最終話 わたし、日本の神になる

 神々が慟哭していた。

 天はいたるところで瞋恚(しんに)の稲光を発し、彼らの流す憂いの涙は、一寸先も見えないほどの豪雨となって激しく地に降り注いでいた。


 守らねばならない――


 守らねばならない――


 日本を、お国を、人々を、守らねば、守らねば、守らねば、守らねば――



 深夜、大沢は再び祠を訪れていた。彼の支援企業の一つである建設会社の名義で一通の手紙が届いたためだ。

 祠のある山を調査したところ、金鉱脈の可能性があることがわかった。相談をしたいので内密に祠まで来て欲しい。書面にはそう記されていた。


 大沢が差す透明のビニール傘を、大粒の雨だれが大きな音を立てて叩き続けている。

 大沢は残る片手に持った懐中電灯を正面にかざした。

 豪雨の向こうに鳥居が見えるや、彼は思わず顔をしかめる。


 相変わらず気色悪いところだ。


 信心のかけらもない大沢でも、何かが出てきそうな雰囲気だけは感じていた。


 鳥居の手前まで差し掛かったその途端。

 大沢の直感が差し迫る危機を察知した。彼の意思とは関係なく、剣呑な気配を受けて身体が反応する。

 ビタリとその場で足が止まる。

 途端、傘のビニール地を破り抜け、大沢の鼻先を掠めるように凄まじい勢いで槍が降ってきた。

 わずかに掠った槍先を受け、大沢の鼻梁に一筋の血が細く滲む。


 大沢は息を呑む。

 もしあと一歩前に出ていたら、脳天から串刺しになっていた。


 大沢は思わず数歩手前に後ずさった。突然の出来事に彼の手は無意識裡に開かれ、傘も懐中電灯も手放していた。

 激しい雨にスーツを濡らしながらも、大沢は前方を窺うように上体をわずかに突き出し、闇を透かして目の前にあるそれをあらためて見つめた。


 軍……旗……。


 大沢は眉根を寄せてそれを凝視する。

 日本軍。

 旧日本軍の軍旗がなぜか自分の目の前にある。

 それも前線で掲げられたものか、古びた布地はいたるところが綻び、無数の穴が空き、大きな破れまでもが生じている。

 軍旗が括りつけられている旗竿の末尾には、本来は穂先に取り付けるものだろう、旗槍が逆にはめ込んである。

 雷光を浴びて鈍色に光るそれが、大沢の目前で地面に突き刺さっていた。

 旗には何かが書いてある。遠くに蠢く稲光がほんのかすかにそれを照らす。

 ――寄せ書きだろうか。


 理解とは到底かけ離れた出来事に混乱しつつも、大沢が寄せ書きに目を奪われかけたそのとき。

 軍旗が降ってきた樹上から、追って何かが落ちてきた。

 塊のようなそれは、地に当たって湿った音を立てると、ぞるり、と立ち上がった。

 その動作は大沢の目に、ひどく禍々しいものを想起させた。

「……必ず来ると知っていた……」

 何かが口を開いた。呻くように低いその声は、人を寄せつかぬ噴火口のように深く、昏く、心火を帯びて震えている。

「愚か者め……」


 雷光が瞬き、闇を照らした。

「それ」の正体を見るや、大沢の背筋が総毛立つ。

 豪雨を越えて闇夜に浮かんだもの。それは、日本陸軍の士官帽を目深にかぶり、軍装の上に軍用の外套をまとっていた。そうして儀礼用の白手袋をはめた手で、巨大な軍刀を収めた鞘を握っていた。


