2 自己紹介

 雑木林に踏み込んだ僕たちは、そのまま農園の果樹園にまで突入した。

 現在はちょうど正午に差しかかったぐらいで、農園の人々も休息の時間であるはずだ。それでも油断なく、人間ていどの能力しか持たない目と耳と鼻を駆使して、僕たちは慎重に歩を進めていった。


 まあ、この場で農奴に行きあったとしても、僕たちは市民の紋章を再現しているので、大きな問題は生じない。農奴にとっての市民というのは畏敬の対象であるために、何をしていても咎められる恐れはない、という話であったのだ。


 よって、厄介なのは町や農園を巡回している魔術師および兵士たちである。

 彼らは魔物の襲撃に備えて、絶え間なく領地を見回っているとのことであったのだった。


「ただし、兵士はともかく魔術師ってのは数が限られてるみたいだからさ。だだっぴろい農園で出くわすことは、そうそうないと思うよ」


 ハンスはそのように言っていたし、リビングデッドの少女も異を唱えようとはしなかった。

 そもそも人間の領土は、退魔の結界に守られているのである。それでも魔術師たちが巡回しているのは、先日の僕のように魔力を隠して侵入する魔物に備えてのことであった。


「もっとも、これまでの暗黒神様は小細工を嫌う気性だったからねえ。魔力を隠して侵入するなんて、数えるぐらいしか試みたことはないと思うよ。ご自分は人間の女を襲うために、たびたび忍び込んでたってのにさ!」


 ファー・ジャルグなどは、そのように言っていた。

 それでも何度かは、魔力を隠して侵入するという作戦も執られたのだ。井戸の中に毒を投じたり、家や農園に火を放ったり、城への侵入を試みたりと、なかなかに悪辣な真似を繰り返していたらしい。


 ただし、それらの作戦に従事した魔物の大半は、無事に戻ってこられなかったのだという話であった。

 領地を巡回していた魔術師に発見され、人魔をけしかけられ、多くの魔物たちが生命を散らすことになってしまったのだ。

 そんな話を聞かされては、僕も慎重にならざるを得なかった。そのために、侵入の際には陽動作戦を行うという小細工まで弄してみせたのである。


「くどいようだけど、決して人間たちと揉め事を起こさないようにね。目立たないように息をひそめて、情報の収集に徹するんだ」


 無人の果樹園を小走りで進みながら、僕はそのように警告してみせた。

 僕のすぐそばに陣取っていたナナ=ハーピィは、「わかってるって!」とにっこり笑う。


「ベルゼ様って、意外に心配性だよねー! 作戦の内容はしつこいぐらい聞かされてるんだから、誰も失敗なんてしないってば!」


「うん。だけど君なんかはすごく真正直な気性だから、そこのところが少し心配になっちゃうんだよね」


 僕がそのように言葉を返すと、ナナ=ハーピィはますます楽しそうに瞳をきらめかせた。


「大丈夫! あたしが一番イヤなのは、ベルゼ様にガッカリされることだからね! いーっぱい手柄を立てて、ベルゼ様にほめてもらうんだー!」


 6日ほど前に込み入った話をして以来、ナナ=ハーピィの無邪気さには磨きがかかっていた。

 僕としても、彼女には個人的な親しみを覚えつつある。ただ、親愛と信頼の度合いというのは、必ずしも比例しないのだ。これほどに無邪気で明朗でけたたましいナナ=ハーピィに隠密行動を果たすことはかなうのか、はなはだ怪しいところであった。


(だからといって、こんな大仕事を僕ひとりで成し遂げられるとは思えないし……そもそも、僕ひとりで成し遂げるべきではないって気もするしな)


 僕は人間族ばかりでなく、魔族のみんなにも自分たちで進むべき道を選んでほしかったのだ。

 そのためには、人間族がどういう存在であるのかを知ってもらう必要があるだろう。潜入捜査で生身の人間たちと触れ合った魔物たちが、いったいどのような感慨を抱くことになるのか――僕にとっては、それもまたひとつの秘密の命題であったのだった。


