第36話恋とか愛とかタイトルとか最初に言い出したのは誰なんだろう……

 前回までのあらすじ


 「た、勃たぬ……勃たぬのだ……!」


■■■


「……はぁ」


 大学へ向かう長い坂道の途中、俺の悩みがギュッと凝縮された溜息が口から零れ落ちた。

 夏とはいえ早朝の通学路は肌寒く、溜息は白い息となってゆっくり霧散していった。


「はぁー……」


 このまま溜息と一緒に、俺の中の悩みも消えてしまえばいいのに。

 そんなことを思いながら、溜息を繰り返し吐き出すも、いつまでたっても俺の悩みは消えず、コールタールのようにベッタリ体の中に張り付いている。


 悩み、というのは、今朝発覚した例の事情だ。

 正確に言うならば、俺の下半身事情だ。

 簡単に説明すると、長年付き合ってきた半身とも呼べる存在であるジョニー(森見的表現)が立ち上がらなくなってしまったのだ。

 この事情について詳細に知りたい奇特なドスケベ難民がいたら、今すぐ左上にある矢印ボタンをクリッククリックッ!


「はぁ……どうしたんだよ、相棒」


 今もしょんぼり項垂れたままの相棒(直接的表現)に話しかける。が、無視。ウンともスンとも言わない。

 コイツとの付き合いも20年になる。その間、俺と彼は上手いことやっていたはずだ。

 辛い時も悲しいときもずっと一緒だった。喜びは2人で分かち合って、悲しみに暮れた時はお互いを慰め合った(直接的表現)ものだ。

 若さ故に度々暴走する彼を諌め、手綱を握り、宥め、そしてネットの海で手に入れたお宝画像達で一緒にハッスルした。

 今まで上手くやってこれたんだ。


 それなのに……どうしてこうなったんだ。


 今朝も事実が発覚してから、ただの思い違いという説に一縷の望みをかけ、美咲ちゃんとのジョギングやその後のエリザによるマッサージを受けたものの、その過程で一切反応(たちあがる)することはなかった。

 現役生JKである美咲ちゃんのすぐ後ろで、揺れるポニーテールや小ぶりなヒップを見ていても、微動だにしなかった。

 家に帰ったあと、エリザのノーパンマッサージを受けてもやはり、微塵も反応しなかった(ちなみにノーパンマッサージという言葉に何らかの違法性を感じるかもしれないが、ただ単にたまたまノーパンの日だったエリザが背中に乗ってマッサージをしてくれるだけのとても健全なリフレである。ガサ入れ不要)


 俺はどこにでもいる普通の男子大学生だ。偏った性癖も無いし、アブノーマルな趣味嗜好もない。

 普通の一般的ないやらしい画像や動画、本や映像を見て反応していた。

 実際、つい3か月前までは普通に問題なく機能していたはずだ。


 一体この数ヶ月で俺の身に何が起こったのか……分からない。検討もつかない。

 身体的……具体的に言えば泌尿器系の病気なのか、もしくは自分でも気づかない内に精神的なトラウマを抱えていて、結果反応しなくなったのか。


 とにかくこのままじゃヤバイ。

 将来、彼女が出来ていざ事に及ぶって時に『何の反応もしませんでしたァ!』なんてことになったら、マジで笑えない。相手の女性にも申し訳ない。

 それになにより、子孫繁栄がヤバイ。

 俺の子孫繁栄能力に問題があると一ノ瀬家がヤバイ。このままじゃ俺の代で一ノ瀬家がお家断絶になってしまう。


 え? 雪菜ちゃん? 

 ああ、あの子はねぇ……。16歳になったその日に「私は結婚しないので、孫は期待しないで下さい」って母親に言いきったからね。

 彼女が何を思って生涯独身宣言をしたのかは知らないし、その時は混乱したけど、今考えてみると……まあ、雪菜ちゃんならこういうこともあるか、と思う。

 だってあの子が普通に結婚生活してる姿とか想像できないからね。婚活女子に混じって婚活パーティに出たり、そこで出会った男と結婚したり、生まれた子供を乗せてベビーカー押したり、その子供を連れて実家に帰ってきたり、子供の反抗期に悩んだり、成人して家を子供が家を出て空っぽになった部屋を見て1人涙したり、孫のプレゼントに頭を抱えたり、相手に先立たれて1人孤独に生活したり……そういうの全然想像できないんだよね。

 うん。いいよ俺は雪菜ちゃんの意思を尊重する。頑張ってね。

 ただその宣言をしながら俺を見るのは勘弁して欲しかった。「どうせ兄さんも結婚できないのですから、この際一緒に宣言しては?」って視線。君の決意に俺を巻き込まんといて。

 俺は普通に結婚して、普通に子供は欲しいんだよ。子供とキャッチボールとかしたいの! 女の子だったら雷ちゃんのコスプレとかさせてツイッターにアップロードしたいの!


