第44話次章からのタイトル案を募集します(他人にぶん投げ)

 大家さんとの素敵レクリエーションを終え、自分の部屋に帰る。

 部屋に帰ると、いつも通りエプロンを着けたエリザが、お玉を片手に迎えてくれた。


「お帰りなさい、辰巳君!」


 毎日こうやってエリザは笑顔で俺を迎えてくれる。

 最早、日常となった光景。恐らく、俺がエリザの事を視えるようになる前から、彼女はこうやって出迎えてくれていた。


「あ、お鍋が噴いちゃってるー!」


 パタパタと慌てて台所に戻っていく。

 日常だ。今日まで当たり前のようにあった日常風景。だが、もしかすると明日からは無くなるかもしれない光景。

 当たり前のようにある物が、無くなるかもしれない。

 その事実を改めて噛み締めると、どこか心の中が空寒い感覚に襲われた。



■■■


「えへへー、今日はどんなお話かなー?」


 夕食の支度を終えたエリザと一緒に、映画を見る。

 1週間に1度、映画を借りてきて2人で見る。この習慣はいつの間にか出来た。確か、意外とテレビっ子なエリザがテレビ放送された何かの続編映画(多分、某有名海賊映画。デップマジかっけえ。『シザーハンズ』のチョキチョキ最高ー!)を見ていて「前のも見てたら、もっと面白いのかなぁ」と呟いて俺がその前作をレンタルして一緒に見た時から始まった習慣だったと思う。いつも色々家事を頑張ってくれているエリザへの些細な恩返しの為に週1度、俺が近所のレンタルショップ(個人経営)で映画を借りてくる。基本的にエリザは何を見ても楽しむので、俺がその時の直感で映画を選んでいる。ただエリザ(と俺)は怖がりなのでホラー映画はノー。笑えるホラーはアリ(ゾンビランドとかキャビンとか)。あと幽霊が出て来る感動系の映画はエリザの琴線に触れるのかあいつマジでどん引きするほど大泣きするので避けてる。前に某有名な映画(ろくろで分かる人は分かる思う。アレ見てからエリザがama〇onでろくろのセットを買う買わないでめっちゃ悩んでた)見たときはワン〇ースの泣き顔かよって言うくらい大泣きして正直対応に困った。


 レンタルしてきたメ〇ルマンを見る。パッケージかから見るに、きっとアイアンマンのようなメカ系のヒーロー映画なんだろう。

 ある日メカ系のヒーロになってしまった主人公が手に入れた力に振り回されたり、力を持つ者の使命に目覚めたり、ベンおじさんがまた殺されたり、ライバルキャラと熱い死闘を繰り広げたりする映画なんだろう。うーん、楽しみ。


 86分の映画を見終わる。


「はー……すっごく面白かったね、辰巳君!」


「……うん、まあ……うん」


 ニコニコしながら感想を述べるエリザには悪いが、ハッキリ言ってクソ映画だった。誰が何と言おうとクソ映画に違いなかった。

 完全無欠のクソ映画だった……はずだ。だが、クソ映画特有の、鑑賞後に見てしまった事実全てを消去したくなるような後悔がない。人生における貴重な86分間を返して欲しいと思わない。不思議なことに。それどころか、劇中の印象的なセリフやシーンが頭の中をリフレインしている。無意識に再び再生ボタンを押してしまいそうにさえなってしまう。何だこの感覚は……ヤバイ……メ〇タルマンはヤバイ……路上の柔道並みにヤバイ何かを感じる……ある主の麻薬のような中毒性……そうメタみとでも言おうか、メタみを感じる……お、収まれ俺の心……amazonでDVDをポチろうとするな……うごごごご……うん、みんなもこの正体不明の感覚を味わいたかったら、ぜひメタルマンを見てね! 倍速とかすんなよ? 本当に申し訳ない。エイリアンVSアバターと恐怖!キノコ男もよろしく! エンジョイクソ映画ライフを! 責任はとらん。


「さて……と。お夕飯の仕上げ仕上げ……ふんふふーん♪」


 俺が今まで味わったことのない摩訶不思議な感情に溺れている間に、エリザは鼻歌を歌いながらテキパキと夕食の準備をしていた。

 台所からふわふわ漂ってくる、香ばしい夕食の匂い。

 それを楽しみながら、スマホを手に取る。雪菜ちゃんからのメールが届いていた。

 