「暗黒神様……石の町が近づいてきたようよ……」


 と、ナナ=ハーピィとは逆の側に陣取っていたラミアが、そのように呼びかけてきた。

 僕たちは歩調をゆるめて、前方を透かし見る。赤い果実を実らせた木々は間もなく途絶え、その向こうには木造りの小屋が立ち並んでいるようだった。


「あれは石じゃなくって、木の家じゃん。あんた、石と木の区別もつかないの?」


「うるさいわね……その向こう側に石造りの家が覗いているのが見えないのかしら……? 頭だけじゃなく、目まで悪いのね……」


「うっさいよ、淫乱蛇女!」


 僕は足を止めて、「まあまあ」と取りなした。


「確かに、石の町はもう目の前みたいだね。あちらに突入する前に、僕の呼び名を決めておこうか」


「呼び名?」


「うん。町の真ん中で暗黒神呼ばわりはまずいだろ? 今、ラミアにそう呼ばれて、僕もようやく思い至ったよ。こんなのは、事前に打ち合わせをしておくべきだったね」


 苦笑まじりに、僕はそう言ってみせた。


「馴染みのない名前だと言い間違いそうだから、ベルでどうだろう? それなら、女の子っぽいだろう?」


「了解したわ……それじゃあ、ベル様ね……」


「いやいや、様は必要ないよ」


「暗黒神様を呼び捨てにはできないわよ……たとえ人間に化けていても、あなたはわたしたちの君主ということにしてもらわないと困るわ……」


「うーん。この中で一番若く見えそうな僕が偉ぶるのはおかしな感じだけど……まあ、娼婦の仲間内でもっとも格の高い存在っていう設定にしておこうか。まず大前提として、人前ではあまりおたがいを呼び合わないように心がけよう」


「それじゃあ、あたしたちは?」


 と、ナナ=ハーピィが身を乗り出してきた。


「もしも人間たちが魔族の名前を知ってたら、まずくない? 名前を呼ぶだけで、正体がバレちゃうよ?」


「なるほど。でも、人間たちが魔族の名前を知ってる可能性はあるのかな?」


「わかんないけど、あたしらは戦の最中でも名前を呼び合ったりするからね! それを覚えてる人間もいるんじゃない?」


 ならば、種族名を口にするのも控えるべきであるのだろう。

 僕はそのように答えようとしたが、それよりも早くナナ=ハーピィが口を開いた。


「あたしは、ナナだからね! ナナって呼んでくれるんでしょ? ね? ね?」


 僕はその名を知っていたが、他の者たち――というか、ラミアの耳をはばかって、人前では口にしないように心がけていたのだ。

 そしてナナ=ハーピィは、僕のそういった行いに、かねがね不平を申し立てていたのだった。


 ナナ=ハーピィは期待に満ちみちた目で、僕のことを見つめている。

 まるで、お菓子をねだる幼子のような目つきである。

 苦笑を誘発されると同時に、僕は心の中が温かくなるのを感じていた。


「わかった。それじゃあみんなも、固有名で呼び合うことにしよう。ラミアとパイアの名前も教えてもらえるかい?」


「あら……わたしの名前を忘れてしまったの?」


 笑いを含んだ声でラミアが言うと、ナナ=ハーピィは緑色に燃える目でそちらをねめつけた。


「なに言ってんのさ、淫乱蛇女! ベル様が、あんたなんかの名前を知ってるはずないじゃん!」


「あら……わたしは何年も前に、名前を聞かれているのよ……? どうやらあなたは、そうじゃなかったみたいね……」


 ナナ=ハーピィは大きく口を開きかけたが、途中でぴたりと動きを止めた。


「……それ、何年も前の話なの?」


「ええ、そうよ……いつだったか思い出せないぐらい、古い話ね……」


「ふーん。じゃ、いいや」


 ナナ=ハーピィはラミアに向かってべーっと舌を出してから、僕のほうに向きなおってきた。

 その顔には、無邪気な笑みが復活している。なんとなく、見ているだけで胸が詰まるような笑顔であった。


「え、えーと、僕はその頃の記憶がないからさ。悪いけど、もういっぺん聞かせておくれよ」


 ラミアは僕とナナ=ハーピィの姿をうろんげに見比べてから、肩をすくめた。


「わたしは、ジェンヌよ……ラミアは数が少ないから、ほとんど名前を呼び合う機会もないけれどね……」


「あたしは、ドリューだよ。あんまり気安く呼んでほしくないところだけどね」


「ジェンヌにドリュー、それにナナだね。了解したよ。それじゃあ人間の領地にいる間は、そうやって呼び合うことにしよう」


 それから僕は、他の班の班長たちにもこの一件を伝えておくことにした。

 が、はかばかしい返事が返ってくることはなかった。


『俺には固有名なんてねーからな。とにかく人間の前で種族名を呼び合うなってんなら、了解したよ』


『そうだね。いまさらこいつらの固有名を聞かされたって、わたいは覚えきれないよ』


『こっちも了解。ま、名前を呼ぶ機会なんて、そうそうないだろうさ』


『わたくしも、了解いたしました。決して失敗を犯さぬよう、班員たちに周知いたします』


 そうして最後に、ルイ=レヴァナントから僕個人への念話が伝えられてきた。


『異なる種族の者たちと固有名を呼び合うことなど、我々には馴染みのない所業であるのです。暗黒神様も、そのようにお含みくだされば幸いです』


『うん、了解。だけど、これからも君のことはルイと呼ばせてもらいたいなあ。もちろん、ガルムたちの前では控えるからさ』


『……陽動作戦は終了いたしました。結界の外まで追撃してきた人魔たちも、領地に戻った模様です。敵味方ともに、損害はありません。しばらくは、魔術師たちもこちらの区域に留まることでしょう』


 それだけ伝えて、ルイ=レヴァナントからの念話は途絶えた。

 内心で苦笑しつつ、僕は3名の班員を振り返る。


「それじゃあ、ここからが本番だ。各自、打ち合わせの通りにね」

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