 ともかく、雪菜ちゃんに可能性がない以上、俺が頑張らなければならないのだ。


「何はともあれ、遠藤寺に相談だな」


 きっと遠藤寺なら……遠藤寺なら悩める俺を導いてくれるはず。

 なんかこう……探偵っぽく論理的な推理で原因と解決先を見出してくれるはずだ。だって遠藤寺だもの。


「はぁぁぁぁぁー……」

 

 しかし、朝から何でこんな憂鬱な気分にならないといけないのだろうか。

 それもこれも、早朝のこの雰囲気が悪い。

 月曜日の早朝特有の、気だるげな雰囲気が蔓延したこの空気。楽しい土日(おやすみ)が終わり、最悪な月曜日がやってきてしまった……そんな空気。


 周りを見渡すと、会社に向かうサラリーマンやら俺と同じく1限目の授業に向かう学生がちらほら見えるが、その誰も彼もが憂鬱そうな顔をしている。

 口から洩れるのは溜息ばかりだし、複数で歩いているグループの会話内容は愚痴とか今朝テレビでやってた暗いニュースとかばかり。

 こんな空気の中にいたら、そりゃ憂鬱な気分にもなる。

 

 何となく、周囲の声に聞き耳を立ててみる。


「はぁ……会社だるいわ。今すぐ会社に隕石(メテオストライク)落ちないかな……」「鈴木部長の野郎、マジムカツクわ。爆発して欲しいわ。鈴木爆発しろ、マジで爆発しろ」「授業だりーわ。なんで1限目から必修単位の講義とか入れちゃうかなぁ、ジュルスケ組んだやつの頭ハッピーセットかよ」「はぁ……早く仕事見つけないと。家追い出されちまうよ……でもなぁいい仕事ないよなぁ。どっかに巨乳JKの胸を下から支えるだけの仕事とかないかなぁ」「はぁ……深夜2時教に入信したのに、結局イシュ凛ちゃん出なかった……出たのはすまないさんだけ。もうすまないさん7人目だよ……」「この辺りにはいい感じのロリはいねぇのか。どこ見ても無駄に年食ったオッサンBBAばっかりじゃねーか。しゃーねぇ、ちょっと遠いが小学校の通学路で張り込むか」「はぁ……シドニーちゃんのホットパンツ日焼け跡エロかわゆ……」「あつまれ!ふしぎ研究部イケるやん!」


 などなど。

 どうやら、みんなそれぞれ悩みを抱えているらしい。つーか悩み抱えてる連中多すぎ。 

 連中が吐く白い息で通学路が喫煙所みたいになってる。


 だが、これだけ悩める人間達がいても、俺と同じ悩みを抱えている人間は1人もいないようだ。

 ま、俺みたいな20歳でEDに悩んでる野郎、他にいますかっていねーか、はは。みんなの悩み、会社がだるいとか上司がうぜえとか、テスト勉強してねぇとか彼女いねぇとか。ま、それは普通ですわな。

 かたや俺は電子の砂漠でお気にのエロ同人を見て、呟くんすわ。「Please wake up Johnny!(恐縮だが勃ってくれないかジョニー?)」ってね。


「はあ……」


 そしてまた一つ、悩める男子の溜息が俺の耳に入ってきた。

 発信源はすぐ目の前。俺を前を歩いている男だ。

 そいつは憂鬱な溜息を吐きながら、見ているだけでげんなりする闇のオーラを纏い、肩を落としながらトボトボ歩いていた。

 肩を落としすぎて片手に持ったカバン(大学生がよく使ってる薄っぺらいプラスチックのカバン)が地面でガリガリ擦れていた。


「はぁぁぁ……うぅ……」


 どうせコイツも他の連中と同じような、どうでもいい悩みを抱えているんだろう。ま、興味ないね。

 そう思い脳内アプリである脳内ソーシャルゲームを起動して脳内詫び石を受け取って脳内期間限定ガチャを回そうとする(通貨? 単位がSeroっていう俺の脳内独自の通貨。何か使いすぎると寝不足になる気がする……)

 じゃぶじゃぶ課金したくなるような射幸感を煽る画面をタップしようとした時


「何で……何でたたなかったのかなぁ……はぁ……」


 という発言がその男から聞こえて、思わずアプリを強制終了してしまった。

 今……コイツ、何て言った? たたなかった……そう言ったよな? た、勃たなかった……?

