第16話 夜明け

 『憎悪ぞうお』――この言葉がポツンと、まるで水面に水滴が落ちるように脳裏に落ちた。瞬間、記憶が遡って行く。


 あの日。姉ちゃんの誕生日後。

 俺はあの屋敷から逃げた。

 あの光景が、あの断末魔が、あの絶望が……あの不思議で残酷な怪奇が、怖くて恐ろしくて仕方なかったからだ。


 (今、それを思い出してどう思う?)


 自分に問いかける。しかし答えは同じだった。またあの光景を見せられれば、俺はまた逃げるだろう。その真実から……。

 しかし今、ポツンと生まれた――『憎悪』と言う言葉。今まで忘れていたような感覚だった。 


 (その感情はどこで生まれた?)


 そう問いかけた時……分からなかった。俺がもう一度あの光景を見ても、『憎悪』と言う感情は生まれないだろう。もう一度逃げる選択肢を取るに違いない。

 すると矛盾が生まれるのだ。

 現に不思議でたまらない。俺は未だにあの光景を見れば恐れ戦く……。ならば憎悪などではなく恐怖心が勝り、憎悪などと言った感情は湧いてこないはずだ。現に俺はそうだった――はずだ。


 そもそもなぜ俺は、『使? 

 

 あの光景だけで、『憎悪』する相手が天使だと思った理由が分からない。しかし天使は俺を狙っている? そして俺のこの天使への嫌悪の感情。訳が分からない。

 

 と、言うか――俺が屋敷を抜け出した後の行動が分からない。

 東ミズチに言われるまで、自分でも気がつかなかった。なんせ記憶がないと言う感覚がないのだ。どこかにいたと言う記憶は確かにある。しかし何処と問われれば……分からない。

 記憶が抜かれていると言う感覚はないが、自分の自我が姉ちゃんの誕生日よりも成長していると言う感覚はある。

 ……考えれば考えるほど分からなくなる。


 ただ今は――『憎悪』のために力が欲しい。

 その感情は無意識下に置かれた。憎悪が芽吹く時まで。


 ◈ ◈ ◈


 午前九時。地上一階。

 そこは林村亮太がオーナーの喫茶店。開店まで後一時間程度。その開店前の奥のテーブル席に、私、日下部結菜とミズチは朝食を取っている。女装メイドの柊さんが入れてくれるコーヒーは格別で、本当に美味しい。

 そして目の前でミズチは眼鏡をテーブルに置き、運ばれて来た

コーヒーに、角砂糖六個と、ガムシロップ三杯を流し込み、せっかくの味を台無しにしている。


 (コーヒーはブラック一択でしょ……)


 前にその味が気になったので飲ませて貰ったが、それはコーヒーではなく、砂糖水を流し込んでいるような感覚だった。これならばカフェオレの方がまだマシだ。


 (私、知ってるよ。ミズチはコーヒー嫌いだって。紅茶の方が好きだって)


 それなのにも関わらずミズチは、毎回コーヒーを飲む。本当に何を考えているのか分からない。しかし頼りにはなる。実際にじっちゃんが姿を消した現在、周りの事・人間を動かしているのはミズチだ。

 そしてそのミズチが今、途轍とてつもない大きな壁ぶち当たっている。


 「どう……彼の事……?」

 

 ミズチは一度「はぁ……」とため息をつく。

 そして険しい表情をしながら、静かに苦笑いをして、


 「クロム……アイツの敵は天使? 見えない奴で、存在するのかも分からない。いや、存在するはずがない奴が敵? ……冗談だろ?」


 ミズチは今揺れ動いているのだ。クロムを匿うか否かの決断を。

 あの件から一日が経過した。地下一階にいた人達が一人を残して全滅。地下二階もほぼ死亡。そして地下三階はなんとか無事だったのだが……。

 因みに地下一二階にいた人達はみんなミズチの部下ではなくミズチの組長さんの部下だったらしい。偶然にもその人達だけが犠牲になってしまったが……。

 そもそもこんなにも被害が大きくなったのは、地下施設の通信機器に何者かがハッキングしていたかららしい。本来ならば非常用の防火扉や、直ぐに緊急事態を知らせるアラームがあったらしいのだが……その機能は完全にロックされていた。

 そしてまんまと敵に蹂躙されてしまった訳だが、


 (彼のおかげ……)


