第23話これが――俺の縮地力?(遂に手に入れた力。斬ったものを万物問わず任意の距離を一瞬で移動させる――縮地刀《マタタキ》)




 ある日の午後。

 食堂でエリザが作った弁当を食べ終わった俺は、その足で自宅への帰路についていた。

 午後からも授業はある。……が、どうにも出席する気にならなかった。

 やる気の問題だ。

 今日は何となくやる気が午前中までしか維持できなかったのだ。


 午後までやる気が維持できなかった要因は色々ある。

 いつも飴くれる小学生が風邪ひいてて飴貰えなかったり、通学中に肉屋のオッサンが小学校の前でにやけているのを目撃したり、午前中は遠藤寺と違う授業で遠藤寺と会えなかったり、1人で昼食を摂ることになったり……と色々あるが、一番大きいのは、朝に大家さんと会えなかったことだ。

 

 朝、学校に行く前に大家さんとお喋りするのは俺にとってやる気を充電する重要な機会なのだ。

 可愛らしい大家さんの溌剌とした(それでいてあざとい)仕草や言葉を味わうとそれだけで来世分まで生きる気力が湧く気がする。

 そんな大家さんとのグッドコミニュケーションがなかったのだ。

 それだけで午後の授業に挑むやる気は失われてしまった。


 そういう日は早々に帰るに限る。


「それに大学生ってサボってなんぼってところあるしな」


 サボっていることにまだ罪悪感を覚えているのか、自然と自己弁護の言葉が出てきた。

 これで開き直るようになれば、もう立派なサボリ常習者だ。

 まだ言い訳をしている時点で、俺は大丈夫……のはず。心の底から常習者になれば罪悪感なんて覚えてないはず。


 実際たまにしかサボってないし……。『テストだけ出れば余裕っしょ』とか言って最初の授業以来1度も出席していない頭の悪そうな奴に比べれば……。ああ……でもどうなんだろ。イカちゃんは1回でも授業をサボるような奴、嫌いかなぁ……。だったら嫌われたくないし、今からでも皆勤賞狙うけども。でもぶっちゃけイカちゃんって漫画のキャラで現実には存在……イカンイカン! それを考えちゃイカん! 


 二次元愛好家にとって至ってはいけない結論にたどり着こうとした思考を、頭をぶんぶん振ることで追い出す。

 イカちゃんはいる。まだ俺の前に現れていないだけで、この広い海のどこかにいるんだ。いいね。

 そういえば最近イカちゃんのこと考えるのが少なくなってきた気がする。

 代わりに遠藤寺とかエリザとか先輩とか、身近な人のことを考えるのが多くなってきた。

 これっていいことなんだろうか。


 それはそれとして、遠藤寺にLINEでメッセージを送る。


『午後からの授業サボサボするので、代返よろしくお願い』


 という文章を打ちながら歩く。

 授業中のはずだが、遠藤寺からの返事はすぐに帰ってきた。


『了解です。一応聞いておきますが、授業に来ない理由はなんですか? 体調でも崩しましたか?』


 遠藤寺はメールやLINEだと普通の敬語で正直戸惑う。

 最初返事が来たとき、業者からのメールと思って消去しかけたくらいだ。

 何となく気分が乗らないので、と返信。


『そうですか。あまり褒められた理由ではありませんね。できればそういった理由で授業に来ないのは控えて欲しいと思います。それに1人で授業を受けるのは正直退屈です。隣に君がいるとそれだけで退屈な授業もそれなりに楽しいと思えます。明日はちゃんと来てくださいね』


「……」


 正直リアクションに困る内容だ。

 隣に俺がいた方が楽しいって言うけど、一緒に授業受けててもアイツ真面目に授業聞くだけで俺と雑談するわけでもないし……。


 LINEの画面を睨みつけるように歩いていると、突然


「そこのおにーさん」


 と声をかけられた。

 いきなりかけられた声に、スマホから視線を上げ声の主を見る。

 ポニーテールが似合うジャージ少女が、ランニング状態で足を止め、こちらを見ていた。

 こちらを諭すような表情。

 周りを見るが、俺以外に人はいない。

 俺に話しかけているのか。

 少女は俺の手元を指差した。


「歩きスマホは危ないからやめた方がいいよ」


 どうやら歩きスマホを注意されたらしい。

 高校生くらいだろうか。見知らぬ相手を注意するのは相当勇気がいる行為だろうに、それも年上相手に。

 気持ちのいい正義感。素直に好感を持った。

 スマホをポケットに入れ、頭を下げる。


「そうだな危ないしな。ありがとう注意してくれて」


 俺が素直に謝罪とお礼を述べると、ジャージ少女はニンマリと満足げな笑みを浮かべた。

 歯並びのいい白い歯が太陽に照らされてキラリと光った。

 あの歯で手首の出っ張ったところアマガミされてぇ……そんな欲求が生まれたが、それを表に出すとポリ公がカミングスーンなので、心の奥に閉まった。


「ん! じゃあねおにーさん!」


 少女は元気の篭った声でそう言い、ポニーテールを揺らしながら走り去っていった。

 汗の混じった残り香が風に運ばれてきた。


「スポーツ少女か……いいな」


 自分の中に無かった新たな嗜好が生まれるのを感じた。

 中学高校と部活に縁のなかった俺にとって、初めてのタイプだ。

 何だかよく分からんが……いい。

 よし、今日の脳内議会には『スポーツ少女萌え』を議題にあげよう。あまり白熱し過ぎて『谷○子のどこに萌えを感じるか』みたいな議題までいかないように、俺が調整しなければならない。これ理性担当の辛いところね。