 

 ま、待て待て落ち着け。確かにそう聞こえたが、俺と同じ悩みを抱えているとは限らない。

 そうだ。もしかしたら、ア○プスの少女ハイジの50話を中途半端なところまで見て通学してきたのかもしれない。「クララなんかもう知らない!」って場面で家を出たのかも……だったら、この発言の意図も分かる。ネタバレしちゃうけどその後、クララ立つんだよ? 最後までちゃんと見なきゃ。

 そうだよ。俺と同じ悩みを抱えている人間がすぐ目の前にいるなんて偶然、あるはず――


「ぼく……EDになったのかな……まだ19歳なのに……赤ちゃんとか作れないのかなぁ……」


 い た わ。


 俺と同じ悩みを抱えた人間いたわ。しかもぼくっ子。

 まさかこの広い世界の片隅に、この時間、この場所で同じ悩みを抱える人間が2人もいるなんて……。

 これって奇跡じゃない? 運命すら感じる。つーか親しみを感じちゃう。

 よく聞くと声も可愛らしいよね。ショタ役やってる時のサイガーさんみたい。後ろ姿しか見えないけど、きっとルックスもイケメンだ。


 ――話しかけて……みるか?

 

 普段なら絶対思わないような考えが浮かんでしまった。

 それくらいに運命を感じたのだ。

 基本的にコミュ症の俺が、男相手に……思ってしまったのだ。


 新しい人間関係ってのは、こういう形で生まれる事もあるのかもしれない。

 いや、こういった変わったスタートの方が、より強固な人間関係を築けるかも……。

 俺がここで1歩を踏み出せば……新しい人間関係が築かれるのかも。


「こんなの……誰にも相談できないよ……」


 彼の心細い声が俺の心を震わせる。

 俺がいるぞ!と。

 2人なら心細くないぞ!と、言ってあげたい。そっと肩に上着をかけ「世界は終わりじゃないよ」って励ましてあげたい。


 そうだ。これは運命だ! 俺が彼に話しかけるのは運命に違いない。なぜなら、俺たちは運命の奴隷なんだから。

 運命に従い生きるのは人間のサガ。


 よし、脳内議会でも『話しかける』で意思は統一したし、話しかけよう。

 そして2人で悩みを分かち合い、協力するんだ。

 どんなに辛いことだって、2人ならきっと何とかなる。

 同盟……そう同盟を組もう。2人で問題(たたない)に立ち向かう――不起同盟。

 

 違エズ、裏切ラズ、勃タズ、我等生マレル時は違エドもにゃもにゃ……よし、誓いの言葉も80パー完成!

 あとは話しかけるだけ!


 知らない人に話しかけるのは緊張するけど……神よ! 俺を導いてくれ!


『うむ、よいぞ。行け』


 脳内に声が!? こ、これはまさしく信託……うおおおお! こりゃ行くしかねえ! 乗るしかねえ! このゴッドウェーブに!

 よし、あの電柱を通り過ぎたら――行くッ!


「キャオラッ!」


 電柱を通り過ぎた瞬間、俺は自分を駆り立てるように威勢のいい声をあげつつ、カカカッとフロントステップをした。

 そのまま悩める同志の肩に手を置く――


「だおォッ!?」


 ――瞬間、走ってきた何かに跳ね飛ばされ、真横にすっ飛ばされた。

 地面に倒れこみそうになるが、五点着地を駆使してなんとか体勢を立て直す。


 地面に手を付き、イケメンにのみ許される真実のポーズのまま、俺を跳ね飛ばしたアンノウンを睨みつける。


「はぁっはぁっ、や、やっと……追いついた……!」


 アンノウン――ツインテール金髪の何者かは息を荒げたまま膝に手を付き、俺の同志を睨みつけていた。

 同志は戸惑った様子でツインテール金髪(以下ツン髪)を見る。


「え? ど、どうして……」


「どうして、じゃないわよ! なにあたしを置いてってんのよ!」


 キィィィィッ! ちょっと誰よこの女! 俺と同志の間に割り込んでくるとか……許さんぞ!