「うーん、雪菜ちゃんからのメールかぁ……見なかったことにしたいなぁ」


 雪菜ちゃんからのメール……嫌な予感がする。

『期限は明日の正午といいましたが……やっぱり気が変わりました。私雪菜ちゃん――今、部屋の前にいます』とか嬉しくない都市伝説風(メリー)サプライズ演出をお知らせするメールだったらどうしよう。あの子、俺を怖がらせたり、驚かせたり、悲鳴をあげさせたり失禁させるの三度の飯より好きだからなぁ。でも、約束は守るタイプだし……うーん、何のメールだ?


「ん? 画像が添付されてる」


 何の画像だろうか。

 ふむ……期日前日に送ってくる画像……。雪菜ちゃんは家族の恥である俺をどうしても実家に連れ戻して管理したい思惑があるだろうし、それに関連した画像の可能性がある。俺が自ら自発的に実家に帰りたくなる画像。例えばそう……雪菜ちゃんのちょっとエッチな自撮り画像とか、有明の女王に扮したコスプレ画像とか、流行りが過ぎた童貞を〇すセーターを着た画像とかだとしたら? ……まあ、超特急で光やんって突っ込まれそうなスピードで帰宅するわな。でもあの雪菜ちゃんが俺に飴と鞭である所の飴をホイホイ与えるとは思えんが……でもやっぱり期待しちゃう!


「アバカムアバカム!」


 というわけでポチっとなと画像を開く。

 一瞬の読み込みの後、肌色率高めな画像が映し出された。


「おおおおおお!?」


 スマホの小さな画面いっぱいに映し出されるムチムチ半裸画像――ただしムチムチ(筋肉で)、ほぼ半裸(汗塗れのブーメランパンツ)の――むさ苦しい男勃ち(メンズ)の画像だ。


「ぐあああああああああ!?」


 突然現れたグロ画像に、思わず仰け反ってしまった。俺のスマホにヤバイ「画像」がIN!!!

 俺のメンタルに11連撃!! 8316イェーンのダメージ! やめて、俺のライフポイントはもうゼロよ!

 ひぃぃ……目が、目が腐る! 吐き気がする! 鳥肌が工場制手工業(マニュファクチュア)! 変な失神も出たぁ!(大山の〇代っぽく) 


『明日、兄さんを迎えに行ってくれる、ラグビー部所属の優しい同級生の方々です。ラグビー部だけあって、皆さん、趣味は玉遊びだとのことです』


 ひぇぇ……みんなめっちゃいい笑顔で映ってるぅ……。画面越しに汗の匂いがぁ……。


『あまり関係ありませんが、その中の半数は恋人……彼氏がいるそうです。ふふふ、青春ですね』


 いや、関係ありすぎるし。その情報知った後だと、さっきの『玉遊び』って完全に別の意味でとれちゃうし。

 つーかアレでしょ? その彼氏って部活内にいるんでしょ? 試合中、恋人にいい所見せようと思ってやる気を出す的な意味で。〇リフターズで見たわ。


「ひぇぇ……」


 ぶっこんできよる……ウチの妹、前日にマジでぶっこんできよる……。きっと俺の悲鳴とかを想像して超愉悦してる……。

 ストレスでさっき食べた大家さんのおはぎ分の素敵カロリーが一瞬にして消化されたわ。この余分なカロリーが無ければ精神的に即死だった……。ありがと大家さん。


「くそ、雪菜ちゃんめ……!」


 こんな過半数以上が男色のメンズに襲われたら『もう二度と百合アニメ見れないねぇ……』的な深刻な症状に陥ってしまう……! 百合アニメが見れなくなったら、ほとんどのきららアニメ見れないじゃねーか! 女の子がゲーム作ったりキャンプとか登山したり、バイク乗り回したり飯食ったり終末世界を歩くアニメが見れなくなるとか、人生の楽しみの8割を失ったと同じだわ!