 しかし、あのジャージ少女、どこか引っかかる。会ったことがないはずだけど、何故か覚えがあるというか……。

 それにあの顔。誰かの面影を感じてしまう。

 多分気のせいだろうし「君、どこかで会ったことない?」なんてナンパ王道セリフを吐いたら、それこそポリ公のお世話になってしまうだろう。

 2度と会うこともないだろうし、気にすることもないか。


 そんなことを考えながら、スマホを取り出し、遠藤寺に伝言を送る。


『いつも代返ありがとう。お前にLOVE☆ズッキュン!』


 スポーツ少女と出会って若干テンションが上がったのか、文面も少々ノリ気味だ。


 このときの俺は気づかなかった。メールの宛先が間違っていたことに。

 遠藤寺ではなく――雪菜ちゃんにメールを送っていたことに。このことに気づくのは、もう少し後の話だ。




■■■



 夏になり厳しくなってきた暑さを避けるように影を歩き、やっとこさアパートに辿り着いた。

 汗で服が張り付いて不快に感じる。


 まだ本格的な夏にもなっていないのに、この暑さは正直しんどい。

 夏本番になったら、俺は一体どうなってしまうのだろうか。

 溶けてバターになってしまうかも……まあ、その時はそこそこ高級な食パンに塗られて、できることなら大家さんに食べられたいね。


 食べられるで思い出したけどこの間、ビルくらいの大きさになった大家さんに丸呑みされる夢を見たんだけど……俺大丈夫かな。夢って人間の深層心理とか表すらしいけど、そんな夢を見る俺ってどうなんだろうか。

 

 何はともあれ大家さんだ。朝補給できなかった大家さん成分を補給しなければならない。

 今の俺には早さよりも何よりも大家さんが足りない。足りないで思い出したけど、ボク達には野菜が足りないってラノベが昔あったね。全然関係ない話だね。


 アパートの門をくぐり、周囲を見渡す。感覚を鋭敏にして、大家さんの痕跡を探す。気分は○ィッチャーだ。

 だがこの時間に庭を掃いていることが多い大家さんの姿は……なかった。

 大家さん特有の向日葵のような匂いの残滓も感じない。


「はぁ……」


 可愛いジャージ少女との遭遇で若干満たされたやる気が、一瞬で底をついてしまった。

 今日は大家さんと会えない日らしい。憂鬱だ。


 肩を落としながら庭を突っ切り部屋に向かう。


 庭を突っ切る際、大家さん手作り家庭菜園とかなり大きめの池を通る。


 この池、かなり大きく長さが10メートルほどある。そんな巨大な池がある庭はどれだけデカいんだよとか、これ絶対最初の方の描写より庭でかくなってるだろといった突っ込みが入ると思いますが気にしないで欲しい。彼岸〇に比べたら可愛いもんだろ。


 その池の側と通る際、妙なことに気づいた。池の水面が揺れている。風も吹いていないのに。

 少し気になって池に近づいた。


「ん?」


 岩でできた池の囲いに足をかけ水面を観察していると、水中に小さな黒い影が見えた。

 影は徐々にその面積を増やしていく。

 何かが浮き上がってきているのだ。


「なんだ?」


 観察を続ける。

 影は結構な大きさになり――ザバっと音を立てて水面を突き破った。


「――ぷはぁ! やりました! 私の勝ちですねっ!」


 何かが喋りながら水面から現れたので、あ、これ斧落としたら金銀パールの斧とかにして返してくれる系の女神だわって思った。

 女神はスクール水着を着ていた。脇を恥ずかしげもなく露にして、右手を突き上げていた。


「これで28戦14勝13敗1引き分け――ふっふっふ、まだまだ私もいけますね! ブーちゃん、貴方の敗因は一つ、魚介類ということにあぐらをかいていたことです! 人類舐めとったらいかんですよー!」


 勝利の笑みを浮かべていた女神は、水面を心なしからしょんぼりしながら泳ぐ背びれに向かって言った。ブラックバスだろうか。

 女神は架空のカメラと観客に向かってダブルピースをしている。


「はい、ダメかと思いました。でも応援してくれてるみんながいたから、頑張れました! ちょうきもちいい!」


 そして架空の勝利インタビューらしき行為。

 事情はよく分からないが、何か勝負のようなものに勝ったらしい。


 で、よくよく見たら池の中から女神は……スクール水着を着た大家さんだった。まあ女神には違いないわな。

 普段は和服を着ていて滅多に露出しない肩やら脇が丸見えで、俺は喜びと賞賛を表すように親指を立てた。ついでに軽く写メった。


 満足するまで写メったので、学校の池で飼っている亀に餌をやるポジションで、大家さんに声をかけた。


「どうも大家さん」


「へ? この声は……一ノ瀬さんですか? ドーモ。イチノセ=サン、オオヤサン=サンです」


「どーもオオヤサン=サン、イチノセ=サンです」


 俺は陸から、大家さんは水の中から挨拶をした。

 挨拶は大切だ。挨拶をしない人間はクズといってもいい。


「で、何やってるんですか大家さん」


「やーですねぇ、見て分かりませんか? 泳いでるんですよー。いやー、例年通りなら我が家の池開きはまだまだ先なんですけどねー。ほら、最近暑いじゃないですか。というわけでいつもより早く池開きです!」


 池開きなる行為が何か分からないが……確かに最近は暑い。日中もそうだが、夜ともなると日本特有のじめっぽい暑さが部屋に蔓延する。

 我が部屋にはエアコンなんて高度な文明の利器はない。ではどうやってその暑さを乗り越えるかというと……秘密だ。だがヒント一つだけあげるなら――ネクストタツミズヒント! 『エリザの体温は低い』これだ。発達した幽霊の体温はエアコンと変わらない……何言ってんだ俺。