 いや……女、か? 一見どう見てもテンプレツンデレ女に見えるが……男の娘って可能性もある。

 まさかコイツも同じ悩みを抱えているのか? そんな事がありえるのか? スタンド使いはスタンド使いに引き寄せられる……そんな引き寄せの法則が俺たち不起同盟にも適用されたのか?

 3人目の同志、か。そうだな。1人より2人、2人より3人……そうやって人の輪は広がっていくんだよな。よし、いいよ。君も誘ってあげる。

 これで不起同盟も3人。俺、ショタ、男の娘……ちょっとバランスが悪いな。次は男臭いマッスル辺りを募集してバランスをとりたいね。 


「はぁっ、はぁっ……んっ……ふぅ」


 いや、違う……か。こいつ間違いなく女だわ。俺の中にある女子(オナゴン)レーダーが反応している。

 コイツは女子だ。俺たち同盟とは何の縁もない一般女子。

 何の用だ……?

 

「朝起きたらベッドからアンタいなくなってるし……あたし、びっくりしたんだから」


「ご、ごめん……」


 な、何だよこの会話。まるできのうはおたのしみでしたね……みたいな。


「何で先に行っちゃったの?」


「……」


「あたしが……何かした?」


「ち、ちがっ!」


「じゃあ……昨日のこと?」


 昨日……昨日一体何があったんだよ! 同志とお前の間に一体何が……。

 というか俺はどのタイミングで立ち上がればいいわけ? いつまで生まれたての小鹿みたいにプルプル震えてればいいの?


「……だ、だから……その……」


「えっと、その……アレがその、たたなかった……そのこと?」


「……!」


 同志が泣きそうな表情になった。どうやら図星だったらしい。

 つまりこの2人は昨日アレをアレしたけど、同志のアレがアレでショックを受けてアレな感じなのか……。

 フフフ、やはり同じ悩みを抱えている同志で確定! 後は同盟に誘って2人で立ち向かっていく青春ストーリーの幕開けだ! 

 つーわけで女子、てめえはさっさと消えろ。ぶっとばされんうちにな。

 

「……ごめん。僕、その……」


「今日も――」


「え?」


「きょ、今日も……あたしの家、親いないの」


「そ、それって……えっと……」


 おや? 雲行きが怪しくなってきたぞ……。

 ここは落ち込む同志を説得できずに女子が去り、俺がそっと彼を慰める……そんな展開じゃないの?


「い、言わせないでよ恥ずかしい! 昨日は緊張してたからでしょ? ……あたしだってそうだもん。だから……何回かしたら、慣れて……ああ、もう! だから言わせないでよ恥ずかしい!」


「ごめん……」


「バカ! バカバカ! ほら、だから……学校、行こ」


「……うん。僕、今夜は、今度こそ……頑張るから」


「……もう、バカ」


 そして2人は幸せなキスをして終了。仲良く手を繋いでスタスタ歩いていった。

 

 残された俺はというと、同盟締結直前に脱藩者が出て、悲しくて寂しくてただ女王様に鞭でケツを叩かれるポーズのまま、彼らを見送ることしかできなかったのだった。

 ガメオベラ。



■■■


 ゲームオーバーの後も俺の人生は続くらしい。しかも負債満載で。

 何とか立ち直って通学を再開した俺だが、目の前では先ほどのカップルがイチャイチャしながら歩いている。

 

「……ねえ、もっとくっついていい?」


「う、うん。今日、寒いしね」


 何で朝からこんな物を見せ付けられなきゃいけないのだろうか。前世、もしくは前前世、または前前前世辺りで行った悪行の負債請求が今頃になって来ているのだろうか。

 ただでさえEDとかいうキツイ悩みを抱えているのに、目の前で朝からイチャコラパラダイスを見せ付けられるとか……俺って今この瞬間で言えば、世界一不幸な美少年かもしれない。え? 美少年ではない? 微少年? 知ってるよ……。


「ふふっ、あんたの手、あったかい……」


「ぼくも……あったかいよ」

 

 端的に言って死ね。

 つーか寒くないし! 全然寒くないし! 

 俺、今結構暖かいし。まるで誰かが側で寄り添ってるみたいに暖かいし。別に強がりとかじゃないし!