「……はぁぁぁぁぁ」


 げんなりしていると、エリザが心配そうな顔で話しかけてきた。


「どうかしたの辰巳君? 何かあったの?」


「いや、雪菜ちゃん……妹からメールが来てさ。脅迫、いや発破、死刑宣告うん……まあ、そんな感じの文章で――」


「大丈夫だよ!」


 エリザは食い気味にそう言って、震える俺の手を両手でグッと握りしめた。

 幽霊特有のひんやり感。そして女の子の柔らかい手。


「辰巳君、今日までずっと頑張ってきたもん。わたしずっと見てたから、知ってるもん。朝頑張って起きて、寒いのにいっぱい走ってたもん! だから、きっと大丈夫だよ! ね?」


 駄々をこねる園児を諭す保育士のように慈愛溢れる表情で笑顔を浮かべるエリザ。

 こんな母性溢れる笑顔で「ね?」って言われたら、まあ……感じますよね、バブみ。ハーイチャーンバブーイクゥ!まったなしですわな。20万くらい投げ銭して彼氏面するのもしょうがない。


「そ、そうかな? 大丈夫かな?」


「そうそう。平気へっちゃらッだよ! ねっ、ごはん出来たから食べよっ」


 エリザはいつも通り、元気な笑みを浮かべてそんな事を言った。

 この笑顔を見ていると、いつだってこっちも元気が出て来る。まあ、何とかなるだろう、根拠も理屈も無いけどそんな風に思える。

 この笑顔に支えられて俺の人生は華やかになっている。もしエリザがおらずただの1人暮らしなら、きっと退屈でつまらない生活だったんだろう。高校生活のように灰色の日々だったはずだ。


「えへへ……今日のご飯はね、すっごい自信作なんだー!」


 頬を薄っすらと好調させながらテンション高めにエリザが言う。


(エリザはいつも元気だなぁ……)


 エリザの笑顔からは、もしかしたら明日俺がここを去ってまた1人になるかもしれない、そんな悲観的な感情は欠片も読み取れない。

 いつもの明るい笑顔だ。日常の象徴である笑顔に陰りはない。そこにネガティブなものは一切ない。


(でも……そうか)


 俺が来るまでずっとエリザは1人で、何年もこの部屋にいたのだ。もし俺が明日この部屋を去ったとしてもただ最初の状態に戻るだけ。

 今まで何人もこの部屋の住人を見送ってきたんだ。俺の場合は少し特殊な状況で住んでる期間も他の住人より少し長かったけど、彼女にとってはいつもの事なのだ。

 最初は少し寂しがると思うけど、それでもいつかは慣れるのだろう。

 そう思うと、何だか少し寂しいような気がした。


■■■


 そして夕食。

 ダイエット結果発表の前日の夕食だから、正直かなり控えめな食事であることは覚悟していた。

 ぶっちゃけお寺で出るようなな精進料理的な物が出ることも仕方なしと思っていた。

 だがしかし――


「嘘……今日の夕食、豪華過ぎ……」


 食卓に所狭しと並ぶ、色鮮やかかつ食欲をそそる豪華な食事を見て、思わず口を押えてしまう。

 ここはどこの料亭だろうか。

 どの料理からも一切の手抜きは感じられず、1つ1つが宝石のように輝いている。


「えへ、えへへ……ちょっと頑張り過ぎちゃったかも」


 エリザは照れくさそうに微笑んだ。


「辰巳君、今日までダイエットお疲れ様。えっと、こういうの何て言うのかな? 辰巳君、すっごく頑張ったねー! わーい偉いねー! ……み、みたいな? 前祝い? その前祝いで、ちょっと頑張っちゃった、あはは……」


 少し恥ずかしそうなエリザ。


「えっ、今日はこんなに食っていいのか? でも……明日が……」


「大丈夫大丈夫。見た目はすっごい豪華だけど、ちゃーんとカロリー抑えたごはんだから。油使わなかったり、お肉も低カロリーな物使ったり、つなぎにおから使ったり、何かこう……カロリー消えろーっていっぱい念じたり……とにかく、好きだけたーんと食べてね? 遠慮はしなくていいよ? おかわりもあるよ!」