「そうだっ、一ノ瀬さんも一緒に泳ぎませんかー? 冷たくって気持ちいいですよー」


 水面から首だけを出していた大家さんが、岩で作った池の囲いに上半身を乗り出しつつ言った。

 アシカショーのアシカみたいだ。

 そのままオイデオイデと手招きをしてくる。


 対する俺はちょっと及び腰。


「いや、流石に何がいるか分からない池の中に入るのはちょっと……」


「えー? だいじょーぶですよ! この池に住んでるのは優しいお魚ちゃんや蛙さんや水棲昆虫、可愛いワニちゃんなので、安全ですよー?」


「明らかに生態系ぶっ壊してんのがいるんですけど」


 ワニって言ったか? ワニなんてグレネード食わせて爆殺されるイメージしかないけど……実際はマジでヤバイんだよな。何か嚙む力が生物の中で一番凄くて、2トンとかあるとか……。美○蛮さんのざっと10倍だ。そんなヤバイ生き物がいる池とか、マジで穏やかじゃないわね……。


「さあさあ、遠慮せずに。あ、もしかして一ノ瀬さんって金槌だったりします? だったら私が泳ぎ方教えてあげますよっ。私こう見えて泳ぐのすっごい上手いんですから! 学生の頃、おてんば人魚ってあだ名つけられてましたからっ」


 電気属性に弱そうなあだ名だ。


「いいえ、俺は遠慮しときます」


「まあまあそう言わずに。ザバンと入っちゃいましょうよ。流石にそのまま入ると危ないので、水着に着替えてからですけど。あ、でも……下着でも大丈夫かも……な、なんちゃって!」


「ですからパスで」


「あ、もしかして溺れたりするの心配してます? だいじょーぶです! 私、こう見えて水難救助の資格も持ってますから!」


「いいですって」


 繰り返し否定する俺に、流石に何かおかしいと気づいたらしい。


「……あ、あの一ノ瀬さん? さっきからなんか、こう……距離を感じるんですけど」


「いやぁ、気のせいじゃないですかね」


「で、でも何ていうか……私を見る目が何やら痛い子を見る目なんですけど」


 隠していたつもりだが、俺の視線は思っていた以上に素直らしい。

 正直に言うと俺は、若干大家さんに対してひいていた。

 想像して欲しい。もし貴方が学生で憧れの先輩がいて、ある日その先輩が学校の池でザバザバ泳いでいるのを目撃したらどう思う? ブラックバスと競争して。しかも超楽しそうに。まず間違いなく距離を置くだろう。 

 もしここがプールなら、ジュニアアイドルのイメージPVみたいに健全かつさぞ魅力的な光景だろう。だがここは池だ。藻とか浮いてるし、大家さんの言葉が正しいなら、夢の水棲生物王国状態だ。


 大家さんは俺の態度に違和感を覚えたのか首を傾げ、腕を組んで何やら考え込んだ。

 そして徐々にその顔を真っ青にした。


「い、いや……まさか。――あ、あのー……た、例えばですよ? 例えばの話なんですけど! 自分の敷地内にある池で泳いでる女の子がいたとして、一ノ瀬さんはその子を見てどんな感想を抱きます?」


「やべえ奴がいるぞって思います」


「マジですか!? ヤベエですか!? な、なんでですか? あ、じゃあアレは!? 家の庭でビニールプールで遊んでる子供は!?」


「可愛いと思いますね。もし大家さんがビニールプールで水遊びしてたら、さぞ魅力的に映るでしょう」


「池なら!?」


「正直ひく」


「うわあああ!」


 大家さんが悲鳴をあげた。悲鳴が水面を揺らす。


「うわぁぁぁん! 一ノ瀬さんにひかれたぁ! 嫌われたぁ!」


 立ち泳ぎをしながら涙を流す大家さん。なかなかにシュールな光景だ。


 とか観察してる場合じゃねえ!


「ちょ、大家さん!? そんな大きな声で泣かないで下さい!」


「そりゃ泣きますよ! 良い年してワンワン泣きますよ! よくよく考えてみたら、家にある池で泳いでたら私だってドン引きですよ! 昔から泳いでたから疑問とか無かったですけど、これよく考えたらかなり変な子じゃないですか!? 池で泳ぐとか! 好感度が流れ去っていきますよ! 池だけに! うわぁぁぁぁぁん! 自分で言ってて全然上手くないよぉぉぉっ」


 ボロボロ涙を流す大家さん。

 大家さんの涙で池の嵩が増えたように錯覚してしまう。


 ヤバイ。何がヤバイってこの光景を見られたら俺がヤバイ。

 大家さんを泣かせてる時点でかなりギルティーなのに、傍から見るとこれ俺が大家さんと突き落として泣かしたように見えるんじゃないだろうか。

 実際は大家さんが自主的に泳いでたんだけど、事実が捻じ曲がるなんて珍しくもないもんな。アニメ化における○ュッケバインとか。


「サブヒロインは嫌だ……実質メインヒロインの10分の1くらいしかルートがないヒロインは嫌だ……」


 何やら意味不明なことを言いつつ、目からハイライトを消し体を掻き抱く大家さん。

 ここで俺の好奇心が爆発して『滑りだぁぁぁい!』と某帽子のように叫びだしそうになったが、何とか抑えることができた。


 俺はなんとか大家さんを泣き止ませようとした。


「だ、大丈夫ですって! さ、下がってませんから! むしろ上がってますよ! ほ、ほら……池で泳いじゃうとかマジでワイルドですよ! 可愛い大家さんにワイルド感が合わさって最強ですよ!」


「……ほ、ほんとですか? 嫌いになってませんか? 魚臭いんだよこの半漁ZINが、とか思ってませんか?」


「何言ってるんですか。俺が大家さんのことを嫌いになるなんて……絶対ありませんよ。例え何があっても」


 俺は本心で答えた。

 確かに池で泳いじゃう大家さんには若干ひいたが、それで大家さんを嫌いになるわけない。

 それに俺、モビルスーツの中じゃゴッグとか好きだしな。ジオン水泳部最高!


「い、い……」


 大家さんが顔を伏せた。

 ぷるぷると震えている。水中、ぷるぷる震えている……これは……俺の想像が正しければ……今すぐ池に飛び込むべきじゃなイカ!?