 多分あれだな。これがきっと嫉妬の炎ってやつだな。初めて同性の友人が出来るだろうチャンスを奪われた俺の心が燃やしている嫉妬の炎のおかげだ。

 はぁ……あったけえ……嫉妬の炎あったけえわぁ……。これから毎日燃やそうぜ!ってくらい心地よい暖かさだ。


 桃色濃霧注意報の発生源となっている目の前のカップルを睨みつけながら、大学への道をひたすら歩く。

 暫く歩いていると、突然視界が闇に覆われた。


「は!?」


 急に何も見えなくなって戸惑う。

 周囲を見渡そうとするも、首が動かせない。何かにガッチリと固定されているようだ。

 これは……腕か? 頭の左右を腕らしき物に固定されている。

 とりあえず悲鳴をあげる前に、出来るだけ状況を把握しようと試みる。目の辺りに何者かの肌の暖かさを感じる。

 どうやら突然暗くなったのは、何者かに手で目を塞がれてしまったからのようだ。

 そしてそれが何者か……


「……」


 生暖かい吐息が耳にかかる。この吐息……何か思い出しそうだ。吐息に混じってほんのり感じる香り……。

 背中には布越しでも柔らかさを感じる二つのお山。

 そして嗅ぎなれた果実のような甘い体臭。

 知っている……俺はコイツを知っている。


「……だーれだ?」


 そして発せられるどこか緊張した襲撃者の声。

 俺は架空のボタンをピンポーンと早押しして、答えた。


「遠藤寺!」


「……ふっ、正解だよ」


 声の主は満足そうに言って、目隠しを外した。

 目の付近を圧迫されていたからか、目を開くと風景がぼんやり歪んでいた。

 それに構わず背後に向き直ると、正解の言葉通り、そこには遠藤寺が立っていた。


「やあ、おはよう。いい朝だね」


 わずかに首を傾げ、ミリ単位で口角を吊り上げて挨拶をしてくる遠藤寺。

 

「ああ、おはよう。つーか、いきなり何すんだよ」


「ん? ああ、ちょっとした悪戯心ってやつで……気分を害したのなら謝るよ」


 気分を害しただと?

 むしろもっと堪能しとけばよかったと後悔してるわ。朝から遠藤寺に密着するとか、最高じゃん! 仮に俺がデスロード系の能力持ち(死んだらセーブしたポイントからやり直せる能力。マッドマック○とは関係ない)だったら、さっそく自害して何回でもこの瞬間をやり直すわ。


「怒っていないのなら安心だ。しかしアレだね。生まれて初めてああいった行為をしたけど……とても緊張したよ」


「緊張?」


「ああ、緊張したよ。今も少し心臓がドキドキしている。君に貸して貰った推理漫画に描いてあったから試しにやってみたけど……うん、ヒロインがあれほど緊張した理由を身を持って理解したよ」


 ああ、あのラブコメ入った推理漫画ね。

 あのシーンのヒロインがまたいいんだわ。ちょっとお茶目心出して『だーれだ?』ってやったけど、後で『……あ、あんなにくっついちゃって……恥ずかしいっ』みたいに家のベッドで悶えるヒロインの可愛いこと可愛いこと。

 つまり遠藤寺もこの後、ベッドで悶える可能性が? 枕に顔を突っ伏してジタバタしちゃうの? 見たい。超見たい。


「力加減を間違えれば、相手の目を潰してしまうかもしれないという緊張感。これほどの緊張感を味わったのは久しぶりだよ」


 想像してたのと違う。

 危うくティンペーとローチンの人になるところだったのか俺……。

 うーん、今になって俺の方が心臓ドキドキしてきたぞ。

 人の目を潰しかけといて、くつくつ笑う遠藤寺に「何が可笑しいッ!」と渇を入れようとしたが、まあ……遠藤寺さんが満足そうならいいです。


 しかし今日の遠藤寺、いつも通りのシニカルな笑みを浮かべている様に見えるけど……何か違うな。

 こう何ていうか表情に「ムッ」とした物を感じる。言葉もどことなく棘があるように聞こえる。

 俺の気のせいかもしれないけど。


「とりあえず驚くから次からはやめてくれ」


 と言葉では言いつつも、内心ではこういったサプライズ的スキンシップはドンドンやって欲しいと思っているツンデレな俺。だってこういうのってすげえ仲のいい友達同士のアレじゃん。

 具体的に言うなら、週4日ほどのペースで定期的にお願いしたい。んで、背中に当たる感触から、日々の遠藤寺の成長(主に胸部)を観察して記録したい。無論記録(データ)は漏洩しないよう、俺の頭の中だけにしまって墓の中まで持っていくので心配なく。


「驚かせてしまってすまないね。でも、君が悪いんだぞ? ……ボクを無視するから」


「は? 無視?」


「ああ、そうさ。さすがのボクもショックでね。ちょっとばかし君を驚かせたいと、悪戯心が湧いてしまったのさ」


 無視って、何のことだ?