 大沢の本能が瞬時に気取(けど)った。

 ――まずい。これは、なにか、とてつもなく、まずい。


 激しき雨の中、滂沱の涙もさながらに顎(おとがい)の先から滴を滴らせる、人のかたちをした何か――智子が歩を進める。

「ここには……なにもない……」

 智子が言葉を接(は)ぐ。

「貴様が……封を解いたのだ……」

 俯いた智子の顔は見えない。

 冷たい雨に長く打たれ、顔は血の気も失せて蒼白となり、しとどに濡れた黒髪は蛇のように智子の頬に張り付いて、その表情を隠している。

「な、なんだおまえはッ!」

 大沢の投げた声に智子が応じる。

「護国の……」堪え切れぬ義憤が、食い縛った歯の間から漏れてくる。「……鬼……」

 肚の底から湧き出る、低い唸り。

 視線が絡んだ。

 たちまちのうちに周囲が凍てつく。


 大沢の直感が心臓の鼓動と相まって最大限の警告を訴える。

 ――やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい――


 智子が放つもの――それは、命を捨てて刺し違える決意だった。

 その裂帛の気を浴びて、大沢は即座に怯む。

「わかった!」叫ぶとともに、さも当然のように大沢は言葉を接ぐ。「いくらだ! いくら欲しいんだ!」

 卑しき嘆願を耳にするや、智子はその目に炎を滾らせていよいよ激高する。

「貴ッ様ァッ! そうやってお国を金で売ってきたかァッ!」

 軍刀を収めた鞘をバットさながらに脇に振ると、渾身の力を込めて大沢の顎を殴り飛ばす。

 顔面に貼り付いた薄い肉のやわらかさを破り、枯れ木の折れる感触が智子の掌に伝わった。

 大沢の前歯が千々に砕け、血しぶきの合間に白い欠片が飛び散る。

 須臾(しゅゆ)の間も隔てず、のけぞる大沢の顔面から、鮮血にまだらに染まった唾液が糸を引いて辺りに撒き散らされた。


 大沢がもんどり打って倒れた。しかしすぐさま上体を起こす。

 殴られた衝撃で、大沢の怯えは霧散し、代わりに激高がその身を席巻していた。

「おまえッ!」口元を両手で覆った指の間から、だらだらと鮮血を垂らしつつ、大沢はくぐもった声で怒鳴る。「おまえ! ただで済むと思うなよ!」

「何かァッ!」

 大沢の威圧は、智子の激甚たる怒号でたちまち弾き返される。

「国賊風情がァッ! やってみろッ!」

 丹田よりの気迫とともに智子は抜刀した。


 鞘を捨て、青眼で軍刀を構える智子の姿を目の当たりにするや否や、たちまちのうちに大沢は悟る。

 大沢とて汚い世界で危ない橋を渡ってきた身。世を知らないわけではない。

 大沢の怒りと智子の決意。

 そこにあるのは覚悟の差だった。

 智子には壮烈なる覚悟ができていた。


 死の覚悟。


 智子にとっては自分が死ねば世界が閉じる。それはすべてが終わることだ。

 しかし、それであってもお国のため、ご英霊のため、先祖のため、責任をもって自らの命を捧げる。


 ――これは、神さまへの最後のご奉仕。


 すべてを捨てる覚悟を決めた智子にとって、今や、この世の一切が自分自身だった。


 かたや大沢にとって日本とは、金づる。成功するのが当たり前、失敗すれば他人のせいにして逃げ回るだけの体の良い金づるに過ぎなかった。

 儲けた金をうまく使って周りの連中を蹴落とし、自分の欲を満たす。ただそれだけのものだった。


 その魂の差は歴然――


 ――わたしの命、くれてやる……

 ――その代わり……こいつを……


 智子が一歩踏み出す。

 大沢の背に戦慄が走る。


 ――死が――


 尻もちを突いたまま、大沢は、本能的に後ずさる。


 智子がさらに一歩踏み出す。

 大沢は、さらに一歩、後ずさる。


 ――死が、迫ってくる――


 大沢の心が折れた。

「や、やめてくれッ……」

 大沢は泣きそうな顔を浮かべると、智子を押し止めるように血まみれの両手を前に突き出した。

 大沢の履くスラックスの股のあたりが黒々と惨めな痕を作り出す。


 大沢を見下ろし、智子がこともなげに言葉を投げる。

「死ね」

 その声は野ざらしの骨のように乾いていた。



 魂心の一太刀。

 智子は奥歯を噛み締めて刀に全体重を預けると、己の身体をぶつけるように大沢の腹めがけて刀を突く。



 反射的に大沢は、尻を掲げ、後転するように不格好に両足を上げた。

 大沢の股ぐらの間、地面に軍刀が深々と刺さった。


 ――勝機


 大沢はそれを見逃さない。


「調子こいてんじゃねえぞ、このメスガキがぁッ!」

 ドスの利いた声を上げ、大沢は真っ黒なものを露わにした。

 それは、金と欲にまみれた人生を歩んできた、彼の魂そのものだった。


 足を戻すや、全力の殺意を込め、智子のみぞおちを真下から蹴り上げる。

 智子の胃袋が大沢の踵に潰される。吐き出された空気が智子の喉奥からひしゃげた音となって噴き出した。