 心の中のナポレオンが『ハイニョーシルバー!』と勢いよく叫んでいる。

 ワニに嚙まれて命を失うリスクよりも圧倒的なリターンがある。その可能性だけで十分だった。

 よし飛び込むか!


 しかし俺の想像した行為(いわゆるCC。シーシーと読む)とは違ったようで、顔をあげた大家さんは何やら感極まった顔をしていた。

 どうも感動で震えていたらしい。


「い、いちのせさん……わ、私……嬉しいです……! 一ノ瀬さぁん!」


「ちょ、おまっ……!」


 感極まった大家さんが俺の脚にしがみ付いて来た。

 体がバランスを崩しそうになる。これがゾンビなら喜んでサッカボールキックをお見舞いするのだが、相手は大家さんだ。そういうわけにはいかない。


「トキメキました! チョロインって言われてもいいです……! 私、今の言葉嬉しかったです……! キュンキュンしましたっ」


 体の密着度を高めるように深くしがみついてくる大家さん。

 最近エリザのご飯はおいしいし、春だから食が進むしで、体が緩みきった俺はそれに耐えることができず……池に落ちてしまった。

 水の中で特徴的なヒレと牙が目立つB級映画に引っ張りだこの生物らしき何かと目が合い、慌てて水面に顔を出す。

 同じように水面から顔を出している大家さんが目の前にいた。


「ぶはぁ!? 大家さんマジで勘弁して下さいよ! ていうか今さっきサメ……!」


「ご、ごめんなさい。つ、つい一ノ瀬さんの言葉が嬉しくて……ゆ、許してニャン?」


 クソが! 可愛いから許しちゃう!


 1度池に飛び込んでみると冷たくて気持ちいいし、スク水の大家さんが近くにいるしで、結局泳いでしまった。

 結果オーライってやつだな。

 でも、防水スマホがちょっと壊れて画像が全部吹っ飛んでたのはショック。これはもう大家さんに責任を追求するという名目で撮影会を開くしかないな……。



■■■


「あははー。2人ともびしょびしょですねー」


 池から上がった俺たちは、大家さんの部屋に向かっていた。体を拭いてくれるらしい。

 俺は部屋で着替えるからいいと言ったが、大家さんがどうしてもと聞かなかったのだ。

 池に引きずり込んだ責任を感じているのだろうか。


「先にちょっと着替えてくるんで、そこで待ってて下さいねー」


 大家さんの部屋に案内されて、指示通り敷かれたタオルの上に座る。

 大家さんはというと、部屋の中にある大きなクローゼットの中に入ってしまった。

 クローゼットの中から、ごそごそ衣擦れの音が聞こえる。どうやら中で着替えているらしい。

 大家さんがスク水を脱ぐところを想像して、興奮よりも寂しさを覚えてしまった。もう大家さんのスク水は見られないと思うと、悲しい。大家さんのスク水の似合いっぷりたるや、彼女の為にスク水が生まれたのではないかと錯覚してしまうほど。恐らくはスク水を司る系の神にそれはもう愛されているのだろう。


「あっ、これその辺に置いといてもらえますか?」


 とクローゼットの中から大家さんの手だけが出てきた。手には先程まで着ていたスク水が握られている。

 慌てて受け取る。

 当然ながら湿っている。だがそれでいて温かい。大家さんの残滓を感じる。

 スク水を持っていた手が引っ込んだ。そのままゴソゴソ音が再開された。

 今大家さんは全裸……いや、今はそんなことはどうでもいいんだ。重要なことじゃない。


「ゴクリ……」


 生唾を飲み込みながら、自分の手にあるスク水を見つめる。

 なんてこった……。まさかこんな風にして大家さんの脱ぎたてのスク水を手にすることになるとは。こんなイベント死海文書にも書いてなかったぞ?

 俺の人生でこの先、大家さんの脱ぎたてスク水を手にするなんてイベントが起こるだろうか。いや起こるまいよ。

 自分の中で悪の部分がむくむく成長しているのを感じる。


 成長した悪はこう囁いた『選べ!』と。




・貰う

・ギる

・頂く

・ゲットする

・受け賜る

・拝借する

・パクる



 脳内にそんな選択肢が浮かんだ。黙って返すという選択肢はないらしい。

 だが脳内議会でも全開一致でパクる方向で進んでいる。理性である俺はそれを止めなければならないのだけど……現物が自分の手にあるという誘惑には勝てなかった。『しょうがないよ。辰巳君は悪くない、うん』よし。脳内エリザからも許可が出たことだし、戴いてしまおう。


 だがどうする? このまま懐に収めたところで、無くなったことに気づいた大家さんにすぐバレるだろう。

 そして速やかに通報……はないか。だが、少なくとも大家さんの好感度は下がってしまう。


 方法はないか。例えばそう……他に代替品があれば……。

 代替品? そうだ!


「思い……出した……」


 俺の脳内に過去の記憶が蘇った。メタ(具体)的に言えば10話の記憶を。

 あの日、大家さんから大量にエリザの服を貰った。そしてあの中に――


 俺は大家さんに気づかれないようにこっそり部屋を出て、猛ダッシュで自分の部屋に帰った。

 タックルする勢いで部屋に飛び込む。


「辰巳君おかえりなさーい――そして行ってらっしゃい!?」


 部屋に入るやいなや、俺が帰ってくるタイミングを見計らっていたのか玄関にいたエリザの脇を通り抜け、秘密の小部屋からスク水を回収した。

 そのまま速攻で大家さんの部屋に戻る。


 そして……今持って来たスク水と脱ぎ立てのスク水を……すり替える!

 それを鞄に仕舞う!


「――ミッションコンプリート」


 ほぼ無呼吸で部屋を往復したので、息が苦しい。

 だが俺はやり遂げた……俺はやり遂げたのだろうか……?