 俺が遠藤寺を無視するなんてことありえないし。そんな事して、遠藤寺から仕返しに無視されたらとか考えるだけでも恐ろしいし。

 もしそうなったら、凄まじいショックで心が砕け散って砕け散った心が異世界と繋がってる井戸の中に落ちてそれを追った先で出会った犬耳少女と一緒に心の破片を探す旅に出発することになるかもしれない。そういえば○勒様にも風穴はあるんだよな……ゴクリ。


「無視ってなんのことだよ?」


「通学中に君の気配を感じたから、ずっと待っていたんだよ。少し戻った所に電柱があるだろう? あそこで待っていたのに、君はボクを無視して目の前を素通りして行ったじゃないか」


 わずかに眉を寄せてそんなことを訴える遠藤寺。

 電柱……? 確かに電柱は通った覚えがあるが、そこに遠藤寺がいたかどうかは覚えていない。 

 確かその時は目の前の同志を勧誘するのに夢中だったから……。


「スマン、まったく気づかなかった」


「本当に? 朝から君に会えたのが嬉しくて、柄にもなく手を振っていたのに?」


「……スマン」


 全く気付かなかった。ていうか見たかった。

 手をフリフリする遠藤寺ちゃん見たかった……心のCGギャラリーに保存したかった……。


「む。だったらその後、ずっと君の後ろに張り付いて歩いていたのに、それにも全く気が付かなかったのかい? ちっとも?」

 

「え……」


「殆ど密着するくらい、君と体温を共有するくらいの距離で歩いていたのだけど……全く?」


 そんな烈海王みたいな事いつのまに……あ、でも誰かが寄り添ってるみたいな暖かさを感じた記憶はある。

 アレ、嫉妬の炎じゃなくて遠藤寺の暖かさだったのか。

 気が付かなかった……。


「その顔じゃ、本当に気が付いていなかったんだね」


 呆れたような表情で遠藤寺が言った。

 そりゃそんな距離で気づかないとか、呆れるわな。


「……君、朝とはいえ少しぼんやりし過ぎじゃないかい?」


 咎めるような口調の遠藤寺。


「そこまでボンヤリしてたつもりは無いけど……」


「いいや、していたね。かなりボンヤリしていたね。ここまでボンヤリしている人間を見るのは、ボクの人生で初めてだよ」


「はぁ……」


「はぁ、じゃないよ全く。君ね、ここが何の変哲もない通学路で、ボクが何の変哲もない普通の親友だったからいいよ? もし仮に。仮にだよ? ここが外界から孤立している、連続殺人真っ最中の洋館だったらどうするんだい? そんなボンヤリしていると、真っ先に殺されるよ? ダイイングメッセージを残すこともなく、あっさりと。物語的にも2行ほどでしか描写されないくらいつまらない死に方で」


「普通の人間は孤立した洋館とか行かないんだけど……」


「仮にと言っただろう? いいかい? 要するに君は危機意識が薄いということを言いたいんだ。常に気を張ってろとは言わないけどね、最低限周りに気を配ることくらいすべきだ、と。そういうことを言っているんだ。この際だから言わせて貰うよ。ボクが言うのもなんだけど君は鈍感――」


 朝から多弁な遠藤寺。

 これはつまりアレか。


「遠藤寺怒ってる?」


「はぁ? 怒ってる? ボクが? ハハハ、相変わらず君は面白いことを言うね! まさかこのボクに向かって! 怒ってる、だって? どんな時、どんな場所でも常に探偵として冷静であることを誇りとしているボクが? 怒ってる?」


 遠藤寺はいつもの皮肉気な笑みを浮かべたまま言う。

 ていうか顔が近い。声が普段より少し大きい。ちょっと唾飛んできてる。ペロペロ。


「朝から目の前を素通りされたくらいで? いいや今のは何かの間違いだろう、親友である君がボクを無視するなんてありえない、ほらちょっと後ろを歩けばすぐに気づくだろう、ええいどうだ? この距離で歩いて気づかない人間なんていないだろう、だが全く気付かれなくて? おや、これはまさか、意図的にボクを無視しているんじゃないか? ボクは何か君を怒らせることをしただろうか? 分からない。分からないぞ。分からないけど、何だか心がザワザワする。ああ、もうこういう時どうすればいいんだ。――そんな風に混乱させられて? 怒ってるか、だって? ――怒ってるよ!」


