は少し悩んだが、旅人を見た時から抱いていた強い欲求には抗えなかった。

 ベッドに片膝をつき、両手で旅人の両肩を掴んでその首筋に食らいつく。人のものとは思えない、獣のそれに似た牙が旅人の肌に突き立てられ、けれど少し凹んだだけだった。

 食い破られることも、もちろん血が噴き出すこともない。文字どおり歯が立たない。

「爪を立てることもできないぞ。今まで何匹もの人狼が俺を喰らおうとして失敗している」

「あんたの言うことは本当だったのか」

 驚いたように首筋から顔を上げて、しかし肩を掴んだままの両手は離さない。ここで彼を喰らえないからと言って素直に引き下がることはどうしてもできなかった。

「しかしお前も馬鹿なおおかみだな。一人で来たってことは仲間にも黙って来たんだろう。仲間を裏切ってわざわざ正体をバラしに来る奴がいるか?」

「村人たちに疑われているあんたが俺を人狼だと言ったところで、そう簡単には信じられないだろう。それに、同じ人狼の同胞とはいえ、奴らとは効率よく人間を喰らうために手を組んでいるだけだ」

 喰い破られはしなかったが少し赤くなっている首筋に、人狼は再び顔を寄せる。しかし今度は歯を立てず、ぺろりと舐めるだけだった。

「俺は他の誰でもなくあんたが喰いたい。そのためなら同胞を裏切っても、死んでもいい」

「ずいぶんと熱烈だなぁ」

 苦笑する旅人の首筋を這う生温かな舌のざらりとした感触は、確かに人間のそれではなかった。姿かたちは人間であっても狼が人の姿をしているだけの人狼だ。けれど夜の間、人狼はこの旅人を喰らうことができない。半ば疑っていたがこれで本当だということがはっきりとした。

 だからこそ、交換条件を提示しに来たのだ。

「俺はあんたに協力する。あんたが村人の味方をするなら助けるし、従おう。その代わり俺かあんたが村人に処刑される時は、その前にあんたを喰わせて欲しい」

「処刑される前ってことは、他の人間たちの前で俺を喰らうってことだろう? お前が人狼と疑われて処刑される前ならともかく、俺が処刑される前ってことはお前が人狼だとバレてその場で殺されるってことだぞ」

「あんたを喰った後なら別にいいさ。殺されても」

 この男さえ喰らうことが出来れば同胞どころか、自分の命すらもどうでもいいと本気で思っている。目の前のこの男を食いたくて食いたくて仕方がない。それ以外のことはどうでもいい。

 人間側には人間を裏切り人狼を手助けする狂人という存在がいるらしいが、同胞を裏切ってでも彼を喰らいたいと望む自分は狂狼とでも呼べばいいのだろうか。この旅人の肌に牙を突き立て、噴き出す血を啜り、その肉を食い千切ることを狂おしいほどに切望している。

「そうだな、昼間も言ったが俺の目的はこの村から人狼を根絶やしにすることだ。そのためならお前に喰われてやってもいい」

 残り二匹の人狼の正体を知っているこの人狼が旅人の仲間になることで、人間側は圧倒的に有利になる。たとえ旅人が人狼や狂人と疑われて処刑されることになっても、この交換条件による契約があれば、旅人の命と引き換えにして確実にこの人狼を仕留めることができる。

 この世の人狼を一匹でも減らすことができるのであれば、それでいい。

「だが、もしもうっかり俺とあんたが最後まで残ったらどうなる?」

「約束どおりお前に俺を喰わせてやるよ。喰われながらでもお前を殺してやるから」

 そうすればお互いの望みを果たせるだろうと男が言えば、そうか、それはいいなと満足げに人狼が笑う。そのひどく嬉しそうな笑みを見て、狂ってやがると男も笑った。

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