 鞄の中には確かにスク水の重みがあった。どうやら本当に成功したらしい。

 

 大家さん3種の神器の1つ『脱ぎたてスクール水着』を手に入れた――!


 やったぜ! あと2種類を手に入れた暁には、晴れて大家さんに求婚を申し込めるとか……!


 喜びの余り脳内ポイズンベリー状態の俺がガッツポーズを取っていると、クローゼットがパタンと開いて、和服に着替えた大家さんが出てきた。


「はいはーい。お待たせしましたー。いつもの大家さんですよー……ってどうしました一ノ瀬さん? ガッツポーズなんかして」


「はぁ!? な、なにがですかぁ!? どこからどう見てもいつもの一ノ瀬辰巳ですけど!? 普通の大学に通ってるんですけど!?」


「お、落ち着いて下さいよ一ノ瀬さん」


 人生最大のイベントをクリアした俺の内心は未だ興奮冷めやらない。

 普通ではない俺の様子に大家さんが戸惑っているのか首を傾げたまま、タオルを手にして俺の背後に回った。

 

「と、とにかく体拭きますから……なんかさっきよりも濡れてませんか?」


「き、気のせいですよ」


「まるで全力疾走と後ろめたいことを同時に行ったような冷や汗が……」


 この時以上に『気のせい』という言葉を多用する日は、2度と訪れないだろう……。


 


■■■



「ささ、一ノ瀬さん。タオルで拭きますねー」


 タオルを渡してもらえば自分で拭くと言ったが、聞き入れられなかった。お詫びのつもりとのこと。

 されるがままに体を拭かれる。

 小さな体で一生懸命俺の体を拭く大家さん。

 他人に体を拭かれるのなんて久しぶりだ。

 昔、学校帰りの大雨に降られて泣きながら帰ったら、ぶつくさ言いながらも体を拭いてくれた母親を思い出した。


 体を拭かれながら、大家さんの部屋を眺める。

 俺の部屋と同じ間取りの6畳の部屋だ。先ほどのクローゼット以外に、丸テーブル、化粧台、テレビ……とどこにでもある女性の1人部屋。

 が、そのどこにでもある部屋、俺の部屋だとただの壁に当たる部分に――引き戸がある。

 引き戸の先は……隣の部屋だ。

 何と大家さん、大家権限で隣の部屋との壁をぶち抜いて使用しているのだ。ついでに言うと隣の部屋にも同じような扉がある。つまり3部屋を繋げているってことだ。

 隣の部屋は超デカイモニターが鎮座しており、それを囲むように○ァミコンから最新ゲーム機が置いてあるゲーム部屋。

 その隣の部屋は、天井まで届く巨大な本棚がみっちり詰まった漫画部屋だ。


 初めて大家さんの部屋に上がって、俺がゲームや漫画を好きって話をしたらもじもじ恥ずかしそうにしながら、その部屋を見せてくれた。

 大家さんと同じ趣味があって嬉しいと思うより、自分より圧倒的に上を行くその趣味のコレクション率に敗北感を感じたのは懐かしい。

 

「それにしてもアレですねー。時間が経つのは早いですねー」


 大家さんが体を拭きながら言った。

 俺は頷いた。


「ですね。もうここに越してきて3か月ですか」


「ええ。あっという間でしたねー」


 大家さんの言う通り。この3か月はあっという間だった。俺の人生で最も濃い3か月だった。

 大家さんと出会ってこのアパートで初めて1人暮らしを始めて、大学で遠藤寺に出会って、デス子先輩のサークルに入って……それからエリザと出会った。自分が1人暮らしだと思っていた1ヶ月間は実はエリザとの2人暮らしだと知って、それから2ヶ月。

 何が驚きって色んなことがあったわりにはまだ3ヵ月しか経ってないんだよな。○イの大冒険と同じくらいの時間しか経ってないとか……。


「一ノ瀬さんと初めて会ってからもう3ヵ月も経ったんですねー」


「初めてといえば、あの日大家さん庭で寝てましたね」


「……うっ。お、覚えてましたか……だ、だってあの日、すっごく暖かったですもん!」


 はっきりと覚えている。

 それくらい鮮烈な記憶だった。ロリ大家さんなんて漫画くらいでしか見たことが無い生き物に、初めて出会ったのだから。


 眠っていたことを指摘された恥ずかしさを誤魔化すように、大家さんが咳払いをした。


「そ、それにしてもですね。最初に一ノ瀬さんを見たときは、すっごく驚きましたよー」


「驚いた?」


「はい、それはもう。何せあの私が考えた空想のキャラであるジャイス――げふんげふん! い、いやアレです。えっと……そうです! そうですよ! 春なのにマフラーをしてる一ノ瀬さんを見て凄く驚いたんですよ!」


 途中『あ、やべえ』みたい口調になった大家さんだが、苦し紛れに証拠を突きつけるなるほ〇君のように俺のマフラーを話題に出した。。


 マフラー? 


 ……あ、俺ってそういえばマフラーしてたんだっけ。そうだよ。 

 何か俺自身うっかり忘れてたし、殆どの人が忘れたと思うけど……マフラーしてたんだった。やべー……自分のことながら完全に忘れてた。こんなんじゃイラスト化した時に『なに勝手にアクセサリー増やしてんだよ! 原作じゃこんなんなかった』って原作厨のラッシュをお見舞いされるところだった。ついでに言うと眼鏡もしてるんだよな。

 今更だが俺やべーな。メガネにマフラーとか、滅茶苦茶キャラ立ち過ぎじゃね? こりゃヒロインを差し置いてフュギュア化待ったなしだな。その際はマフラーは勿論、流○馬みたく盛大にたなびいたデザインにして欲しい。