 どうやら俺は遠藤寺を怒らせてしまったらしい。


「ああ、ズバリそうだ。怒ってるよ。君に朝から無視されて怒ってるさ。そして無視をされたくらいで腹を立てている自分が情けなくて怒ってるよ。君が無視をしていたわけじゃなく、ただボンヤリしてて気づかなかっただけど聞いて、ホッとしている自分がいて何だかそれも腹が立つ。それから何だかんだと君と会話を交わしていると、楽しくてもう怒っていたことなんて既にどうてもいいと思い始めている自分の意味不明さにもね!」


 遠藤寺は捲し立てながら、更に顔を近づけてくる。

 近い近い。

 

 遠藤寺と出会って3ヵ月になるが、こうやって分かりやすく怒っている姿は初めて見る。

 基本的には何事にも動じない、悪く言えば喜怒哀楽の機微が殆ど無い人間だったのに。


「ああ、認める。認めるさ。ボクは怒ってる。この際だから告白してしまうけど、この間、君が家にいる幽霊少女のことで惚気られた時もちょっと……いや、かなり怒っていたよ」


「食堂で箸バキバキに折ってたアレ?」


「そうアレだ。家に帰ってからもその時の話を思い出してしまって、お気に入りのワイングラスに皹を入れてしまったよ」


 想像してみる。

 家で優雅にワイングラスを片手にワインを嗜んでいる遠藤寺が、ふと日中のことを思い出し手に力が入りワイングラスにヒビを入れてしまう光景を。

 ヒビからワインがピューピュー零れて、慌てて掃除をする遠藤寺を。

 その原因が俺だということに申し訳なさを感じてしまう。


「ごめん遠藤寺」


「……」


 遠藤寺は無言のまま、ジッとこちらを見つめてくる。

 暫く俺の顔を見つめていた遠藤寺は、はぁと深く息を吐いた。

 

「……手」


 遠藤寺が手を差し出してきた。

 

「え?」


「だから、手……だよ」


 どういう意味だ?

 許してやるから、お手をしろってか? 犬になれってこと? イエスならワン、ノーならワンワン?

 

「だから。許すよ。許すから……ほら、握手だよ。仲直りの握手」


「ああ、うん」


 遠藤寺の手をギュっと握る。


「……ん、暖かい手だね」


 そう言う遠藤寺の手はとても冷たかった。見れば遠藤寺の唇は薄っすらと青白い。

 一体どれくらいの時間、俺を待っていたのか。

 分からないけど、相当長い間待っていないと、ここまで冷たくならないだろう。


「何か、ゴメン。結構長い間、俺を待ってたんだよな。それなのに気付かなかったとはいえ、無視して……ゴメン」


「いいさ。近づいてくる君を待つのは全く苦痛じゃなかったよ。それどころか楽しかった。待つだけなのに楽しいなんて初めての経験だったよ」


「……ちなみに俺の気配を感じて、どれくらい待ってたり?」


「ん? 時間にしてたった20分くらいだよ」


 20分も俺を待っていた遠藤寺をスルーしてしまったのか。本当に申し訳ないな。今度、何か埋め合わせでもしないと。


 それはそれとして、20分前から俺の気配を察していたということは、俺の歩行速度から計算すると、遠藤寺の索敵範囲が半端ねえことになるんだけど。

 遠藤寺とかくれんぼしたら、絶対に勝てないな……。

 

「うん、怒り切ってスッキリした。いきなり怒ってしまってすまないね。……どうにも君と出会ってから、こんな風に自分の感情を制御できなくなることが時々ある」


 確かに。昔のあまり感情を表に出さない人形のようだって遠藤寺と比べて、今の遠藤寺は随分感情を表すようになった。

 あまり交流のない人間では分からないだろうけど、怒ったり、拗ねたり、寂しがったり、喜んだり……そういった普通の女の子みたいな感情表現がかなり分かりやすくなった。

 そういう風に遠藤寺を変えてしまったのは……俺なんだろうか。俺如き存在が、本当に遠藤寺に影響を与えているのだろうか。

 俺がやったのは遠藤寺と一緒に大学生活を過ごして、遠藤寺が知らないだけで誰でも知ってるような些細で特に面白みもない話をしたり、小説しか読んだことしかない遠藤寺に漫画を貸したり、一緒に飯を食ったり、大学生らしく酒を飲んだり、困ったことを相談したり……それくらいだ。