 さっき食べたおはぎ分のカロリーは精神的過労によってあっという間に消化されたのか、すっかりお腹ペコちゃんな俺。

 ニコニコと笑うエリザと美味そうな匂い、湯気をたてる食事を前に逆らえず、箸を手に取った。


「ゴクリ……」


 豪華絢爛な料理を前に、思わず唾を飲み込む。


 まず目に入ったのはたっぷりタルタルソースがかかった――チキン南蛮。

 食べる前から分かる。こんなプリプリして柔らかそうな肉……美味いに違いない。この見た目で不味かったら詐欺だ。


「それね、揚げずにちょっとの油だけで焼いたチキン南蛮でね。下味にお醤油とかニンニク漬けて冷蔵庫で寝かして――」


 エリザは楽しそうに調理方法を語る。

 ヤサイマシマシ並みによく分からない専門用語が出てきたが、とにかく美味いのだろう。

 箸で掴み、口に運ぶ。


「もぐ――っ!?」


 柔らかい肉を噛むとホロホロになって崩れる。崩れた肉からじわっと肉汁と共に凝縮された旨味ががさながら通勤ラッシュから解放されたサラリーマンのような――



「うっま……」



 食レポ的な玄人好みの感想をエリザに伝えたかったが、あまりの上手そうに思考がシンプルになってしまった。

 

「ナニコレ……うめ、うっめ……」


 美味い、もしくはそれに近い言葉しか出てこない。

 今分かった。本当にうまい物を食ったとき、人はバカになる。小難しい言葉は実を結ばず、感情を辛うじて言語化したものしか出てこないのだ。1つ勉強になった。


「うまい……風が語り掛ける……うまい、うますぎる……」


「そっかぁ……よかった♪」


 一心不乱に食べていた俺だが、ふと顔を挙げてエリザを見る。


「えへへ……♪」


 エリザは食卓に身を乗り出すように、俺の顔を見て笑顔を浮かべていた。その笑顔はとても……言葉には出来ない。


「ふふふ……♪」


 今まで、俺の人生で見たことが無い類の笑顔だ。生まれて笑顔に尊さを感じた。

 見ていると、何故か不意に泣きそうになる。多分、こういう笑顔を見られる人間はそういない、そんな稀有な表情なはずだ。裏表のない、一切のフィルターのかかってない純粋無垢な笑顔。あらゆる虚飾も下心も混ざってない無地の笑顔だ。

 彼女はどうして、俺なんかにそんな笑顔を向けるのか。今更ながらそんな事を思ってしまう。


『大好き』


 あの日、夕日が指すこの部屋で彼女が言った言葉思い出す。

 仮にあの時の言葉が真実だったとして、その言葉に付随する感情だけで、こんな笑顔を浮かべることが出来るものなんだろうか……。

 あの時のエリザの言葉を、未だに俺は素直に心から受け入れることが出来ない。

 確かにエリザのあの言葉は本物だったと思う。それでもそのまま受け止めることができない。

 酷い人間だと思う。だけど……やはり、無理だ。どうしても人の言葉の裏やそこにある感情を疑ってしまう。


「えへ、えへへ……ん? どうかしたの辰巳君?」


「いや、えっと……なんでもない。エリザもほら、冷める前に食べたほうがいいんじゃないか?」


「あ、そうだね。いただきます」


 2人で食卓の上に並ぶ食事を食べる。

 やっぱりエリザは楽しそうだった。いつも通りに。いつもの笑顔だ。明日から見ることが出来なくなるかもしれない笑顔。

 最後になるかもしれない笑顔だ。 


 ふと、何とは無しに浮かんだ言葉を発した。


「アレだな。もしかするとこれが最後の晩餐になるかもしれないんだな」


「え?」


 エリザの箸が止まる。

 何となく浮かんだ言葉だ。明日の結果如何によっては、実家に帰らなくてはならず、こうして2人で食事をとるのも最後なのだ。

 そう思ってふと言ってみた。ただの雑談だ。


 エリザの事だから俺の言葉に頬を膨らませて『もう、そんな事言ってちゃダメだよ! きっと大丈夫だから!』……そんなリアクションをすると思っていた。エリザはいつだって笑顔で、俺のことを迎えてくれて、俺を励ましてくれる。そういう存在だった。

 