 敵は誰だったのかは現在調査中だが、彼がいなかったら全滅していたのだろう。あの時、どう制圧したのかは分からないが……。ミズチが言うには、私と彼以外は原型を留めていないほど、グチャグチャになっていたそうだ。

 要するに彼はヤバい奴だけど、借りが出来た……と言う状況なのだ。


 それにミズチにはもう一つ重要な事がある。それは本名・名前が彼にバレてしまったのだ。これは極めて異常事態なのである。

 そもそも東ミズチと言う名前は、私とじっちゃんを含めて、両手で数えれるかどうかの人間しか知らない。つまり逆に知ってると言う事は、裏の事などを知ってると言う事になる。

 例えばじっちゃんがリーダーの組織『アンティキティキラ』とか……。

 要するに彼はイレギュラーな存在なのだ。


 「日下部……お前はどう思う?」


 ミズチは疲れた声で聞いてくる。

 私は少し考えて、


 「私と彼が……あの場所で襲われた事の説明が付かない……。あれは何だったの?」


 自然と声が震えた。そしてあの橋の下の事を思い出す。

 確かに私は見えない何かから、何かを撃たれていた。それは周りから聞こえて来た音や、貫通痕で分かる。

 そして何よりも……身体が……勝手に動いたのだ。私が彼から武器を奪おうとして……。しかしその何かは最後まで、いや、終わってからも分からなかった。


 戦闘終了後、彼は倒れてしまった。そして私は呆然とその……突然目の前に現れたそれ――女性の死体をただただ見ていた。

 その女性の死体には大きな謎があった。それは絶対になければならない物が傍にない。私はミズチが駆けつけてくれるまで、倒れた彼を看病しつつ、ずっとそれを探していた。


 それは凶器。

 あれ程の音や貫通痕があれば、サプレッサー付きの銃やボウガン位の凶器が、死体の近くに落ちているはず……。それなのにも関わらず武器のぶの字もなかったのだ。

 

 そしてその時、私はその死体に違和感を覚えた。最初は薄々だったのだが、それが徐々に真実へと導かれてった……。顔面は半分に割れて、顔の原型はない。

 しかし、


 「――さっきの……おばさん?」


 その顔は私が野次馬の中で、何があったのか聞いたおばさんだった。意味が分からない。私はパニックになる。今まで私達を殺そうとしていたのは、あの話しかけたおばさん。

 ……それを考えてだけで、今でも震えが止まらない。要するにずっと私を追って来ていたという事。

 しかし私はあの橋の下に行くまでに、何度も何度も辺りを確認している。ならば別ルートからと言う事になるが……そちらは警察が張り込んでいた。

 そもそもだ。何でこの人は、襲う理由もない私達を襲ったの? 


 その時は分からなかった。

 しかし彼の話を聞いていると……。まだ分からない部分もあるが、だいたいの辻褄が合うのだ。

 

 「大雑把だけど……彼の話に従えば、辻褄が合う。それに……私を守ってくれた。この地下を守ってくれた。だから……彼自身は凄く優しい人なんじゃないかなぁ……」

 「……どうだかねぇ」


 それに私は聞いて見たかった。なぜ私を二度も助けてくれたのか? なぜ自分の危険を冒してまで、私を守ってくれたのか? それにまだ私はお礼も言えていない。


 「大事なのは敵じゃなくて、彼、クロム君自身なんじゃないかな? 悪い人じゃないよ……。絶対に良い人だよ」


 私は彼の姿を思い出しながら言う。私にとって彼は……クロム君は……。

 するとミズチは半目で、

  

 「お前……何でそんなにもアイツにこだわるんだ? まさか……」

 

 ミズチは目を見開いて何かを察した表情をする。

 対して私は、ミズチが何を察したのか分からなかった。


 「ん、どうしたの?」

 「……いや、なんもねぇ。ただ日下部が、他の人間に好意的な興味を持つ事が珍しいな……と。忘れてくれ」


 (……?)


 本当に何を考えているのか分からない。

 そこで私はふと気になった事を聞いて見た。


 「そう言えばあの橋の下の……物は?」

 「全部ここの地下に入れたぞ。大変だったんだぜ……。警察が銃声が聞こえたとか、どうとか言って……。俺も圧力をかけるのは疲れる」


 と、言う事は……。


 「アレも?」

 「……あぁ」

 

 あの燻製もあると言う事。正直アレはあまり好きじゃない。私は少し憂鬱な気分になる。

 そして数十秒後ミズチが、

 

 「はぁ……決めた。アイツをどうするか……」


 疲れた声で言った。

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