 それくらいで人は変わるのだろうか。


 もしそうだったとしたら……遠藤寺という周りに決して染まらない圧倒的な『白(個性)』を俺という斑色で汚してしまったことへの優越感染みた背徳を感じる。

 恋人を自分色に染め上げる……というのはこんな気分なのかもしれない。いや、別に恋人同士ではないけど。


 ただ怖いのは遠藤寺本人が自分の変化についてどう思っているか、だけど。


「……まあ、こうやって自分の感情に振り回されるのも、これはこれで楽しい。自分の感情ながら未だに理解が出来なくて興味深いしね」


 と、好意的な様子。

 その様子を見て俺は安心した。

 変わることを遠藤寺が拒絶し、俺の元から離れていく可能性もないとはいえない。が、どうやら今のところは大丈夫なようだ。

 もし遠藤寺が俺に愛想を尽かして去っていったら……考えるだけでも恐ろしい。

 唯一の親友を失った俺の心はきっと耐えられないだろう。冗談抜きでマジで心が砕け散る。

 つーか『はぁ……もういい。君に興味が無くなった』って言いながら遠藤寺が去っていくのを想像しただけでも、心に皹が入りそう。俺の心脆すぎ。


「さて、そろそろ学校に向かうとしよう。……ふむ、せっかくの暖かい手、このまま離してしまうのは惜しいね」


 何やら思案顔でぶつぶつ呟く遠藤寺。


「ん、もう片方の手を貸してくれないか?」


 言われた通り、遠藤寺と握手をしていた手と反対の手を差し出す。

 そのまま先ほどまで握手をしていた遠藤寺の手が、今差し出した俺の手を握った。ややこしい。つまり俺の左手と遠藤寺の右手が連結したってこと。

 うーん、遠藤寺の手、暖かいナリ……。


「よし。今朝は寒いからね。うん、じゃあ行こうか」


 そのまま手を引かれる。

 いや、行こうか、じゃないから。


「あの、遠藤寺さん。手……」


「うん? 手がどうかしたのかい?」


 いや、どうもこうも、お手てとお手てがチュッチュしちゃってるわけで。手と手のシワを合わせてかなり幸せなんだけど、ちょっと待って欲しい。

 流石に親友同士はいえ、女の子と手をニギニギして通学するのはどうかと……つーか恥ずかしい。


「その……ね。手を繋いで歩くとか……なぁ?」


 「手を握って歩いて噂とかされたら恥ずかしいし……」なんて言うと、ちょっと自意識過剰みたいで恥ずかしい。

 ここは遠藤寺に自ら気付いてほしい。


「ほら、前を歩いてる2人いるじゃん?」


 目の前でイチャイチャしながら歩くカップルをさす。

 どうか気付いてほしい。通学路を手を繋いで歩くのは、カップルだけの特権だということを。

 もしくは小学生の集団下校だけ。

 それをどうか気付いてほしい。


「ああ、いるね。――ああ、そういう事か」


 さす遠。それだけで理解してくれたようだ。

 察してくれた遠藤寺は、そのまま手を放す――かと思いきや、握っている手の指をグニグニ動かし、俺の手の隙間に捻じ込みだした。

 瞬く間に遠藤寺の指と俺の指が絡まりあう。


 ――こ、これは恋人繋ぎ!


 知っているのか一ノ瀬辰巳! 

 ああ……指と指を絡め密着させる最上級の手繋ぎ……もはや手と手の間に隙間は無く、完全にお互いの手が同化していると言っても過言ではない。

 恐ろしいまでの肌の密着度合い、そして身体の一部を絡め合う……もはや一種の○ックスと言える! 通学路、衆人観衆の中でセ○クス! 

 遠藤寺と繋がったままこんな街中歩くなんて頭がフットーしそうだよおっっ!!!


「うん、確かに。こっちの方がいいね。肌がより密着するから、ずっと暖かい。ふふっ、さっきより一層君の体温を感じられる」


 違う遠藤寺、そうじゃない。

 親友同士ではちょっとやり過ぎなスキンシップ方法に物申そうとした俺だが、絡まった指の1本1本に遠藤寺の体温を感じて、この暖かさを失うことへの迷いを感じる。

 恥ずかしい。だが離すのも惜しい。

 俺の悩みを示すかのように、天秤が揺れる。グラグラ揺れる。


 結局。

 遠藤寺のスベスベで暖かい手から逃げられなかった俺は、生まれて初めて女の子と手を繋いだまま通学するという恥ずかし嬉し体験に身を捩りつつ、遠藤寺が振ってくる言葉に相槌を打つのだった。


■■■


 

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