 それにしてもこのマフラー、着けているのを忘れるくらい付け心地に違和感がないんだよな。

 服はまだじっとり湿ってるのに、マフラーは完全に乾いてるし。


 でも春なのにマフラーってやっぱり変なのかね。


「やっぱりこのマフラー気になります?」


「ええそれはもう。だって一ノ瀬さん、ずぅっとそれ着けてるじゃないですか。暑くないんですか?」


 暑いか暑くないかでいうと、そりゃ暑い。

 風通しのいい素材で作ってくれたからか、この季節にしてはそこまで汗をかかないが……暑いものは暑い。

 だが外そうと思っても外せないのだ。

 恐らくはこれを編んだ雪菜ちゃんの呪いがかかっているのだろう。呪いなんて信じていなかった俺だが、幽霊がいると分かった今はありえる話だと思っている。


「もう慣れましたから」


「そうですかー。でも……似合ってますよ。それがあるお陰で、遠くからでも一ノ瀬さんが分かりますから」


「あはは、ありがとうございます」


「個人的にはバスターソードとかも似合うと思うんですけど……どうです?」


「何が?」


 マフラーの話から、何でバスターソードの話になるんだろうか。

 大家さんは悔しそうな声で「惜しかった……! もう少し上手いことやれば、一ノ瀬さんジャイス化計画が進展していたのに……!」と意味不明なことを言っている。


 大家さんに頭を拭かれている時に気づいたが、このタオル大家さんの匂いがする。

 もしかすると大家さんが体を拭いたタオルなのかもしれない。

 普通だったら、自分を拭いたタオルを使いまわすなよと怒るべき場面だろうが、俺にとってはGOHOUBI以外のなにものでもなかった。なんだったらタオルだけでなく、大家さんが使った箸や歯ブラシを使いまわしてもいい。というかお願いしたい。


「それにしても、最近の一ノ瀬さんは楽しそうでいいですねー」


 脈絡なくそんなことを言われたので俺は「へ?」と間の抜けた声で返してしまった。


「楽しそう、ですか?」


「はいー。毎日が充実してるっていうか……いわゆるリア充? みたいな?」


「リア充って俺には縁遠過ぎる言葉なんすけど……」


 生まれて初めて言われた。

 が、今の生活が充実しているかそうでないかと聞かれると……かなり充実している。

 

 大学に入る前の生活が無味乾燥じみた心が動かないものだっただけに、今の生活は毎日がキラキラ輝いている。

 朝起きてエリザとご飯を食べて、大家さんに見送られて、学校で遠藤寺と授業を受けてデス子先輩とサークル活動をする。帰ったら大家さんが迎えてくれて、エリザの作った夕食を食べる。

 これといって大きなイベントのない日々だが……楽しい。毎日心が動くのを感じる。

 大家さんに言われたことで自覚した。今の生活は楽しい。


 大家さんがクスクス笑いながら、続けた。


「初めて会った頃と比べると大違いですよ。特に目がキラキラしてます。」


「目、ですか?」


「はいー。初めて会った一ノ瀬さんの目は、こうなんていうか……えっと……」


 大家さんが口淀んだ。

 思い当たる節があったので、言ってみる。


「金魚すくいで最後まで底の方に残っちゃう金魚みたいな目、ですか?」


「あ、それ! それですそれ! ……あっ、いや……そ、そうではなく。そ、そうです! こう、何ていうか、繰り返し同じ漫画を読んでるみたいなつまらなそうな目です、はい!」


 途中フォローする発言が入ったが、どうやら金魚の目は正解らしい。

 これ、昔、雪菜ちゃんに言われた言葉なんだよな。雪菜ちゃんって基本的に俺に対してキツイこと言って楽しんでるところがあるから、この言葉も本気にはしてなかったんだけど……大家さんに言われた以上、間違ってはいないらしい。


 実際、今の生活を送るまで俺の人生は正直かなりつまらないものだった。

 普通の小学校生活を経て、退屈とはいえないが辛い中学生活。それから灰色の止まったような時間の高校生活。

 一番多感な時期である中学生の頃の記憶は辛い記憶しかなく、高校生活の記憶は恐ろしいほど残っていない。

 だが今は違う。毎日の生活が色濃く、新鮮で温かい記憶が蓄積されている。

 それもこれも周囲にいる人間のお陰だろう。


「やっぱりアレですか? 大学生活が楽しいからですか? あ、そうだ! お友達は増えました?」


「いや、ずっと友達は1人だけですね。でも、まあ……いい奴ですよ。一緒にいて楽しいし」


 初めて遠藤寺と友達になった日、そのことを大家さんに報告するととても喜んでくれた。

 その後、一向に友達が増えない俺に対して色々助言はくれたものの、今のところ友達は遠藤寺だけだ。

 俺は満足しているが、大家さん的にはもっと俺に友達が増えて欲しいと思っているらしい。


 俺の報告にちょっと残念そうにため息を吐いた大家さん。


「……もっとお友達がいた方が楽しいですよ? ……あ、でもあんまり増やしすぎると今度は私と遊んでくれなくなるジレンマ……ぐぬぬ」


「それです。あんまり友達多いと大家さんと遊べないですからね。そう思うとあんまり友達作る気にならないって言うか」


「友達できないのをサラッと私のせいにするの止めてくださいねー」


 グシグシと抗議するように頭を拭われる。


「あとはそうですねー。一ノ瀬さんが特に楽しそうに見えるようになったのは、幽霊ちゃんのことがあってからですね」


 確かにそうだ。エリザが一緒に暮らすようになってから、俺の生活は更に潤いを増したように感じる。

 自分を肯定してくれ、好意を持ってくれる相手との生活は心地がいい。

 テレビとか見てて何気なく呟いた一言に対して答えてくれる存在がいるのは、些細なことだが嬉しいものだ。

 何よりも毎日の食事が本当に美味い。最近ますます料理の腕に磨きがかかって、外で食べる食事に物足りなさを感じてしまうこともある。


 最初こそ他人と生活することに対して、多少の不安感はあったが……今はエリザがいない生活なんて考えられない。それくらい俺の生活の一部になっている。


 だが、何よりも俺の生活が楽しいのは、この人がいるからだろう。


「でも今の生活が一番楽しいと思える理由は他にあるんですよ」


「ほほーう? 気になりますね。あ、もしかしてぇ……可愛い大家さんがいるから、なんちゃって!」


「あ、それです」


「ふぃっ!?」


「あいたぁ!?」


 大家さんが小鳥の鳴き声のような声を出して俺の頭を小突いた。


「あ、ご、ごめんなさいっ! びっくりして手が滑っちゃって……。え、えっと……何か私が難聴系主人公じゃなかったら、今、一ノ瀬さん……私といるのが一番楽しい理由とか何とかかんとか……」