 息が詰まり、白手袋をはめた智子の手がズルリと滑って軍刀から離れる。


 足が地を離れ、放物線を描くように智子の小躯が宙を舞う。

 智子が吹っ飛んだその先は崖だった。

 頭から奈落へと消えてゆきつつある智子の姿を目の当たりにし、大沢は確信した。


 ……やった……。


 刹那。

 大沢は目を瞠る。


 それは、智子の外套が水を吸っていたせいか。

 それとも崖下からにわかに噴き上げた突風のせいか。

 崖の半歩手前――智子は妙に不自然な体勢で、どちゃりと湿った泥音を立て、仰向けに地に倒れ込んだ。


 風に乗った軍帽が高く天を舞う。


 それを見上げつつ、ほんのつかの間、智子は口元にかすかな笑みを浮かべていた。


 ――わたし、知ってるよ……みんなのこと……。


 わずかな間を隔て、死のにおいを充満させるそれが、再び、ぞるりと立ち上がる。


「あ……あ……」

 かたや、大沢は口を半開きにし、ガクガクと膝を震わせながら凍りついていた。

 しかし、その視線は、なぜか智子に向けられたものではない。

 恐怖に染まった大沢の目は、智子の背後へと注がれている。


 大沢は、観た。

 拳を固く握りしめ、こちらを睨みつける智子の背後から何かがせり上がってくるのを。


「わたしは……八紘一宇をもってして……世界のために散華した……」


 何事もなかったかのように、智子は大沢へと歩を進める。


 大沢の瞳から涙がだらだらと滴り落ちる。

 ――恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い――


「それ」が顕現するほどに、大沢の魂は恐怖に席巻されてゆく。


「我らが血肉の源たる、帝國日本のご英霊……その御霊(みたま)の上を……今、ここに……歩んでいる……」


 それは、

 それは、

 それは――


 大沢は、観た。

「あ……あぁッ……あッ……」


 智子の背後に顕れたもの――


 それは、一切衆生を救う光背もさながらに、威風堂々、大日本帝國の御旗を翻し、厳然と聳え立つ、巨神のごとき鋼(くろがね)の艦だった。


「わたしは……言った……」


 不意に大沢は低く震える大気の唸りを聞く。それで垂れ込める暗雲に目を馳せる。


 直後、大沢はいやいやをするように必死になって首を振る。

 ――神さま助けて神さま助けて神さま助けて神さま助けて神さま助けて――


 そこにあったのは胴翼に燦然と日の丸を誇り、天空を切り裂きながら、巨大な爆弾を抱え、神国日本を回天させるべく、たった一人、決死の覚悟で大沢めがけて飛び込んで来つつある、おびただしき戦闘機群だった。


「……お国を……」


 大沢はもう、気づくことすらできない。

 智子の声が、いつしか人のそれではなくなっていることに。

 彼女の唇から滴り落ちるもの。それは、深い深い地の底からの鳴動にも似た、響、だった。


 大沢は、魂で聞く。


「……我らの……愛しき……子孫たちを……」


 この世のものとは思えぬほどの殺気を浴びて、大沢の視線が自然と落ちる。


「……貶め……辱め……」


 そこにあるのは、智子の背を支え、凄絶なる殺意を籠めて大沢を睨みつける軍人たち。

 智子を先頭に、黒々とうねりつつも遥か地平線を越えてなお続く、二四六万、大日本帝國の全将兵だった。


「……苦しめようとする者には……」


 大沢はなにもできない。

 愚かな男はもう、なにも、できない。


「必ずや……罰を……下すと……」


 日本帝國軍――神々の構える砲身は、照準は、銃剣は、今や一つ残らずお国の敵を睨みつけ、全身に殺意を漲らせつつ、今か今かとひたすらに、突撃の合図を待っている。


 それは、智子の魂の顕れか。

 それとも――


「神の怒り! その身に受けよッ!」


 ――うおぉおおぉォォおッ!


 拳を震わせて天を仰ぎ、軍神――智子が咆哮した。


 天が呼応する。

 はらわたが裂けんばかりの轟音とともに、黒雲を割って稲妻が落ちる。


 屹立する軍刀めがけ、雷が、太く直撃する。


 ――世界が、純白に染まった。


 光に呑まれ、大沢は金切り声も同然の断末魔の悲鳴を上げる。

 しかし、その声すらも神の怒号にかき消される。


 落雷の衝撃で大沢の巨躯が吹っ飛ぶ。


 軍刀が粉々に砕け散った。

 引き換えに、日本を貶め、先祖の魂を売り渡し、自らの欲を満たそうと試みた男は、その卑しき魂に相応の、血と雨と泥と、そして己の小便にまみれた惨めな姿で失神した。


 智子の姿は忽然と消えていた。


 残るその場には、ただ、長きに渡る務めを果たし、日本国のため、命を捧げた英霊たちの名と共に軍旗だけがめらめらと燃え上がっていた。







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