第4話

(しゃ、しゃべれた……!)

 佐藤圭一は心の中でガッツポーズを取った。

 時間は朝の8時過ぎ、自宅の玄関先である。

 会社へは体調が悪いので少し遅れて出社しますと嘘の連絡をしたところだった。腹痛かと上司には笑われたが、そうです!と大声で返して電話を切った。腹を下したと思われたと思うが、それどころではなかった。

(やった!連絡先も交換できた……、あの中野さんと!)

 中野由衣子。同じコーポに住む彼女を、圭一はよく見かけていた。

 出社や帰宅の時間が重なり、連日エレベーター付近でかち合うのだ。会釈をする程度の仲、ご近所さんと言えるほど親しくはない仲。証拠に、今日まで圭一は由衣子がどの部屋に住むのかは知らなかった。つい先程、同じコーポに住む小学生が捨て猫を拾うまでは。

 その場に居合わせたのが、圭一と由衣子、近所に住むとかいう木本という老人だった。

 お互いに出社や登校が近い中、一番暇がありそうに見えた木本はダンボールに入れられた子猫をちらりと見るとさっさと帰ってしまった。泣いている小学生と圭一、由衣子が取り残されてしまったわけだが、そこでと圭一が名乗り出た。「一時的に預かります」と。

 それで、由衣子とラインの交換、お互いの部屋番号まで知れ、一気に距離が縮まった。圭一の部屋303号室の1階上、斜め右の402号、そこが由衣子の部屋だと教えてもらったのだ。預かった猫に何かあれば気軽に連絡をくれと、そう言って彼女は仕事へ行った。

 去った後には、何だか良い匂いが残っていた。

 圭一はすれ違うだけの由衣子に以前から恋をしていた。

 自分の職場、溶接工の工場や事務所ではまず見かけない女性だった。ちょっと年上かな、とは思っていたが関係なかった。体にピタリとあったスーツにすっと伸ばされた背筋、会釈をする時の控えめに小首を傾げる仕草。全体的に冷たそうな雰囲気だが、たまにエレベーターではスマホを見て微笑んだりもしている。特別美人でもなく、特段可愛い雰囲気もない。けれど、毎日すれ違うたび、圭一は自然と由衣子に憧れを抱くようになっていた。

 ふと、手元からフミャ、ともフニとも言えない小さな高い鳴き声が聞こえた。

「あぁ、悪い。……すぐに洗ってやるな」

 圭一は抱えたままだったダンボールをそっと玄関のたたきに下した。

 上着を脱ぎ作業着の腕をまくる。……本当は、作業着での出勤は禁止されている。禁止されているが面倒くさいので、上着とだぶだぶのズボンを上から履くことでごまかし出勤していた。会社についたら、上着とズボンを脱いでしまえば良い。そういう自分の良い加減な性格は嫌いではなく、けれど時々反省しなければいけないような事態も引き起こした。反省も苦手なので、つい、何かことが起こっても見逃してしまうのだけど。

 ダンボールを覗くと、小汚い黒い子猫がミャ−ミャ−鳴き喚いていた。口を目一杯広げて鳴くので、小さな口の中が丸見えだ。牙は、小さく、口の中は赤い。手を差し伸べると縋り付いてくる爪は鋭く、仔細に見ても、目やにで潰れている目以外は怪我などはしていないようだった。

「良かった……」

 圭一が猫好きと言うのは本当だった。猫も犬も鳥も、動物は大好きだ。今の稼ぎではペット可の物件に住めないし、一人きりでいる時にペットの相手をしてくれる相手もいない。だから諦めてはいるが、いつかはと思っている。

 子猫は異臭を放ち、黒い毛は濡れて捩れていた。風呂に入れて温め、目元はガーゼか何かで拭いてやらないといけないだろう。小さい頃に猫を飼っていたので、なんとなく世話の仕方はわかる。仕事で怪我も多いので一応の手当キッドも手元にあった。

「頑張れよ。すぐにキレイにしてやるからな」

 圭一は優しく声をかけた。

 無骨な指に爪を立てる子猫は、その声の大きさが外に漏れやしないかと気になるほどに元気だ。先程までの震える様子と比べておかしかった。

 一度、子猫を箱に戻し、圭一は手早くタオルや新しいダンボール、ドライヤーなどを揃えた。自身は裸足になって、裾をまくる。きっとこれでもびしょ濡れになるが、裸で洗うには寒いので仕方ない。

「よし、やるか。……病院は明日以降だな」

 流石に仕事を休むわけにはいかない。

 子猫を片手に、圭一はユニットバスの扉へ手をかけた。

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