「そう言いましたよ。今更ですけど、俺によくしてくれて本当にありがとうございます。いつも遊んでくれるのも、親元を離れて寂しさを感じてる俺を気遣ってくれてたんですよね」


「い、いや最初はそういう面もあったんですけど……。一ノ瀬さん、すごい趣味が合うから普通に遊ぶのが楽しみって言うか……下心もありありっていうか……あ、最後のはなしで!」


 大家さんへの感謝の言葉は自然と出てきた。

 

 ずっと一緒だった雪菜ちゃんたちと離れた1人きりの生活に、言葉には出さないが寂しさを感じていた。

 そんな俺を大家さんは気遣ってくれた。

 生活する上で困ったことがないか、大学で友達はできたか、学校は楽しいか……。

 まるで母親みたいな言葉だが、その雰囲気は長年連れ添った友人のようであり、俺は彼女に何でも話すことができた。

 大家さんと話すと元気が出て来るし、かったるい帰り道も大家さんが出迎えてくれると考えれば足も軽くなる。


「大家さんといると楽しいですよ。あんまり考えたくないですけど、もし大家さんがこのアパートの大家さんじゃなかったら、俺、金魚の目どころか売れ残って捨てられた鯛焼きの目をしてたかもしれません。だから、その……ありがとうございます。大家さんでいてくれて」


 感謝の言葉を伝えるのはどうしても慣れない。言葉もかなり支離滅裂だ。

 俺が人としてのレベルが低いからだろう。人との付き合いが希薄だったツケが今になってきてるってわけだ。

 でも、こういう勢いがついた時じゃないと言えない。


「大家さんと会えて本当に幸運だったと思います。来来世くらいまで運を使ったかもしれないですけど、まあそれでもいいと思ってますし」


「ちょ、ちょっと一ノ瀬さん……すとっぷ! そ、その言葉は私に効く……!」


「もし大家さんといなかったら俺、一人暮らしする決心つかないで実家に引きこもってたと思います」


「ま、まってまって……セーブ! セーブさせて下さい! え、こんな胸キュンイベントくるなんて聞いてないですよ……! 準備してないですよぉ……」


 大家さんが何やら言っているが、ここで言葉を止めてしまうと次いつ言えるか……。

 今の勢いで言いたいことを言っておきたい。

 時にはテンションに身を任せるのも重要って対○さん家のレオ君が言ってたしな。


「だから……ありがとうございます。お礼言うくらいしかできませんけど、心の底から感謝しています。1人暮らしを始めた俺のすぐ側にいてくれて……ありがとうございます」


 ずっと言いたかったことを言えた。

 言い切ったことで胸の奥に生じた満足感がぼんやりと暖かい。


 ここで俺はハッと我に帰った。

 感謝の言葉を伝えるという、普段しないことをしたせいかどうも勢いづいて喋り捲ってしまった。 

 思い返してみると、どうも恥ずかしい……いや、キモイことを色々言ってしまった気がする。


「……うぅ……ぐぅぅ……」


 背後から大家さんの苦しんでいるような声が聞こえた。

 俺の感謝が長文かつあまりにもキモ過ぎたからか?

 くそっ、感謝って難しいな……。もっと正面から『いつもありがとうございマース!』って感じで感謝のバーニングラブをするべきだったか?


 首を回して、大家さんの方を見ようとする。


「わあっ、こっち向いちゃダメですっ」


 が、頭を抱きしめるように固定されたため、後ろを向くことができなかった。


「い、いま私、あかん顔をしてるから見ちゃダメですっ。て、ていうか一ノ瀬さんなんですか急に! こ、こういうのはもっとこう事前にお知らせしてくれないと困りますよっ。……私、そういう直球の言葉に弱いんですからぁ」


 ほういいことを効いた。大家さんは直球の言葉に弱い、と。

 ここでまさかの共通点。

 俺もなんだよとっつぁん(誰だよ)

 

「ぜ、ぜったい見ないで下さいよ……ああ、もう……顔が熱い……!」


 『絶対』『熱い』の言葉が最早フリにしか聞こえなかったが、今はそういう雰囲気じゃないので自重した。


「何かすいません。急にこんなこと言って」


「本当ですよっ。本来ならもっとこう、今から真面目かつ胸をキュンキュンさせるような台詞を言いますよー、みたいなBGMを流してからでしょうよ!」


 三種の神器を持ってこいってクエストより難しい要望だな……。


「……ふぅ。もう、いきなりそんなこと言われたから、びっくりしましたよ。でも……嬉しいです。私の存在が一ノ瀬さんの『楽しい』の中心になってるのは……う、嬉しいですけど……かなり照れますね。……照れ過ぎて死にそうなんですけど……うぅ」


 後頭部から伝わる大家さんが発する熱で、汗をかいてきた。

 頭を抱きしめられているからか、大家さんの言葉が吐息すら感じられるほど近く、くすぐったい。

 あと、大家さんの胸が後頭部に当たって幸せ。


「……むむぅ。本来なら『可愛い大家さんがいるから』って私の言葉の後に一ノ瀬さんが『は、はぁ? そんなわけないでしょう?』みたいにドギマギしながら言って私が『どうしたんです一ノ瀬さん? 顔が赤いですよ。図星……ですか?』的な一ノ瀬さんを大人の私が手玉にとるみたいな展開を予想していたのに……箱を開ければ照れ殺されているのは私……! 何を言っているのか自分でも分かりませんが、私も何をされたのか分かりませんでした……!」