「……もー、そんな事言ってちゃダメだよ。きっと大丈夫だから」


 ほらやっぱり。想像通りのセリフと笑顔だ。

 ただ想像と違った部分もある。



「……ぐす」



 エリザの瞳から、ポロポロと雫が零れる。

 それは涙と呼ばれるものだった。

 笑顔のエリザ、その瞳から大粒の涙が溢れる。


「……すんっ、ぐす……あ、あれ? えへ、えへへ、おかしいね、何か涙が出ちゃう……」


「えっと……エリザ?」


「あれ、あれれ? えへへ……変だね。あ、玉ねぎとかいっぱい切ったからかなぁ? あはは……っ……ぐすっ……すんっ」


 何度も目を拭うも、エリザの瞳からは涙が止まらない。

 壊れた蛇口のように、涙を流し続ける。


「だ、大丈夫かエリザ? どうした? え、どっか痛いとか?」


「大丈夫……大丈夫だから辰巳君……」


 流れるままに涙を流していたエリザだが、とうとう顔を伏せてしまった。


「……ごめんね、なんか、やっぱり……大丈夫じゃない、かも」


 そう言うと顔を伏せたまま、体を震わせた。

 俺は状況が分からず、ただ何となくエリザに視線を向けられず、食卓の上の食事に目を向けてしまう。

 教師に怒られて机を見つめてしまう生徒のように。


 堪えるような泣き声は次第に決壊したダムのように大きく、はっきりとしたものになってきた。


「ばかぁ……」


 伏せたまま、絞りだすようにエリザが呟く。


「……ふぐっ……ひっく……ばか……辰巳君のばかぁ……ずっと我慢してたのに……大丈夫だって、きっと大丈夫で、これからも辰巳君はここにいて、ずっとずっとこの生活が続くって、そう思ってたのに……」


 嗚咽混じりの小さな声は、驚くほどスムーズに耳に届いた。

 その声は心の中まで染み込んできた。


「何でそういう事言うのぉ……? ばか、ばかぁ……そんな事言われたら、考えちゃうもん……、辰巳君がいなくなって、辰巳君の為にご飯作ったりお掃除したり、そういうことぜんぶぜんぶ意味がなくなって、1人だけになって……」


 エリザがグシグシと涙を袖で拭う。

 拭いきれずに溢れた涙が、畳に染み込む。


「いくら玄関で待っても辰巳君はずっと帰ってこなくて……お帰りって言ってもそこには誰もいなくて……お布団も冷たくて朝起きても辰巳君がいなくて……うぇぇ……」


 人が垂れ流す生の感情というのを初めてみた。

 食卓を挟んで距離があるはずなのに、熱が伝わってくる。ともすれば涙の冷たささえ。 

 幽霊である彼女が放つ感情の熱は、人間と全く変わらなった。その熱に気圧されてしまう。何も言うことが出来ない。


「ひぐっ、ひぐ……」


 自分の為に、誰かが本気の涙を流す光景なんてこの先あるのだろうか。そんな事を思ってしまう。

 自分の人生で、こんな自分の為に本気で怒ったり、泣いたりしてくれる人がどれだけいるのか。それだけの感情(ねつりょう)を自分に費やしてくれる人間なんているのだろうか。

 少なくとも過去にはいなかった。未来もきっといないだろう。現在、この時点、今この瞬間がその1度かもしれない。

  

「おはようもおやすみも、いってらっしゃいもお帰りなさいも……辰巳君に言うだけですごくうれしかった当たり前だけど大切な言葉、そういうのも全部ぜんぶなくなって……」


 俺は何か勘違いしていたのかもしれない。

 エリザはこの部屋でずっと1人だった。何年も何年も。この部屋に住人が入っても、すぐに出て行って1人きりだった。

 俺はただ、たまたまエリザの事が見えただけで、出て行った彼ら彼女らとその点が違うだけで通過点の1つだと、そう心のどこかで思っていた。

 俺がいつかこの部屋からいなくなっても、一時的にエリザは悲しんでもいつもの生活に戻る。そしてまた俺と同じような境遇の誰がが現れるかもしれない。そんな風に思っていたのかもしれない。だって俺は主人公じゃない。たまたま偶然、彼女の事が見える眼鏡を手に入れただけで一時的、借り物のような立場だったはず。自分だけが特別な存在だなんて、思えるはずがない。

 俯瞰するように自分の人生を見て、どこまでも自分はありきたりな存在だと、雑踏に紛れた灰色の群衆の一部だと、そう思っていたはずだ。中学時代。あの時の経験を経て、それを学んだはずだ。