「大家さんってアレですよね。テンパると饒舌になるタイプですよね」


「人が照れくささを誤魔化そうとしてるところを冷静に観察しないでくださいっ」


 抗議するようにギュギュウと頭を締め上げてくる。

 非力な力で痛みはないが、それ以上に胸が後頭部に押し付けられる。俺が探していた圧迫祭りの会場がこんな所にあったとは……。

 

「ぐぬぅ……このまま責められっぱなしだと、納得いきません。というわけで私からも、一ノ瀬さんに言いたいことがあります」


 先ほどの早口気味の言葉から一転して、落ち着いた口調に変わった。 


「――私もなんですよ」


「はい?」


「一ノ瀬さんは、私と一緒にいて楽しいって、そう言ってくれましたよね。――私もですよ」


 それはつまり――


「私こんなんですから、アパートのほかの皆さんは私のことを娘だったり、孫にするみたいに接してくるんです。それがイヤってわけじゃないんですけど、やっぱりどこか距離を感じちゃうんですよね。大家と店子だから距離があって当然なんですけど。でもやっぱり少し寂しさと感じたりするんです」


 いつも楽しそうな大家さんに、そんな悩みがあるなんて知らなかった。


「私が差し入れとか持っていくと『えらいね』って褒めてくれるんですよ。何ていうか料理を覚えたばかりの子供が頑張ってるのを見守る……みたいな感じで。確かに私は大家になって日が浅いし、先代……おばあちゃんに比べると威厳とかはないと思いますよ。でも……もうちょっと同じ視点で接してくれると嬉しいって、そう思ってたんです」


「大家さんは立派に大家さんやってると思いますよ」


「えへへ、ありがとうございますっ。で、一ノ瀬さんは私のことをまるで友達みたいに、凄く身近に接してくれるんですよ。差し入れ持って行くと凄く喜んでくれますし、一緒にゲームをするとお互い手加減抜きで楽しんでる、自然に。一ノ瀬さんといると大家って立場でありながら心の底から一緒に楽しめるんですよ」


 大家さんがいくつかは知らないが、色々大変なこともあるんだろう。

 俺が知ってる限り、このアパートには大家さんと歳が近い人間はいない。

 今まで等身大の彼女と接してくれる相手はいなかったんだろう。

 俺が普通に友達のように、言い換えれば慣れ慣れしく接している――


「それだけですか?」


「それだけですよ。それだけのことが嬉しいんです」


 そう言って大家さんは、俺の頭を抱きしめる腕をギュッと強めた。

 

「だから私も――楽しいですよ。一緒にいて、一ノ瀬さんが私といて楽しいと思っている以上に……私はもっともっと楽しいと思ってます」


「大家さん……」


「だから私も――ありがとうございます。……えへへっ、お返し成功ですね」


 大家さんがくすくす笑っているのが、後頭部越しに伝わる。

 感謝を伝えてよかったと思った。やっぱり感謝って大切だな。 

 あとは正面からこういう言葉を伝えることができればいいんだろうけど、まだまだ難しそうだ。


 後頭部の拘束が緩んだので、体ごと振り返る。


「あ。も、もう……見ちゃだめって言ったのに」


 大家さんは照れくさそうに笑っていた。

 その顔は頭から首の後ろまで真っ赤になっていた。


「大家さん顔赤いですね」


「一ノ瀬さんもですよ」


 いつも言わないような感謝を伝えて、大家さんからも感謝を伝えられたせいだろうか。

 顔が熱い。


「えへへ」


「あはは」


 大家さんの笑みに釣られるようにして俺も笑った。

 ひとしきり笑いあった後、俺と大家さんは無言になった。

 だが、嫌な感じの無言ではない。心地のいい雰囲気だ。

 お互い思っていたことを伝えたからだろうか。心が通じ合った気がする。

 大家さんとの間に、見えない空気の糸みたいなものを感じた。


「……」


 大家さんが突然目を閉じた。


「……ん」


 大家さんがそのまま口を突き出した。


 大家さんが目を閉じたまま、20秒ほど経過した。

 一体なんなんだろうか。

 ジッと見ていると、大家さんが震える口を開いた。


「――え、えっと……まだ、ですか?」


「は?」


「へ!? い、いや流れ的に……え!? 違うんですか!?」


「だから何がですか?」


 大家さんが言っている意味が分からない。

 目を開けた大家さんが、落ち着きなく部屋のあちこちに視線を向ける。

 口が金魚のようにパクパク開いたり閉じたりを繰り返す。

 挙動不審以外のなにもでもなかった。


「で、でも……えぇー!? 今がその時だって感じだったじゃないですかぁ!?」


「何すか? ゲッター○ボの主題歌がどうしたんですか?」


「いやぁぁぁっ!」


 俺が本気で理解していないことを悟ったのか、更に顔を真っ赤にして目をグルグルと回した大家さんはそのままクローゼットに飛び込んでしまった。


「どうしたんですか大家さん!?」


「ルート突入だと勘違いして内心ガッツポーズしてた大家さんはいません! 私今からタイムマシンを探しに旅に出ます! さっきのなかったことにします! うわぁぁぁん! 恥ずかしいよぉぉぉ!」


 クローゼットを前に呆然と立ち尽くす俺。

  

「コミニュケーションって難しいな……」


 大家さんの奇行の理由が分からない俺は、まだまだコミニュケーションのレベルが低いんだろう。

 いつか大家さんが何をしたかったのか、分かる日が来るのだろうか。

 だとしてもそれはだいぶ先の話だろう。

 そう思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る