「たつみくん……やだぁ……たつみくんがいなくなったらやだよぉ……たつみくんじゃなきゃやだぁ……」


 エリザが顔を上げる。

 釣られるように俺も顔を上げ、エリザの顔を見てしまった。見てしまったのだ。

 人が感情を溢れ出す瞬間。出来るだけ避けていたその瞬間を、見てしまった。


「たつみくん……」


 涙で塗れた顔。感情が抑えきれず、崩れた表情。

 きっと美しくもなく、可愛くもないその表情だが、心が動かされた。瞠目する思いで顔が逸らせない。

 それほどまでに彼女の泣き顔は俺の心に触れた。群衆の一部ではいられなくなってしまう。


 自分の心を縛っていた何かが緩み、1歩を踏み出してしまいそうになる。

 その一歩は例えばこういう状況で言うべき、漫画とか映画で見るような一言だ。例えば『ずっと俺が側にいるよ』とか『お前の涙を拭い続ける』みたいな臭いセリフだ。 


「……」


 いつもなら草生やして嘲笑するようなそんなセリフが頭に浮かぶ。

 この状況では正しい行動だと思う。人間こういうリアルな感情に突き動かされる時が、いつかは不意に来る。

 そしてそういう感情に流される行動は大体間違いではないのだ。


「……っ」


 緊張の為か粘つく口を開く。だが……何の言葉も出ない。

 以前、俺はこういう状況で間違いを起こしているからだ。


『嬉しいな……私も一ノ瀬君のこと、好きだったんだ』


 あの時、俺は状況に流されて手酷い失敗をしてしまった。未だにあの時の事は夢で見る。 

 心の奥底でヘドロのように粘つく記憶としてそこにある。

 ヘドロのような苦い記憶に足をとられ、何年もその場で踏み留まってしまった。 


「ぐすっ、すんっ……」


 動けない。

 涙を流すエリザを前に、俺は何のアクションも起こすことは出来ない。

 本来とるべき正しい行動は分かっている。泣いている女の子がいる、するべき事は一つなんだ。漫画やアニメで見たシチュエーションだ。漫画とかアニメは間違った情報も教えてくれるけど、この状況に関しては間違いない。

 だが、動くことができない。過去という記憶でしかないそれが、俺の足と心を引っ張る。

 自分が情けない。情けなくて涙が出てしまう。俺はいつまでこうなんだろう。

 泣いている女の子を前にしても、何の行動も出来ない自分。こんな自分が心底嫌いだ。

 

 もし誰かが無理やりにでも自分の背中を押してくれたなら、そんな都合のいい事を考えてしまう。

 心に根付くヘドロを物ともせずに、勢いよく押し出してくれたら……どこまでも甘えた考えが浮かぶ。

 


『ほんに……面倒くさい男じゃのう。貸し1つじゃぞ?』



 何かが聞こえた気がした。

 聞こえた方、背後を見る。

 そこに誰かがいた。褐色の肌の美少女だ。どこかで見たことがある。今にも消えそうな、ノイズ混じりのその姿。

 彼女は退屈そうな顔で、俺の背中を押した。

 背中には何も感じない。だが、体の内側から体を押されたような妙な感覚で前につんのめった。


「……っ」


 食卓に手を付き、エリザに覆いかぶさるよう手を回す。

 震えるエリザの背中に手を回す、恐る恐る抱き締める。

 前にも同じような事があった。だがあの時とは違う。エリザの生の感情を見た上で、行動した。

 踏み込んでしまった。いや、踏み入れてしまったのか。

 だが訪れるであろう後悔はなかった。


「たつみ……くん?」


 腕の中でエリザが身じろぎする。

 小さい。とても小さい体だ。抱き締めると分かる。消えてなくなってしまいそうな小さい体。

 こんな小さな体で、たった1人で何年もこの部屋にいたのだ。

 2度と1人にしたくないと思った。 


 ヘドロの沼から抜け出し、1歩踏み出して思う。

 この行動は間違いではない。


 背中を押してくれた何かに感謝しつつ、驚くほど凪いだ心のままエリザに言う。


「何かごめん」


「ど、どうかしたの辰巳君?」


「いや、分からんけど……ごめん」


「なにそれ……ふふっ。えへへ……」


 腕の中でエリザがクスクス笑う。

 胸のあたりが湿っぽい。エリザの涙が染み込んでいるだろう。


「えっと……うん。大丈夫だ。エリザの言う通り、俺頑張ったし。エリザも協力してくれたし……明日は大丈夫だ」


「え、えへへ……だからわたしそう言ってるじゃん……もう……」


 腕の中にいたエリザが顔を上げる。

 見下ろすとすごく近い位置にエリザの顔があった。

 目を中心に薄っすら赤くなった顔が目と鼻の先にある。

 エリザはもう一度、涙を俺の胸で拭ってから笑顔を浮かべた。 


「もしダメだったとしてもアレだ。何かこう、何とかして迎えに来たやつを追い返す」


「えー? どんな風に?」

 

「部屋に踏み込んできた奴らに対して……エリザが呪いの言葉を囁いたり、エリザがPGA(ポルターガイストアタック)で攻撃したり、アパートの前で連中が記念写真を撮る時にエリザが怖い顔で映り込んだり……」


「むぅっ、働いてるのわたしばっかり! ……えへへっ、うん、でも……そうだね。わたし頑張っちゃう。だって辰巳君とずっと一緒にいたいもん」


「……そうだな」


 俺は笑って、もう1度エリザの体を抱き締めた。

 温かい。幽霊特有の冷たい体なのに、温かい。もしかすると俺の体の熱なのかもしれない。


「辰巳君の体、やっぱりあったかいな……えへへ、幸せ」


 何かに手助けしてもらったような気がするが……それでも、心の中のしこりが取れたような気がする。

 あれだけ心の底で存在を主張していたそれが、すっかりなくなってしまった。さっきのあの行動だけで。

 あっけなさ過ぎて、不安にさえ思う。今まで自分が悩んでいたのはなんだったのかと。

 きっと過去の経験でまた足が止まったり悩んだりするだろうけど、それでも何かが変わったと思う。


 エリザとそして背中を押してくれた誰かのお陰だ。  


 その後、2人で夕食を堪能してから、就寝準備をして、いつもより少し遅くまで話をして、布団に入った。

 暫くしてから当たり前のようにエリザが布団に潜り込んできたが、俺は何も言わなかった。 

 いつもよりずっと密着してきたが、1人になるかもしれないという不安からだろう。


「むにゃむにゃ……わたしを籠から出してくれたたつみくん……すきぃ……いっしょに……ずっといっしょ……ねむねむ……ぎゅー……」


 珍しいことに……というか初めてエリザが先に眠った。

 よく分からない寝言を言っているが……籠? どういう意味だ? エリザの前世って鳥だったの? 確か俺の守護霊ってペンギンだったから、結構お似合いじゃん! 意味分からんけど!


「明日、か」


 明日について思いを馳せる。

 失敗して襲い掛かってくる50%ホモのラグビー部とかその裏でほくそ笑む雪菜ちゃんとか、色々思うところはあるけど……あまり不安はなかった。 

 エリザの言う通り、俺は頑張ったし、エリザや遠藤寺、そのほかに色々な人に助けてもらった。

 だから大丈夫だ。大丈夫じゃなかったとしても、何とかなるだろう。

 ダメだったとしても、何とかしてやる。あの完璧妹の雪菜ちゃんだって少しは弱点がある。その弱点を上手いこと付けばそれ以上に弱点の多い俺がゴリ押しされてゲームオーバーですね、はい。詰んだ! もう詰んだわ! ふぁっきゅー!

 本当、兄妹の関係って厄介だなぁ。知られたくない弱点とか黒歴史とか嫌ってほど知られてる。いつまでおねしょしてたとか、せいちゅー(精通の可愛い言い方)した日の事とか、俺がせいちゅーした時のオカズがオネショタだったとか全部知られてるもんな。勝てんわ! こんな状況で逆転するとかマサ〇グ様でも無理だわ!


 こうなったら最悪、遠藤寺の家に避難して頃合いを見計らって家に戻るか……いや、でもそれってただの先延ばしだし……デス子先輩に頼んでラグビー部のメンズに呪いを……いや、あの人なんちゃって黒魔術師だし……うーん、うーん……むにゃむにゃ……

 


 ――そして運命の朝を迎える。 

 

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